見える
花火が大空に上がっています。この花火を見ているのは誰ですか????それは横に置いておいて、、見える「花火」は私ではないことだけは事実です。花火がいかに綺麗に咲き誇ろうが、、その花火は自分ではないことは明白です。なぜならば見える花火が、、、何者かに見られているのだからその花火が私ではないことは明白です。だから花火がドカンと上がった時、、それを見ている「自分」が登場します。花火という存在こそが「自分」を作り上げるのです。花火と自分の対立構造、二局構造が、、花火の登場によってこそ起こるのです。
自分
花火の存在こそが「自分」「私」という存在を作り上げました。。それはそれでいいでしょう、それでいいのです。では花火によって作り上げられた「自分」が登場した際に、、、その「自分」に気づくもう一つの「自分」が現れなくてはならないことに気づきますか???「花火」が「自分」を作り上げたのだから「自分」がもう一つの「自分」を登場させなくてはならないことに気づけますか????「自分1」に気づく「自分2」です。そして「自分2」が登場したのならばその「自分2」に気づく「自分3」が必然的に登場しなくてはならないことに気づきますか?????
つまり
つまりこの理屈で言えば、、、自分は無限に存在しなくてはならないのです。無限の自分が存在しなければこの理屈は崩壊するのです。そうです。この『「花火」VS「自分」』という対局構造理論は最初から破綻しています。そうです。花火に気づくのは「この世界」の中に存在する「自分」ではなく、、、、全く違う次元の「自分」以外にあり得ないのです。そしてその自分とは「気づく」自分ではなく、、「気づき」そのものでなくてはなりません。気づく「自分」であるならばその「自分」に気づく別次元の「自分」が必要になるからです。だから気づくのは「自分」ではダメなんです。。。気づくのは「気づき」そのものでなくてはならないのです。