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最初そこには山があった、、次にその山はなくなった、、最後にそこにはまた再び山が現れた、、、これ禅の言葉です。最初、我々の目の前には間違いなく現実と呼ばれる山があります。次にこの全てが幻想と見抜かれます。その時、この山は幻想ですから、、既に山ではないことが見抜かれます。ですが、、、なぜこの幻想があるかと言えば、、実在である真我が存在し、、、その真我があるからこそ、、これが影として存在するのだ、、という理解に至るのです。その時山は、、影として実在するのです。
つまり
実在しか存在しないわけです。影の中身である山を実在とするのは勘違いです。ですが山を影と見抜き、、影として存在を認めるのならば、それは実在です。真我があってその影が存在します。その影はなくてはならない影であり、、真我は影を含めて真我なのです。その時、、、影の中身には存在意義があり、、中身に無駄な中身がないことを分かります。全ては完璧であり、何一つ無駄がない影です。この世界は真我の影ですが完全完璧な影の内容を司っています。
ノーコントロール
影をこういう風に動かそう!!これは不可能です。影の動きはノーコントロールです。真我には主体的な意志は存在しません。故に真我の影の動きにも何も自由意志はありません。だから我々の人生と呼ばれる影はノーコントロールでこれまで生まれてきたのです。そしてこれからも全く変わらずノーコントロールで人生は進みます。ですがもう人生という実在がないことも分かっています。人生は真我の影としては実在です。ですが影ですからそこには何の実態もないのです。真我は実在し影も実在です。それ以上もそれ以下もありません。影の内容は非実在です。