波=自我
我々はある日突然、この体を私とする思考に乗っ取られます。突然、、この体こそ私だ、、という思考に乗っ取られます。そこからは私体験がスタートします。全経験は私に収集されていくのです。これが波物語です。波として経験が積み上げられていきます。ですが事実では波としての体験など存在しません。経験が勘違いの記憶に収集されていくのです。この波としての経験の集積を「自我」と呼びます。一方我々は波でもあり海です。どこかでは海であることを知っています。その知っている存在こそが「この意識」であり魂と呼ばれる存在です。海はどこかで自身を海だと分かっているわけです。波物語がいかに進展していこうとも、、この意識である魂=海は、、波ではないことを知っています。だからそこに向かっていくのです。
みんなで海を探そう
個人個人の波が集まってみんなで海を探そう、、、とする動きが起こります。海という楽園がどこかにあるらしい、それを涅槃と呼ぶらしい、、、です。ですが海はどこか遠くにあるはずもなく、、ここが海です。海では波は起こりますが、、、それも海です。ですが、、波を独立した存在とする動きが「海」であるここで起こるから「どこかにあるはずの海」を探そうぜ!!!となるのです。海の中で波を独立した個人とする動き(水の動き)が起こっているだけです。海全体としては何も変わらず海は海なのです。
分かってきた???
何となく分かってきたでしょうか????海しか存在しない中で波が起こります。これはただの水の動きです。波の形状をした水の動きに対して、、、これぞ独立した個人だ、、、という水の動きが起こります。ですが全体では何も変わらずに海なのです。つまり我々は水の動きに過ぎず、、苦しみも、孤独も恐怖心も一種の水の動きに過ぎないのです。そして海は幻想です。波も幻想です。だから当然個人も幻想です。なぜ全てが幻想であると言い切れるかと言えば、、、、認識できる全ては「海」とは別次元で起こるからです。海の動きに気づくのは「別次元」の存在以外にあり得ません。つまり我々は確実に海とは関係ない存在なのです。波とも関係ない存在です。
最初に
この波、この海とは全く別次元の存在「真我」があって、、そこから海の動きがここに現れています。だから全海の動きは気づかれます。さらに、、、波の動きも気づかれます。ですがこの海の動きが変化し、、、現れては消えることができるのは「真我」が不変であり実在だからです。だからこそ真我の反映として「海」がここに現れ水の動きの全てがここで気づかれています。海は幻想です。水の動きも全て幻想です。真我は同時に愛であり平和です。だから、全てが明かされた時、、、ここに愛と平和が満ちてくるのです。