右をみる
今右を見てください。視界が広がりましたね????今気づきが「視界」になったのです。はい、左を見てください、、視界が広がりましたね????、、、、気づきが視界になったのです。正面を見てください。視界が広がりましたね????はい、それ気づきが視界になったのです。だから右を見ても左を見ても正面を見ても、、、必ず視界が現れるのは、、、、気づきが正体だからです。正体が気づきだから気づきが視界になって気づかれるのです。気づかれない視界が存在しないのは正体が気づきだからです。
耳を澄ませる
では目を閉じて耳を澄ませます。一分間何も聞こえない、、、なんてことはありません。なぜか????気づきが聴覚になったからです。気づきが音になったのですから。。。だから音が気づかれるのです。取り止めとなく聞こえる音の正体は気づきです。気づきが正体だから現れた音は必ず気づかれます。現れた思考も必ず気づかれるのは気づきが正体だからです。気づきが音となったのですから、、、気づかれます。音があるから気づかれるのではありません。気づきが音になったのです。
我々
我々はその気づきです。その気づきからあらゆる現象が現れては消えていきます。だから現れた現象の全ては気づかれます。気づかれない現象が存在し得ないのは正体が気づきだからです。自分という感覚も気づきから現れ、それが自我と呼ばれます。自我も気づきが正体です。苦しいという感覚も正体は気づきです。悲しいという感情も正体は気づきです。だから気づかれるのですから。
??????
つまり私はどこにも行ったことがない????当たり前です。気づきが景色になってここに広がりますが、、その正体が気づきです。だからどこに行こうとも正体が「気づき」なのです。そして私はその気づきです。どこに行こうとそこが「私=気づき」によって現れでたのです。私が内容になったのです。私が視界になったのです。私が音になったのです。私が経験になったのです。私が知覚になったのです。私が五感になったのです。さあ、、、どこかに行くことはできますか????どこに行ってもそこは「私」が視界になるだけです。