虚無

違う

全ては幻想なんですよね、、確かにそうかもしれない、、いや間違いなくそうだ、、、どう考えてもどう考察したってそうとしか確かに思えない。。。。。そうです、そうなんです、、、で、、、、虚無になる、、、、という感覚が起こったります。ですがそれまだガッツリ自我が残っています。その全ての幻想と「私」には明確な明確な格差があります。だから私だけが実在して残りが幻想いう虚無感が起こるのです。

全てが幻想で私が飲み込む

この全てが全ての幻想が私に飲み込まれた幻想であるという自覚が生まれた時、、、、、全てに愛を感じます。全てを愛したくなります。全てが素晴らしいのです。だから困った人が居ればつい助けてしまう、、導いてしまう。。何かを期待されればつい期待に応えたくなってしまう、、喜ばせたくなってしまう。。。。のです。思わずやってしまう、、、、思わず手を差し伸ばしてしまう、、、という状態に入ります。自分さえ良ければ、、、というのは全てを自分だという自覚が全くないから起こるのです。

だから

世知辛い世の中、、、厳しい世の中、、セルフィッシュな人間ばかりの世の中に、、、、あなたの世界がそう映っているならば、、、、、まだ自分=世界になっていないだけです。自分=世界になってさえいれば、、、、全てを救いたい、全てを愛したい、、全てを導きたい、、、が生まれます。そうです、、、分かってしまえばそうなります。だから何も気にせずにただ分かればいいのです。

ムツゴロウ王国

あなた

あなたがもしもいきなりムツゴロウ王国の所有権を一手に引き受け、、たった一人でそこを管理すると思ってください。その瞬間人間関係の気苦労は全て消えます。人間関係のストレスは消えます。ですが今度は動物との関係が残ります。その時、、、、あなたは動物との間にストレスは溜まるでしょうか????勿論、、、半端ないエネルギーは使うでしょう。ヘトヘトになるかもしれない。。。。ですが、、、、変なストレスは一切ない。。。。取引、皮算用、裏読み、、それらが皆無です。なぜ?????動物には自由意志がないことを知っているからです。

人間

では人間に自由意志があるのかと言えば実はないのです。動物と全く同じで実は自由意志はないのです。ですから皮算用、取引とか、、、あってもいいですが自由意志はないのです。ここ重要です。恐ろしく、、皮算用が得意なタイプが目の前に現れようが、、、そこには自由意志がないのです。平気で詐欺的行為をする彼にも、、自由意志がないのです。。。これ最重要事項です。だから詐欺師、ペテン師、裏切り者、薄情者はガンガン避けてください、相手にしないでください。ただ相手には自由意志がないのですから、、彼を憎むのはピントがズレています。憎んでもいいのですが自由意志がない彼を憎んでいるという事実を忘れないでください。

私は既に「それ」

最初から

この世界は存在しません。この物理空間は存在しません。この時空間は存在しません。にも関わらず今あなたは確実に「何か」を感じていませんか?????絶対に「何か」は感じていますよね。。。。もう一度説明します。この世界もこの物理空間もこの時空間も存在しないのです。存在しないにも関わらず「あなた」は絶対的に「何か」を感じていませんか?????もしも「はい、感じています」と回答するならば、、、その何かは何ですか???そしてあなたは誰ですか???

体も存在しないのに

体も100%存在しません。にも関わらず今あなたは何かを100%感じています。感じていないとは言わせませんよ。その証拠に今あなたはブログを読んでいますよね?????だから絶対に何かは感じていないといけないのです。にも関わらずこのスマホは存在しないのです。だって時空間自体が存在しないのですから。となると、、、、、「何か」を感じる「私」以外は絶対に絶対に存在しないことが分かります。そして「何か」も「私」もこの時空間には存在できないことも分かっています。

では????

今ここで何かが起こっています。「視界」が今広がっています。それだけは事実です。そしてその視界を「誰か」が見ることは不可能です。なぜならば時空間が存在しないからです。そうなると「誰か」という存在なしに「視界」が確実に気づかれている、、、これだけが真実であることが自覚できます。そうです「視界」が確実に存在し、それが気づかれている、、、これだけが真実です。逆に言えばこれ以外には何も存在しません。つまり「気づきと、、その気づかれる内容」これだけが唯一無二の実在です。我々とはこの「気づきと気づきの内容」これだけです。真我とは「気づきと気づきの内容」のことです。絶対とは「気づきと気づきの内容」です。神とは「気づきと気づきの内容」です。

もっと自由になりたい

お金持ち

なぜお金を手に入れたいのですか???なぜ地位を手に入れたいのですか???なぜ権力を手に入れたいのですか?????なぜならば「自由」を手に入れたいわけです。お金があれば、、、、どんなお店も自由に選べます。どんな服装も自由に手に入ります。どんな交通手段も自由に手に入ります。自由です。地位があれば自分の意思が自由に通用します。自由に相手をコントロールできます。NOと自由に言うことができます。自由です。だから人はそのための条件を手に入れようとするのです。それが「お金、地位、名誉」です。

ところが

しかし、、、多くの方はとんでもないことを忘れているのです。この思考、感情を全くもって自由にコントロールできないのです。自身の意見は自由自在に「まかり通る」かもしれない、、、、、、ですがその「自分自身の意見」そのものをコントロールすることが全く全くできないのです。つまり、、、大元では何もコントロールできていない、、、のです。だから自身の意見が自由にまかり通ろうとも、、、無駄です。だってその意見そのものをコントロールできないのだから。

だから

もう、、、お金を持って、地位を得て、名誉を手に入れて自身の意見が「まかり通る」ために頑張らないでください。だって意味がないのですから。意見がまかり通ろうが、まかり通らなからろうが、、、その意見自体を全くもってコントロールできないのです。むしろそのことで絶望した時のショックの方が大きい。退屈だ、孤独だ、暇だ、、、、、という思考をコントロールできないのですから。。。。まかり通った上での退屈、、もう逃げ場がない、、、のです。

自由意志が何もない

そこでここに至るのです。自由意志がないのです。自由意志がないのだから我々にできることはただそれを観察する以外にないのです。ただ自身から出る意見を傍観者になって観察します。ただこの行動を観察します。周囲の反応を観察します。。。それしかできないし、やることがないのです。そこまで絶望した時、、、真の安心が訪れます。何もしなくていいという真の大安心が訪れます。意識がもう「コントロールしたい、コントロールしなきゃ」に行かない、、、、なぜならばそれができないのだから。。。究極の絶望の後、、、、解放が起こります。意識の原点回帰です。

もっと悟ろう

もっと悟りたい

人間は生きていれば、、もっと目覚めたい、もっと悟りたい、、もっと解放されたい、、もっと、、もっと、、、という衝動が起こります。あの人のようにもっと悟れれば、、、あんな人になるにはもっと目覚めないと、、、、です。ですが事実では、、、もっと悟れる人間という存在が幻想だったのです。その人間、自我が、、、幻想だったのです。つまり存在しないのです。幻想の定義は「実在」しないということです。実際には存在しないのです。

だから

だから悟った個人というのは存在不可能です。存在しているように見えても、それは存在しているように見えるだけです。ここまでが事実です。事実では幻想としてしか存在できません。悟れる実体は存在しないのです。ですが、、、事実として「悟り」があるのならば、、、どこでその「悟り」は存在すのですか????「悟り」が存在しないならばその言葉は生まれていないわけです。人間に悟りが起こらなくてもどこかでは悟りは存在するのですからその何処かがわかればいいわけです。

最終回答

では悟りの起こる場所を説明します。その場所とは「この意識」です。この意識の中で全ての「気づき」が起こることを「悟り」と呼びます。この意識の中で全ての矛盾が消えた瞬間を「悟り」と呼びます。この意識は実在であり、、、この意識の中で「そうか、そうなってたんだ」という気づきが起こり、、、迷いが吹っ飛んだ時「悟り」です。そしてその悟りが人間という幻想に反映された時「周囲からあの人は悟っている」という反映が起こるのです。ただそれだけです。人間という幻想は「悟り」が反映されるアバターに過ぎません。あなたが会いに行く「覚者」は悟りが起こしたアバターです。

明け渡し

何を誰に????

悟りの世界では「明け渡し」という言葉が稀に登場します。この明け渡し、、「何を誰に」明け渡すのでしょうか????誰かが何かを誰かに明け渡すのですよね???だったらそれを教えてください。。。明け渡しとは、、真我の「気づき」を幻想の中の自我から再び真我に明け渡すのです。幻想の世界の中の体という幻想の中に、、全ての経験、知覚、五感、思考に気づく存在が居るのだ、、、という幻想思考が「固定観念」として起こっていたが、、、その固定観念は嘘だ、、、という気づきが起こった時、、、気づきは再び、、、「真我」の位置に戻るのです。それが明け渡しです。

つまり

誰かが何かを明け渡すのではないのです。誰か、、、、という存在はこの宇宙には存在できません。知覚できる全ては「幻想」ですから、、、それは存在不可能なのです。ただ注意深く明晰に観察した時、、、この体は幻想であることが見抜かれ、、この体の中には全経験の主体が存在しないことが分かります。ならば、、この経験という存在はなぜ存在できるのか????経験は何によって気づかれるのか????という究極の疑問が起こり、、、それは幻想の次元ではあり得ず、、、幻想を超えた場所で「気づき」がただ起こっていることに気づきます。これこそが真の「明け渡し」です。

自分が居なくなっちゃった、、、

その瞬間、自我が消えます。自我とはこの幻想の中の「気づき」の存在だったのですから。。。。その気づきが幻想の世界から、、飛び出ます。瞬間移動です。次元超越です。真の自己が次元を超越するのです。自己超越です。明け渡しとは、、、自己超越のことです。自己実現です。真我実現です。意識がこの幻想の中の体にフォーカスが行かず、、、別次元の「気づき」そのものにフォーカスが戻るのです。真我そのものに意識が意識された時「真我実現」です。

トラウマ

消える運命にある

幼少期のトラウマ、、、誰もが少なからず持っています。幼少期に極度の貧乏を経験すれば、、それが心の傷になります。幼少期に両親の喧嘩を頻繁に経験すれば、、それも心の傷になります。この傷をトラウマと言いますがこのトラウマ、、、、幻想です。。。認識できてしまうのですからこれ幻想です。幻想ということは、、、消える宿命にあります。そうです、、、トラウマの宿命は「消える」ことです。ですから、、トラウマは発見してくれ、、発見してくれ!!!!とアピールするのです。

忘れていたいのに、、、、

犬がトラウマで滅茶苦茶苦手、、、、そのような人は、、、できればそのことを忘れていたい。。。。ですが犬に遭遇した瞬間「怖い!!!!!!」が起こります。、、、、、怖い、、、、怖い、、、、そうだ、、、俺は犬が苦手なんだ、、、、、とトラウマが、、、、出現するのです。。。。。そして、、、、その思いは苦しいからこそ、、、何とかしなくては、、、、というトラウマ解消の動きになるのです。苦しいからこそ、、、無くしたい、、、、、という衝動が起こり、、解消に向かいます。つまり、、、、トラウマは消える宿命にあるのです。

全ては消える宿命にある

全ては消える宿命にあるからこそ、、、トラウマは不快なわけです。不快なわけですから、、、消したいわけです。。。。。だからトラウマは解消されるように動きます。そして消えます。トラウマが悪いのではなく、、、消えるために、、、、出現し、、、、消したいという衝動を起こし、、、消えるのです。全ては幻想であり、、、幻想とは実在ではなく、、、消える運命にあります。一方実在は、、、、「消えてはいけない」実在とは絶対に絶対に消えて無くならない「永遠」の存在です。それに気づくために、、幻想は存在するのです。

全ての生みの親

忘れる

我々は、、こうこうこういう理由だから私は今落ち込んでいる、不幸だ、悲惨だ、、、と信じています。ですが断言しますが、、それ全て勘違いです。全てです、、、全て勘違いの悲惨、孤独、不幸です。勘違いが生み出した孤独、不幸、悲惨です。。。ですからその全ての要因を消去したところで、、、何も変わりはしません。対処療法ですから。不幸の対処療法をしている期間は何も変わらないどころか症状は悪化します。それが人生です。

では、、、、

では一体に何をどう勘違いしているのでしょうか????何が勘違いで何が真実なんですか????ではお答えしましょう。。。我々は全経験、全思考、全感情、全活動に気づく、気づきの存在をすっかりと忘れているのです。全てここでやられています。その気づきの全てをこの体がやっていると信じてますが、、それ誰に確認しました???それどこで習ったんですか????習ってはいないはずです。ですがその「存在」をすっかりと忘れ、、その存在をなかったことにして生きています。だから、、、全て間違っているのです。

ファミレス

ファミレスに行けば各テーブルごとにあらゆる会話が起こっています。TVをつければあらゆる会話が、、、、、全部間違っています。残念ですが完全に勘違いの会話しか起こっていません。24時間完全に勘違いの思考に我々は毒されています。だから苦しみが全く全く消えていかないのです。まさか、、まさか、、、全会話が間違っているとは、、、、、これは不可能です。気づきません。気づかせてもらうわけがないのです。

花火

見える

花火が大空に上がっています。この花火を見ているのは誰ですか????それは横に置いておいて、、見える「花火」は私ではないことだけは事実です。花火がいかに綺麗に咲き誇ろうが、、その花火は自分ではないことは明白です。なぜならば見える花火が、、、何者かに見られているのだからその花火が私ではないことは明白です。だから花火がドカンと上がった時、、それを見ている「自分」が登場します。花火という存在こそが「自分」を作り上げるのです。花火と自分の対立構造、二局構造が、、花火の登場によってこそ起こるのです。

自分

花火の存在こそが「自分」「私」という存在を作り上げました。。それはそれでいいでしょう、それでいいのです。では花火によって作り上げられた「自分」が登場した際に、、、その「自分」に気づくもう一つの「自分」が現れなくてはならないことに気づきますか???「花火」が「自分」を作り上げたのだから「自分」がもう一つの「自分」を登場させなくてはならないことに気づけますか????「自分1」に気づく「自分2」です。そして「自分2」が登場したのならばその「自分2」に気づく「自分3」が必然的に登場しなくてはならないことに気づきますか?????

つまり

つまりこの理屈で言えば、、、自分は無限に存在しなくてはならないのです。無限の自分が存在しなければこの理屈は崩壊するのです。そうです。この『「花火」VS「自分」』という対局構造理論は最初から破綻しています。そうです。花火に気づくのは「この世界」の中に存在する「自分」ではなく、、、、全く違う次元の「自分」以外にあり得ないのです。そしてその自分とは「気づく」自分ではなく、、「気づき」そのものでなくてはなりません。気づく「自分」であるならばその「自分」に気づく別次元の「自分」が必要になるからです。だから気づくのは「自分」ではダメなんです。。。気づくのは「気づき」そのものでなくてはならないのです。

宇宙に依存しない

宇宙が依存する

我々は宇宙に依存した生命体だと信じています。宇宙があるからこそ我々は存在できているのだと。。。。ですが残念ながら、、、そうではないのです。宇宙こそが「我々」に依存しているのです。宇宙という幻想こそが「我々」という幻想ではない存在に依存しています。宇宙が幻想で「我々」が実在なのです。宇宙という実在に我々が依存しているのではなく我々という実在に宇宙という幻想が依存しているのです。

宇宙が依存する我々

宇宙が依存する我々とは何でしょうか???この体ですか????いやいやこの体も「我々」に依存する幻想です。え?????この体も????じゃあこの体の中の私は?????当然この体の中の私も実在である「我々」に依存する幻想です。え?????????体の中の私の他に、別に我々が存在するのですか???そうです。残念ながら別に確実に存在するのです。それがこの意識、この「私は在る」この「生きている」という感覚です。これに宇宙も私も体もガッツリ依存しています。

この意識

この意識がない状態で「世界」が存在したことはありますか????この意識が存在しない状態で、、、「この体」が存在したことはありますか????この意識が存在しない状態でこの私は存在したことはありますか????ないんです!!!!!絶対にないんです!!!!!だからこの宇宙もこの体もこの私も「この意識」にガッツリ依存しています。さあ確認してください。実践してください。実感してください。証明してください。あなたがそれを証明するのです。