誘惑を避ける

真の意味

我々は周囲を誘惑で囲まれています。お酒、タバコ、異性、ギャンブル、高級品、、、あらゆる誘惑で周囲を囲み、、それに興じて生きています。ですがふと不思議に思うのは、なぜそれらの誘惑品は摂取しても摂取しても毎日それを求めるのでしょうか????一般的に考えれば、、昨日散々タバコを吸ったのならば、、、もう今日はお腹一杯になってもいいのではないですか????そうです。それらは貪れば貪るほどに欲するのです。つまり全くお腹いっぱいにはならないのです。ならないから今日も貪るのです。

もう既に得ている

だから今日貪るものは明日も貪ります。だってそれらではお腹いっぱいにならないことが分かっているのですから。そこに行くと苦しいのです。今日お腹いっぱいにしても明日もお腹が空いてそれを手に入れなくてはなりません。これを無間地獄と呼びます。そこにいっちゃあお終いよ。。。。です。ではどうするか???ではどうしたらいい????回答、、、それは一度手に入れたら、、もう二度と手に入れなくてもいい「何か」を見つけるのです。今日手に入れてしまったら、、明日はもうお腹が空かない「何か」を見つけるのです。それが真我と呼ばれるMONOです。

どうやって?????

じゃあどうやってそれを求めるのですか????どうしたらそれは手に入るのですか????ここで大きなヒントがあります。今までそれを手に入れることができなかったMONOは、、、幻想に過ぎません。これまで出現していなかったとしたらそれが幻想です。だってこれまでは「無かった」わけですから。つまり新しく出現するMONOでは駄目なんです。これまでも存在しこれからも存在するMONOでなくては駄目なんです。それは何ですか????そんなMONOあります????

この意識とこの気づき

ではそれを教えます。これまでも存在しそしてこれからも存在する「存在」を。。。。。それがこの意識とその気づきです。この意識です、、、この絶対に絶対に消えないこの意識と、、、、その気づきです。これは奪われたことがありません。これは消えたことがないのです。私とはこの幻想の中の何かではなく、、この意識とこの気づきなのです。だから私は決して消えたことがないしこれからも消えません。私をこのちっぽけな体の中のちっぽけな私と勘違いしたから、、おかしくなったのです。あなたはこの意識でありこの気づきです。世界という幻想はこの意識の中にスポッと収まる幻想です。いかに多くの誘惑があろうとも、、それもこの意識の中に現れでた誘惑に過ぎません。

因果のとこじゃない

そこじゃない

全てが愛と平和であることを完全に忘れ去った状態は、、因果での幸福探究マシーンが勘違いの記憶から作られます。退屈で退屈な世界で何か退屈を凌ぐ方法はないかと彷徨い歩くのです。もしかしてこれを手に入れれたら、、もしかして最高のパートナーを手に入れたら、、もしかしてホワイト企業に就職できたら、、、と夢をそこに託すのです。ですが最初からここは愛と平和であり、、それを忘れてしまった人間のこれは勘違い彷徨いです。

何かを

何かを手に入れれば幸福になれると推測したことから、、人はそのために行動を始めます。そのためには美容を気をつけよう、そのためには資格を取ろう、そのためには、、そのためには、、、、です。ですがこの策略は最初からピントが外れています。幸福は今ここに既に存在しているのです。今ここの幸福、愛に気づけていない状態でなぜ幸福になれるのでしょうか??愛に浸れるのでしょうか???不可能です。手に入る愛と平和は、、、幻想ゆえに必ず消えます。

因果の中で

人は因果の中で幸福になろうとするわけですが、、それが全て無駄なのは、、因果とは幻想思考のことです。幻想なんです。だから何が起こってもそれ幻想思考です。全てです。全て幻想思考です。だから3億円当たったぜ!!!も幻想思考です。最高のパートナーをゲットしたぜ!!!も幻想思考です。だから全て消えます。完全に消えます。消えることが最初から宿命づけられているのです。そんなものを人生のテーマにしてはダメなんです。

だが

仮にそうなったとしても、ほぼ全員がそれを行くのですが、、、それも全自動です。全部が全自動です。だからその流れに抵抗しないでください。因果の中での幸福を目指すならばそれはそうなっているということです。それでいいのです。それしかなかったのですから。何も問題はありません。そこに自由意志はありません。因果の中で幸福を探しまくってください。探求しまくってください。そしてそれが全て全滅した時、自動で真我探求に入ります。

この意識=魂=海

波=自我

我々はある日突然、この体を私とする思考に乗っ取られます。突然、、この体こそ私だ、、という思考に乗っ取られます。そこからは私体験がスタートします。全経験は私に収集されていくのです。これが波物語です。波として経験が積み上げられていきます。ですが事実では波としての体験など存在しません。経験が勘違いの記憶に収集されていくのです。この波としての経験の集積を「自我」と呼びます。一方我々は波でもあり海です。どこかでは海であることを知っています。その知っている存在こそが「この意識」であり魂と呼ばれる存在です。海はどこかで自身を海だと分かっているわけです。波物語がいかに進展していこうとも、、この意識である魂=海は、、波ではないことを知っています。だからそこに向かっていくのです。

みんなで海を探そう

個人個人の波が集まってみんなで海を探そう、、、とする動きが起こります。海という楽園がどこかにあるらしい、それを涅槃と呼ぶらしい、、、です。ですが海はどこか遠くにあるはずもなく、、ここが海です。海では波は起こりますが、、、それも海です。ですが、、波を独立した存在とする動きが「海」であるここで起こるから「どこかにあるはずの海」を探そうぜ!!!となるのです。海の中で波を独立した個人とする動き(水の動き)が起こっているだけです。海全体としては何も変わらず海は海なのです。

分かってきた???

何となく分かってきたでしょうか????海しか存在しない中で波が起こります。これはただの水の動きです。波の形状をした水の動きに対して、、、これぞ独立した個人だ、、、という水の動きが起こります。ですが全体では何も変わらずに海なのです。つまり我々は水の動きに過ぎず、、苦しみも、孤独も恐怖心も一種の水の動きに過ぎないのです。そして海は幻想です。波も幻想です。だから当然個人も幻想です。なぜ全てが幻想であると言い切れるかと言えば、、、、認識できる全ては「海」とは別次元で起こるからです。海の動きに気づくのは「別次元」の存在以外にあり得ません。つまり我々は確実に海とは関係ない存在なのです。波とも関係ない存在です。

最初に

この波、この海とは全く別次元の存在「真我」があって、、そこから海の動きがここに現れています。だから全海の動きは気づかれます。さらに、、、波の動きも気づかれます。ですがこの海の動きが変化し、、、現れては消えることができるのは「真我」が不変であり実在だからです。だからこそ真我の反映として「海」がここに現れ水の動きの全てがここで気づかれています。海は幻想です。水の動きも全て幻想です。真我は同時に愛であり平和です。だから、全てが明かされた時、、、ここに愛と平和が満ちてくるのです。

愛の反映

なぜ????

なぜ人は愛を求めるのでしょうか???世界中で「愛」という言葉は普遍です。なぜでしょうか???なぜ????それはこの世界自体が「愛」そのものの反映だからです。そもそもが愛でできています。愛でできているのですから、、愛そのものなわけです。そこに勘違いの思考が起こった時のみ、、、苦しみ、分離、恐怖の感情が起こるのです。愛の中でそれらの感情が次々に起こるのです。だから愛を探し求めるのは当然です、そして愛を一時も忘れることなど不可能です。

勘違いの思考

愛という青空に、、勘違いの思考がエンドレスに起こります。ただそれだけです。勘違いの思考が次々に起こり苦しみ、恐怖、分離が起こります。ですがそれらがいかに溢れても、、愛自体が損なうことは絶対にない、、、だからいつでも戻れます。愛そのものに、、戻れます。我々がやるべきことは「何が勘違いか」ただそれに気づくのみです。勘違いの思考という雲が消えればいつでも愛の大空が戻ります。

誰でも

悟りにおいて、、この人は不可能、、ということは絶対にありません。なぜならば勘違いの思考が消えれば青空に即戻ってしまうからです。全員が全員全く同じ条件です。言語が違えど勘違いの思考が起こればそれが雲となり大空を覆います。この覆った状態を「苦しみ」と言います。この雲さえ消えてしまえば、、大空、青空に誰でも戻ります。何が勘違いなのか???ただそれに気づくのみです。

物の見方

固定観念

世界にこの固定観念が反映し、、それが見える、、、、ではありません。世界自体が存在しません。物理空間自体が存在しません。ですから固定観念がそのまま、、ここに世界として現れます。自我も固定観念です。だから我々はただ固定観念を見ているに過ぎないのです。そしてその固定観念を「私」が見ることも不可能です。「私」も固定観念だからです。つまり何がここに起こっていようとも、、、それは「真我」によって気づかれているに過ぎません。

つまり

勘違いがそのまま「固定観念」になりそれがそのまま「これ」になります。そしてそれを「私」は見ることは不可能ですからそのままに「真我」によって気づかれています。この事実の理解が確実になっていきますと「固定観念」が崩れていき、、世界が変わるのです。世界=固定観念ですから、、そのまま世界が変わってしまうのです。真我はいつも真我です。世界は固定観念が生み出します。何がそこに映し出されようと「真我」以外にそれに気づくことはできません。

世界が変わる

固定観念が変われば世界がそのまま変わります。ですからただ何が真実かに気づくだけです。世界を変えよう!!!という動きは完全に勘違いの行動です。世界自体がそもそも存在しないのですから。幻想以外に世界は存在せずその幻想はそのまま固定観念の反映です。では固定観念が抜け落ちた時、世界はどうなるか????あるがままの世界がただここに起こります。それは幸福が反映した世界です。平和が反映した世界です。愛が反映した世界です。

中道

釈迦

釈迦は中道を説き「極端を避けよ」と教えたという逸話があります。私はこの中道という言葉がどうしても好きになれません。中道、、中ですから右でもなく左でもない、、、極端ではない、、、という意味にどうしても聞こえてしまう、、、、ですが悟りとは右も左も真ん中も全て「幻想だ!!!!」という気づきですから、、、真ん中を歩め!!!!という意味で世間に知れ渡るならばこれが完全に誤解釈であると思うのです。

真の中道とは???

真の中道とは、、、右に行っても左に行っても全部幻想だから、、、どっちでもいいんだと、、、です。これならば分かるんです。このことが分かった時「執着」が消えて自然と中道を歩むようになります。「超ゴージャス」も「超質素」も全て執着であり、、、その執着は「結果」にこだわってこそです。ですがその結果も幻想であって何ももたらさないことが分かった時、、、その執着は自然に消え、、、行動に不自然さがなくなっていきます。この状態が「中道」ではないか、、、と思うわけです。

絶対に成功する

絶対に成功する、、、も、、、何もせずに社会保障に頼って生きるも、、、、この二つは対局のようでいて、、、実は「結果」にこだわっています。一方は大成功が「幸福」を約束してくれるはずだ、、、、でありもう一方は成功するのも大変だからだったら徹底的に国を利用してやろう、それが実は「幸福」に違いない、、、です。ですがこの結果への期待は、、、その結果が「幻想」ゆえに裏切られるのです。その期待は「幻想」です。幻想は消える宿命にあるのですから、、必ずその幻想思考によって苦しむことが決まっているのです。

極端

極端な人、、というのは事実をシンプルに考え、、「生きるって見た目だよね」「生きるって金だよね」「生きるって人格だよね」と、、、、、極論に走る人を言います。ですがその極論は、、、、現れてしまった以上、、消える運命にありますから、、その極論で苦しむように必ずなります。「見た目が衰える」「お金で騙される」「人格否定にあう」、、、、などなど信じる「宗教」によって苦しむのです。そしていつか必ず手放さざるを得なくなるのです。真の中道とは「考え方」は幻想であり、、そこには向かわず、、真実のみに向かえという意味です。真実とは幻想ではなく絶対に消えない何かです。

真我は死なない

自我は死ぬ

真我は絶対に死にません。ですが自我は死にます。真我は死なないが自我は死ぬ、、、死んでしまう自我はその時点で幻想であることが証明されます。自我は幻想なのです、なぜならば消えてしまうのですから。親友が死んでしまった、、、なんて悲しいことか、、、、ですが死んでしまうということは「幻想」です。消えてなくなる存在は幻想なのです。そしてその事実、幻想が消える、、というこの事実に気づく存在は「真我」です。だからあなたは絶対に死にません。なぜならば幻想の出現と消去をこうやって気づいているのですから。つまり幻想を超えた存在なのです。幻想が幻想の出現に気づくことはできません。ですからあなたは今も立派な真我です。

そうなんだ〜

今このブログを読んで「そうなんだー」という思考が起こりましたね。。。これが今現れたわけです、、ということはこの思考は幻想です。「この意識」の中で現れ出た幻想です。「全然分からない」という思考が湧いたところで、、、それは幻想思考です。現れたのですから、、、そして消えます。「この意識」の中で現れ出て消えていく幻想思考は「この意識」でもあります。そしてそのことに気づく気づきが真我です。この意識の現れ、幻想思考の現れに気づく気づきが真我です。

残念ながら

残念ながら、、これら幻想の動きに気づいてしまっているのですからあなたは「真我」です。あなたは既に真我だったのです。幻想の動き、この意識の動きに気づいてしまっているのですから。意識は意識の動きには気づけませんよ。だって同じ次元の存在だから。。。。つまりあなたはこの体という幻想が出現した時から既に真我だったのです。真我が幻想として死ぬ????いやいやそれは絶対にあり得ません。真我は幻想ではなく幻想の動きに気づく存在です。

トキメキ

ドキドキ

恋愛依存症、、、そういう方居ますよね????なぜ????なぜ恋愛依存症ってあるのでしょうか????日々の不安や恐怖心、将来への危惧、、、あらゆる不快感をこの恋愛が一時消してくれるのです。だから、、、恋愛依存症というのが存在します。なぜ恋愛が不安や恐怖心を消してくれるのか???それが期待です。星の王子様かもしれないという期待が「高揚感」となり、全ての不快感を一時消します。ギャンブラーが、、一発当てれば「億万長者」という期待をしたくて、、、毎日賭けるのと全く同じ原理です。

演じる

だから恋愛とは期待と演技です。あなたにが「億万長者」並みの期待をしています。だから私も一生懸命あなた好みの女を演じます。「億万長者」並みの期待があるから私もそのためならば演技は何の苦労にもなりません、となります。そしてそれが成就し、、一緒に日々生活を送ることに。つまり現実を向かい入れることになるのです。ところが、、やっと手に入れたその現実は「あなたの不快感」を取り除いてはくれないことを知るのです。期待していた時は良かった、夢が膨らむから。。。。ですが実際に現実を手に入れた瞬間「期待」ではなく「現実」にシフトし、、もう夢を見ているわけにはいかなくなった。。。

演技の終了

なんだ、、こんなもんか、、、結局手に入れて見たものの、、大したことはなかった、、、、、、じゃあ演技もやってられない、、、、こうして恋が終わります。演技を終えた相手を見て「あなたは急に変わってしまった」となります。違うんです、演技が終わって素の相手が現れただけです。それが本性だったわけです。こうして一時に恋が終わり次に移行します。やっぱり男はお金じゃなくて「顔」だな、、、、と期待の内容が変わるのです。

現れるもの

ドキドキも、ときめきも、、、、それまでは無かったわけです。突然相手の出現によって「現れ出た感情」です。これ幻想です。幻想には宿命があって現れた限りは絶対に消えなくてはならない、、、のです。ですから、、このドキドキ、トキメキは消える運命にあるのです。絶対的に消える運命にあるのです。相手が誰であろうとも消える運命にあります。真のトキメキとは、、、、現れては消えるようなものではありません。相手の出現に依存したようなものでは絶対にない。。真のトキメキとは自身が誰か????本当の自分は誰かの明確な自覚が起こします。明晰にこれが夢だと気づいた時、、現れます。本来元々既に「在った」と気づきた時、現れます。

非真我

真我ではないもの

厳密に言えば真我ではないものなど存在しません。全ては真我です。ですから非真我という存在は存在しないのです。ですが、、、真我が発見されていない時、、今我々が見ている世界は非真我ということができます。真我が発見されたとき、、全ては真我であるという自覚が生まれます。真我が発見された時、我々が見ている世界は真我の反映であり、、、それは真我そのものではないのです。

真我の反映も含めて真我

事実では真我以外が存在しないのですから、、真我の反映も真我です。この見える世界は真我の反映であり、、我々は反映しか気づくことができません。気づくことができるのは真我の反映だけです。知ることができるのは真我の反映だけです。ですから思考も感情も経験も五感も全ては、、、真我の反映です。この体の中の私は「気づかれている」のですからそれも100%真我の反映です。

真我を見つける

幸福を見つける

真我を見つけることは幸福を見つけることと同じです。真我を再発見することは幸福を再発見することと同じです。現れては消える幸福は幻想です。なぜならば幻想以外に現れることはできないし現れた幻想は必ず消えるからです。一方真我は絶対に消えることがありませんから現れも消えもしません。ただ真我の存在が忘れ去られてしまう、、これはあります。つまり幸福も忘れ去られてしまう、、これはあるのです。

では

真我は絶対に見つける価値があるのは、、真我は幻想と違って絶対に消えないからです。消えることができない真我=幸福を再発見するのは、、、幻想の寄せ集めとは全く価値が異なります。ですから真我探究に入るのは必然なのです。散々幻想を集め、幻想に裏切られをしてきて、、、、ついに幻想の中には真の幸福がないことに気づき、、そこから真我探究に入ります。真我は消えない唯一の実在です。消える幻想である「お金、地位、名誉、安定」など、、、どこかで関心が薄れるのは当然のことです。

だがしかし

だがしかし、、、真の諦めに入るには、、、散々、散々、、、幻想の幸福、安定、賞賛、、、、、に騙され続け、、、、もう何かを手に入れるゲームは懲り懲り、、、、にならなくてはならない、、、、のです。散々この幻想収集ゲームをやり尽くし、、飽き尽くす、、、必要があります。そして本当にそれに飽きた時、、、真我の探究に入るのです。ですがこの状態に真の意味で入った時は、、、、他には関心が既にありませんから、、発見は直ぐです。