真我の代用品

全ての夢

あなたが生まれてこの方追い求めてきた全ては真我の代用品です。追い求める、夢を追うということに対して、、、誰も不思議に思わないことに疑問を持つことはありません。小学校の卒業文集で「将来の夢は〇〇です」というメッセージを誰もが口にすることになぜ違和感を覚えないのでしょうか???なぜならば人間とは「〇〇になる」という夢を持つことがデフォルトだからです。何かを求めているのがデフォルト、これが人間です。ではなぜ何かを求めるのか????そこに真実のヒントがあります。

真我

我々はいつでも真我です。真我以外になりようがありません。真我でなかったことなどないのです。にも関わらず多くの方は「自分とは誰か???」と問われれば「この体でありこの思考でありこの感情」だと答えます。それは真我では絶対にありません。それは真我の反映の一部です。ですから我々は間違ったものを自分と信じて生きているのです。つまり我々とは幻想を自分自身と捉える思考のことです。全経験、全五感、全思考、全感情は現れては消える現象に過ぎず、、それに気づく気づきの存在が存在するにも関わらずそれを忘れ、、、、それらの所有者「私」を思考で作り上げたのです。それが「私」です。

真我を忘れ

万物である創造主である私の存在を忘れ、、、この幻想の世界の何かになりきった意識は、、、同時に分離感を生み出します。この分離感は自らを守らなくては!!!という恐れを生み出し、、この恐れは、、、あらゆる問題を起こし続けます。これが人生ストーリーです。恐れが常にあるからこそ、、恐れを解消してくれるだろう何かにしがみ付くのです。それが仕事でありお金でありパートナーであり地位や名誉です。ですがこれらは全て真我の代用品であって、、それは全て幻想です。この意識の中で、、、我々は幻想ではなく真我だという気づきに至るまでこの代用品探しは続くのです。

不平不満

非不平不満

不平不満が起こるのはなぜか????不平不満ではない状態を「知っている」からに決まっています。不平不満ではない状態をまさに今も知っているから、、、不平不満が起こるのです。もしも不平不満ではない状態が「記憶」として覚えているだけならば記憶喪失すれば不平不満は起こらないわけですがそうではない、、今もここに非不平不満があることをどこかで分かっているから不平不満が起こるのです。

不平不満こそが

不平不満こそが、、、非不平不満の場所を教えてくれています。最初は不平不満ではない状態が、、この世界にあるはずだ!!!!と、、、、探しに探します。自由の国アメリカが建国されたように、、、どこかにそんな場所があるに違いない、、、そう信じて探しに探し、努力に努力を重ねて目指すのです。ですがどうもそれは難しいようだ、、それは探して手に入るものではなさそうだ、、、という諦めが起こります。

内へ内へ

外にはそれはない、、そう諦め真理を探究しようとした瞬間、、、真理が使者を作り出し、、、自身の目の前、この幻想世界に遣いを送ります。それが覚者、賢者、グルと呼ばれる人々です。彼らは実在せず、、、幻想です。ですがその幻想は真我の使者です。この状態の時、、、賢者の言葉に救いを感じ、、徐々に徐々にそこに惹かれ始めます。賢者が最初に居たのではないのです。あなたの関心が真理に向かった瞬間、、、真理こそが使者を送り込んだのです。非不平不満が使者を送り込んだのです。

家族写真

幻想?????

全てが幻想なのは分かりました。。。でも、、、、家族写真がここにあって、、、これも幻想で、、、、だとしたらこの家族には何も価値がないということですか?????世界中の家族には何にも価値がないということですか????全く全く違います。あなたは今幻想を概念として捉え、、、、、だから、、、家族には価値がない、、、という概念をでっち上げたのです。幻想を幻想と感じたのではなく、、幻想と学んで覚えてイメージを作ったのです。あなたは幻想を幻想と100パーセント実感していません。実感していないからこそ「価値がない」という言葉を今吐き出したのです。

幻想の実感

この世界が幻想と分かった時、、、そうかこの現実と思っていた世界は幻想に過ぎなかったんだ、、という価値が幻想に下がった想像を多くの方はします。ですがこの発想では実感には辿り着きません。この世界を凌駕する存在に気づくことで、、、このありありとした「現実」を、、、超えた存在に出会うのです。その時、、、、この現実と呼ばれる半端なくリアルな世界が、、幻想だったというビックリする感動が起こるのです。

超現実に触れることで

現実を超える存在に触れることで、、現実の価値がさらに上がるのです。現実と呼ばれる世界がいかに凄いかが分かってしまうのです。現実と呼ばれるこの世界が我々の想像を超えた形で作り出されている事実に圧倒されます。まさかのこの現実の創造主が「私」だったのです。私こそがこの現実の生みの親だったわけです。この事実に気づいて「現実は幻に過ぎない、、、、」という価値を下げる感覚にはなりません。

無欲=叡智

ラマナ

ラマナ・マハルシは無欲=叡智と表現しました。叡智がここにある時、、、無欲になります。なぜ????なぜならば、、、叡智=真我であり、、、真我とは何か???が明確に分かっているからです。真我とは何か???真我とは全てです。私は全てだ、、という自覚が起こった時、、、、何かを求めるという衝動はどうしたら生まれるでしょうか????真我実現=無欲です。目の前に金品財宝が置かれているとしましょう、、心を惹きつける金品財宝です、、、、それに気づく気づきは紛れもなく実在であり、、、金品財宝は、、その実在の影です。永久不変の実在が存在するからこそ、、金品財宝が今ここに現れることができるのです。

不変

金品財宝が現れる前は存在しなかったわけです。それがここに現れることができるのは不変、永久不変の真我がここにまさに在るからこそ成り立つのです。ならばその金品財宝は、、、幻想であることが分かります。永久不変の実在に対して現れて消える金品財宝は「幻想」です。だから、、、、無欲になります。永久不変の実在の前に金品財宝は幻想に成り下がっていくのです。

絶対不変

絶対不変の実在が最初にあって、、その前を、、、幻想が移り変わって行きます。その幻想は、、真我の影であり、、、真我が無限だからこそ、、、影は無限の表現を続けます。この表現の一部を実在と思う、、という動きが起こり、、、、その瞬間、、、緊張感が生まれます。移り変わる幻夢が、、、実在に変わる瞬間です。ですが幻夢は幻夢であって実在ではありません。影は影であって影以外の実在ではないのです。

無限の絵画

ただそれを見ている

我々はこの世界の中を自由意志で生き抜いていると思っています。移り変わるこの世界の中でなんとか必死に生き抜いていると信じています。ですが事実では全く違います。本当は「これ」は無限の絵画です。無限の絵画が最初にあって、、ただそれを順次見ているだけなのです。だから明晰に明晰に観察してみてください。目の前の「これ」はただ無限に変わっているだけだと気づけませんか???この体の絵も含めてただ移り変わっていることに気づけませんか???思考という絵も含めて移り変わっているのみだと気づけませんか??

ただ入れ替わる絵画

本当は無限の絵画が最初にあってそれが移り変わっていくだけだから、、変化しているように感じるだけです。本当は無限の絵画が先ず最初に存在していて、、、次々にそれが映し出されるから、、変化しているように感じるのです。この変化しているように感じることも「絵画」には含まれています。時空間と感じる「感覚」すらも無限の絵画には含まれているのです。だから我々の人生は最初から決まっていると断言できます。にも関わらず自分でこの人生を切り開くという思考の絵画も無限の絵画には含まれているのです。

だから

大安心の中でこの無限の絵画を楽しんでください。苦しみとはこの世界を自由意志で自己責任で生き抜かなくては、、、という緊張感のことです。この自分を守って生き抜くのだ、、というこの緊張が苦しみなわけです。ですが最初から無限の絵画が存在していてそれを順次見せられているだけなのだ、、という事実は、、この緊張を骨抜きにします。つまり苦しみが飛んで消えさっていくのです。そして苦しいという感覚も最初からこの絵画には含まれているのだからそれはそれで問題は何もないのです。問題すらもしっかりと絵画には含まれているのだからそれでいいのです。

時間というイリュージョン

真我創造

時間は幻想です。時間という言葉が存在するということは誰しもが「時間」を感じているということです。時間を感じることができないのならば「時間」という言葉はこの世界から消えて無くなっているでしょう。つまり時間は確実に感じることができるわけです。だからこそ時間は幻想なのです。認識できるからこそ時間は幻想と断言できます。

なぜ?????

時間をガッツリと感じることができるのだから、、、時間は幻想と断言できます。木を木と認識できるのだから木は幻想です。風を風と認識できるからこそ風は幻想です。では種明かしをしましょう。。。認識できる全ては幻想です。その証拠にその認識できる全ては「熟睡時」消え去っています。認識できる間違いのない存在の全てが熟睡時に跡形もなく、、消え去ります。これこそが、、時間が幻想である決定的証拠です。

つまり

時間も空間も認識できますよね????この現在という時の流れの中で、、カップラーメンを食べる際に「3分」という時間の流れを確実に感じることができるわけです。だからこそ幻想なのです。熟睡時にそれらは全て消え去ってしまうのですから。あれ????時間はなぜ消えた???空間はなぜ消えた????なぜならばそれらは、、、幻想だからです。

ラスベガス

ラスベガスのショーでは確実に確実に「人間が真っ二つに切り裂かれたように」見えるわけです。ですが最後には全く何も損傷を受けていない「人間」が登場します。だからこそそれはイリュージョンだったと断言できます。時間も空間も同じこと、、、100%あるように感じることができるからこそ「熟睡時」に跡形もなく消え去り、、、そうか、、あれは幻だったんだ、、、と気づくのです。何もかもあっていいのです。なぜならば熟睡時に消え去ることで全ては幻と気づかされるのですから。

自我実現

自我の完成

自我実現という状態があります。自我が実現するのです。自我が実現するためには、、記憶を作り出していく必要があります。周囲からの声掛け、、これを毎日毎日毎日行うことで、、、、この体を自分とする記憶が形成されていきます。周囲からこれを毎日行っていくことで徐々に記憶力が形成されていき、、言葉を覚える力がついていきます。この声掛けによる記憶力の増加こそが自我形成に大きく影響します。もしも周囲から一切の声掛けが行われない場合、、記憶力が成長せず、、、自我形成も、、、自我実現もままならないようになるでしょう。

周囲の影響

自我とは記憶が支えます。記憶とは、、、言葉による思考形成ですが、、、これは周囲の影響を強く強く受けます。英語で記憶力が増加した人は英語による記憶が構築されていきます。日本語ならば日本語による記憶、、、環境によって全く違う記憶が形成されるのです。自我実現とは、、、その国の言語によって形成されます。ですから使う言語によって自我の形成は当然異なっていくのです。何語によって自我が形成されたのか、、これは大きな影響を与えます。

真我実現

真我実現は、、、まさに記憶された言語によって誘導されます。自我実現に至らせた言語を用いて次は真我実現に向かうのです。自我ありきの活動では真の至福には至れないことに気づいた「意識」は自我ではなく真我にこそ至福があると予想を立てます。そして真我とは何か????という究極の疑問に向かって動くのです。真我とは何か????自我形成、自我実現に向かっていくプロセスのように真我実現に向かって思考が動き始めます。

カルマの燃焼

お前は今日から首だ

今日からは会社に来なくていい、お前は今日から首だ、、、、このようなことを突然言われてしまったらどうしますか????「え????私が何をした???」「え???もしかしてあの日の態度が悪かった???」「社長、、もしかして病気??」「明日からどうしよう、親に何て言ったらいい???」、、、、エンドレスに続く思考の渦、、、1万に及ぶのでは???というほどの思考の波に襲われます。。。。。。。はい、、ここで断言します、、、この思考の渦、この量の多さが「カルマ」の大きさです。

ストーリー

この私がストーリーに飲み込まれれば 飲み込まれているほどに「思考の渦」は津波のように襲ってきます。台風、ハリケーン、大津波、、のごとくです。これをカルマと呼びます。勘違い思考にいかにどっぷりと浸かっているか、、、ただそれだけです。断言しますが全て「想像」です。私が会社をクビになったというのは想像です。だからその想像のリアリティの強さだけ、、思考の渦が起こるのです。

いやいや、、、

いやいや、、、会社をクビになったのは事実、、、明日から職を探さなくてはならないのも事実、、、電気代水道代の請求書が来るのも事実、、、どこに「想像」と言い切れる事実があるんですか?????はっきり言ってください。ズバッと言ってもらっていいですか????ではお答えしましょう。。。あなたは大前提としてこの世界を実在と信じています。この体も実在と信じています。そしてこの実在の体を実在の世界から守らなくてはならないと信じています。その信念こそがこの「世界」を生み出したという事実に気づいていないのです。

つまり

この世界もこの体も「実在」ではなく「実在の影」です。実在が実在としてドカンとここに君臨しているからこそ「影」が紛れもなく認識されているのです。。それが、、、「これ」です。今も紛れもなく「これ」が存在しているのは無敵の王様「実在」がここに君臨しその影を眺めているからこそです。だからこの世界は影です。この体も影です。影というのは特徴があって「実在」には何一つ影響を及ぼすことができないということです。この事実をハッキリと思い出した時「影」の様子が変わってきます。おどろおどろしい世界が、、、ただの影に変わり、、、恐れが消えます。

私なくして世界は存在できるか??

私が最初???

よーく、よーく思い出して欲しいのですが、、、、生まれて1年もすれば、、、名前を呼ばれ続けて、、、名前をひたすらに呼ばれ続け、、、、最初に覚えたのが「名前」でした。世界の存在を教わる前に、、、名前を最初に覚えます。名前を覚えた後に、、、どうやら私は地球という惑星に生まれたのだ、、、とどこかで知ります。幼稚園に通っている時、、地球の存在は実は分かっていません。小学校高学年辺りで太陽系に属すぐらいは知ります。そうです、、、我々は最初に「自分」の存在から覚えていきます。

つまり

世界とは私ありきなのです。私の存在から始まって世界が生まれたのです。先ず最初に私があって、そこから両親、友人、会社、日本、地球、太陽、、、と広がっていきます。もしも私が消えてしまったら、、、、友人、知人、配偶者、社会、、、全てが消えてしまいます。つまり社会とは私との関係性で成り立っているのです。だから「私とは誰か??」これが分かってしまえば全ての無知は消え去ります。

真我

真我とは本当の私のことです。本当の私????そんな存在が存在するのですか???そうです、存在するのです。本当は私とは至福そのものであって不幸とはまるで無縁の存在です。そんな不幸とは無縁の至福そのものが私であるにも関わららず、、、今不幸が起こりまくっています。。。。なんで????なんで???本当は至福でしかないからこそ「不幸」に違和感を感じ、、それを解消しようとする動きが起こるのです。人類90億人が全く同じ動きを見せます。

この不幸

この不幸は一体何だ????というパニックが起こっています。至福でしかない自分自身に不幸が降りかかっているのですから当然です。愛でしかない自分自身に愛ではない感情が起こっているのですから当然です。その解消方法をこの世界に求め彷徨っているのが「人生」という茨の道です。だから釈迦は悟り「人生とは苦である」と説いたのです。人生が苦であるのならば救いがない???その通りです。人生には救いがないのです。なぜならば人生とは偽りの自己、自我の物語だからです。

誤認識

不幸とは、、この真我の影である世界の中の「この体」を私とする誤認識が生み出しました。ただそれだけです。この世界は真の私の影であり、、実在ではありません。実在しない影の中のこの体を実在とする動きが起こるという誤認識が起こったのです。これにより、、この体を世界から守らなくては、、という更なる誤認識が起こり、、、恐れが生まれました。その恐れが固定観念となりこの影の世界に投影されたものがこの世界です。誤認識が誤認識を起こし続けているのです。誤認識の連鎖です。

真実に帰れば

この影の世界は確実に存在します。もっと正確にいえば影は確実に存在します。影自体は実在です。ですがその影を、、影ではない、、固定された何か、、、と誤認識した時から苦しみが生まれたのです。目の前の「これ」は影です。真の私の影なんです。影ですから、、変幻自在、、、現れては消えます。にも関わらず「私」という確固たる存在がいて世界という確固たる時空間があって、、とそこに想像物語が生まれてしまったから、、苦しいのです。この誤解が消え去った時、、、本来の自己、、真我だけが残ります。それが愛、至福そのものです。

獲得ではなく捨てる

真我

我々は真我です。我々は「至福」です。我々は愛です。なぜ愛であり至福である我々が何かを獲得したがるのでしょうか???あり得ないことです。愛であり至福である我々はただそれだけで至福であり愛なのですから何かを得たいという衝動はあってはならないのです。つまり何かを強烈に手に入れたい衝動の奥には「不幸」が確実に存在するのです。だから何を手に入れようとしないでください、それに多くの時間を費やすのを辞めてください。そうではなく根本の不幸を捨てるのです。

どうやって?????

愛であり至福そのものである我々が不幸になること自体がおかしなことです。ではどういう経緯で不幸が生まれてしまったのでしょうか???愛であり至福がなぜ不幸に陥るという事件が起こったのでしょうか???そこを知る必要があります。ではお答えします、、、、、、。愛であり至福である我々は、、、、大前提として愛、至福以外になることができません。どう足掻いてもそれ以外にはなれないのです。一瞬でも愛、至福以外にはなれっこないのです。つまり今、我々は愛であり至福そのものです。

え?????

真我である我々は至福、愛以外にはなることができません。ですから何も心配しないでください。あなたは今も愛であり至福そのものです。では不幸はどこに生まれたのでしょうか????不幸は真我ではなく、、真我の影の中で生まれたのです。真我自体は愛であり至福ですから不幸になるチャンスがありません。ですからもしも不幸が現れ得るとするならば真我の影以外には不可能なのです。真我の影、、つまりこの世界の中でしか不幸は現れないのです。

この世界

なぜこの世界でのみ不幸や孤独、苦しみが起こり得るかといえば、、、ここは真我ではなく真我の影だからです。至福、愛そのものである真我では不幸は起こることはできません。だからここ、真我の影でのみ、、不幸が起こっているのです。だとしたらですよ、、、この世界が消えてしまえば、、、不幸も消えるのですよね???だったらこんな世界ない方がよくないですか????それがそうではないのです。この世界、この真我の影はなくてはならないのです。真我は愛であり、至福であり同時に無限でもあるのです。だからその無限の中には影も含まれているのです。

じゃあ

それは分かりました、、、じゃあじゃあ、、不幸を消すことはできないのですか???それができるんです。この不幸は勘違いが作ったのですから、、、、勘違いが消えてしまえば、、、不幸、孤独、苦しみという感覚も消えます。その勘違いが、、、この世界を実在とする考えです、この私を実在とする考えです。この勘違いこそが苦しみを生んだのです。真実では、、、この世界は真我の影であって、、実在ではないのです。この私もあなたも彼も全て影です。だから何一つ実在するものがないのです。

では

つまり、、、見える世界には何一つ実在するものがないにも関わらずこれを実在と勘違いして、、不幸が始まりました。ですから我々がやるべきことはただ一つ、、、全ては影であって実在は存在しないと思い出すことです。その瞬間獲得できる対象も獲得できる私も消え去り、、、ただ実在である真我だけが残るのです。真我だけが残った時、、至福、愛が、、、この影の世界に湧き出てきます。不幸や苦しみが影の中に現れません。影は影そのものとして自覚され、、、真我の影に戻るのです。