私が最初???
よーく、よーく思い出して欲しいのですが、、、、生まれて1年もすれば、、、名前を呼ばれ続けて、、、名前をひたすらに呼ばれ続け、、、、最初に覚えたのが「名前」でした。世界の存在を教わる前に、、、名前を最初に覚えます。名前を覚えた後に、、、どうやら私は地球という惑星に生まれたのだ、、、とどこかで知ります。幼稚園に通っている時、、地球の存在は実は分かっていません。小学校高学年辺りで太陽系に属すぐらいは知ります。そうです、、、我々は最初に「自分」の存在から覚えていきます。
つまり
世界とは私ありきなのです。私の存在から始まって世界が生まれたのです。先ず最初に私があって、そこから両親、友人、会社、日本、地球、太陽、、、と広がっていきます。もしも私が消えてしまったら、、、、友人、知人、配偶者、社会、、、全てが消えてしまいます。つまり社会とは私との関係性で成り立っているのです。だから「私とは誰か??」これが分かってしまえば全ての無知は消え去ります。
真我
真我とは本当の私のことです。本当の私????そんな存在が存在するのですか???そうです、存在するのです。本当は私とは至福そのものであって不幸とはまるで無縁の存在です。そんな不幸とは無縁の至福そのものが私であるにも関わららず、、、今不幸が起こりまくっています。。。。なんで????なんで???本当は至福でしかないからこそ「不幸」に違和感を感じ、、それを解消しようとする動きが起こるのです。人類90億人が全く同じ動きを見せます。
この不幸
この不幸は一体何だ????というパニックが起こっています。至福でしかない自分自身に不幸が降りかかっているのですから当然です。愛でしかない自分自身に愛ではない感情が起こっているのですから当然です。その解消方法をこの世界に求め彷徨っているのが「人生」という茨の道です。だから釈迦は悟り「人生とは苦である」と説いたのです。人生が苦であるのならば救いがない???その通りです。人生には救いがないのです。なぜならば人生とは偽りの自己、自我の物語だからです。
誤認識
不幸とは、、この真我の影である世界の中の「この体」を私とする誤認識が生み出しました。ただそれだけです。この世界は真の私の影であり、、実在ではありません。実在しない影の中のこの体を実在とする動きが起こるという誤認識が起こったのです。これにより、、この体を世界から守らなくては、、という更なる誤認識が起こり、、、恐れが生まれました。その恐れが固定観念となりこの影の世界に投影されたものがこの世界です。誤認識が誤認識を起こし続けているのです。誤認識の連鎖です。
真実に帰れば
この影の世界は確実に存在します。もっと正確にいえば影は確実に存在します。影自体は実在です。ですがその影を、、影ではない、、固定された何か、、、と誤認識した時から苦しみが生まれたのです。目の前の「これ」は影です。真の私の影なんです。影ですから、、変幻自在、、、現れては消えます。にも関わらず「私」という確固たる存在がいて世界という確固たる時空間があって、、とそこに想像物語が生まれてしまったから、、苦しいのです。この誤解が消え去った時、、、本来の自己、、真我だけが残ります。それが愛、至福そのものです。