「これ」以外はファンタジー

これ

いまここにある現れ、、これ以外は完全にファンタジーです。いまここ、あるがまま、、これだけがリアリティであり、、もしもこれ以外があるならばそれはファンタジーです。昨日何食べたっけ???この思考が起こすイメージはファンタジーです。リアリティに乗っかったファンタジーが起こっています。ですから何度もお伝えしますが今ここ以外はファンタジーです。

ファンタジーもリアリティの現れ

とはいえファンタジーとリアリティには明確な境目はあるのか???ありません。ファンタジーはリアリティが作り出すアートです。ですからファンタジーが悪いとか良いとかの話ではないのです。ですがファンタジーの世界は真実ではないんで「違和感」が起こり、、その「違和感」を解消すべくさらなる思考が起こり続けることは事実です。

ただ幻想がある

ここだけがリアリティです、ですがそのリアリティと呼ばれるこの椅子、机、太陽、風、海、川、道、、、も全部幻想です。幻想があるというリアリティです。この世界はどこまでいっても幻想しか存在せず幻想は現れては消えてはいきますが、、現れた幻想は必ず気づかれます。この気づきが100%真実です。その中に思考が起こり、この思考はあらゆるイメージを起こします。このイメージが真実とは異なる時「違和感」が起こるためその違和感を払拭する新たな思考が次々に起こるのです。

あるけどない

よく聞く話

悟り、ノンデュアリティのメッセージではよく聞く言葉です。あるけどない、、、です。この見える現象の全てはあるように見えます、どこまでのあるように見えます、ですがこれはあるように見えるだけであって100パーセント幻想です。つまりあるように見えるが100%ない存在です。この机を触ります、、触れるのですから100%存在しているように感じます、、ですが100%あるように感じれますが、、同時にこれは100%幻想です。だからあるけどないのです。

何かを食べる

キムチを食べます、、強烈な香りと食感、、、確実にあるように感じます、、ハッキリと感じます。。。ですが同時にこれは100%幻想です。ないのです。つまりこの世界は100%あるように感じれるが実際には100パーセントない世界なのです。どこまでもあるように感じれはするが100%ない世界なのです。この体も100%あるように感じれますが100%ないのです。よってこの体の自我も100%あるように感じますがないのです。

ないけどある

これは全部幻想です、、ですがこの幻想の起こりを100%確実に認識します、認識が起こります。幻想として100%あるのです、、そこに気づきが起こります。この体もこの世界も幻想として100%存在します、そしてそれに認識が起こります。この幻想の世界は空の表舞台です、空の存在を幻想として出現させた世界なんです。ですから全ては気づかれます。気づかれない現象はありません。

悟り

これは幻想でありますがこの幻想とは空(不変の自己)の全表現です。空の写し姿です。空の鏡に映った姿です。無限の存在であると自覚する存在(オールザットイズ)が空の中にあり、、その自覚が今ここで起こっています。我々の「意織」「自覚」「存在」とはこの無限であることを自覚することなのです。空とは無限であり無限であることを自覚しない全てです。全てである以上、その中には全てであることを自覚する存在も含みます。その自覚する部分こそこの「意織」です。全幻想を認識する「存在」です。

ストーリーへの誘い

常にくる誘い

マイストーリーを維持しようとする動きは大きく、、、悟りに目覚めていきますと、、ストーリーに引き戻そうとする動きが働きます。その動きとは過去の確執などです、過去の後悔、過去の確執、過去は紛れもない「事実」であるという思い込みが働くことからなぜか「そういえば」「あの時」「何年前の」といった思い出が蘇ってくるのです。これによって私とあの人、私とあいつ、私とあなた、、というストーリーへの引き戻しが起こります。

冷静に見極める

ですがその思い出も、、、全部が全部勝手に起こった現象であるという見抜きが起これば静まります。過去の思い出の全ては、、その構造全部が勝手に起こった現象によって成り立つのです。何かをされたという辛い過去も、、その動きは全部現象、生命活動、、幻によるものです。だからそこには登場人物が存在しないのです。そういう生命活動が起こった、で終わりです。

主犯格

全思い出には、、実は主犯格が居ないのです。その登場人物の全てに主犯格が存在しません。勝手に全部が起こり勝手に思考が湧き勝手に感情が湧き勝手に行動が湧いたのです。思い出に浸るのはそれが楽しいものでも辛いものであろうと、、ストーリーに戻そうとする動きです。そこを見抜きます、ストーリーが湧いてくる時、、真実に確実に向かう動きがあること、そしてだからこそそこに向かわせない動き(思い出)が起こるのです。

降参

悟りとは

悟りとは降参です。全部が全部を手放すことです。全部が全部自分がやっていたという思い込みを手放します。私の思考、私の感情、私の行動の全ては勝手に起こっていました。完全なノーコントロールです。そんなバカな!!!という思考が今勝手に起こりました。誰もそんなこと言ってないけど!!!という発言が今勝手に起こったのです。とすれば、、、私っていないのか????という思考が今勝手に起こりました。

衝動

でもこの体の中から湧いてくる衝動、パワー、生命力、、これって私ですよね????これが私じゃないとしたら誰のもの?????違うんです、、この衝動、生命力、パワーを私と決める思考が勝手に勝手に起こっていたんです。勝手にです。だからこれも私ではないんです。でもこの五感、見える聞こえる嗅げる触れる味わえる、、これは私の仕事ですよね??????違います。それが起こっていただけです。その働き動きだけが起こっていたんです。

負けた

真実はたった一つであり、、思考は千差万別80億通りの思い込みを作れます。ですが真実は一つです。悟りとは80億通りの思い込みを全部それ思い込みですから!!とバッサバッサと切り裂いて真実のみを残す作業です。生命は100%ある、、ですが「私」は生命活動の現れの一つでしかない。そし全生命は幻です。よって私は100%幻であり、、今確実に感じている「意織」は「私」のことではなく「意織」そのものだったのです。「意織」のことを「私」と呼んでいたのです。

私という衝動

何もせずに

何もせずにそこに居る時、、「私という衝動」が起こります。完全な無ではなく、、「私」という衝動が起こるはずです。ですがこれは衝動に「私」と名づけ続けてきた名残りです。本当は衝動しかありません、、衝動は間違いなくあります、、それを感じます。衝動という幻想は間違いなくある、、だからこの間違いのない衝動を「私」としてきたのです。

名残り

「私」というのは名残りなんです、、衝動につけられた「名前」です。ですが衝動は衝動であって「名前」ではありません、「私」でもない。衝動とは生命でありライフ、空即是色の動きです。この動きに「私」と名付けるという思考の動きが起こりました。そしてその思考が認識された時に「衝動=私」というイメージが起こったのです。これを真実とする動きが起こると「違和感」が起こるのです。

悟り

悟りとは「私という衝動」が実は「衝動」のみであり「衝動」を私とする思考が起こっていただけだと気づくことです。「そっか!今まで衝動を私って呼んでたんだ!」です。これで終わりです。本当は衝動だけがあってそこには名前などあるわけがない、、そこに名前をつける動きが起こり、ある時その衝動=名前になってしまった。。ということです。

目立てないならば

不幸で目立つ

エゴは特別扱いされるならば、、何でも実は良いのです。学校の成績で目立てないのならば校則を破って目立とうとします。行きたい学校に入れないのならば、、学校に行かないという方法で目立とうとします。サッカーで目立てない時、ラフプレーで目立とうとします。そうです、、存在が認められるのが目的ですから、、目立つならば何でも良いのです。

その動きを見切る

重要なことは、、そのことを見切ることです。本人は全くやりたくてやっていないのです。。。ラフプレー、不登校、校則違反、、、、やりたくてやっていないのです。目立たないと自分がなくなってしまうという危機感がそれをさせています。自分というのは本当はなくてただの生命活動が起こした思考です、、その思考の内容を「真じる」が起こった時に「苦しみ」が生まれ、、この「苦しみ」を消すために、、あらゆる動きを見せます。それがラフプレー、不登校、校則違反です。思考の内容を「信じない」が起こった時、、もう「苦しみ」自体が消えます。

信じない

悟りとは思考が繰りなすイメージを「信じない」が起こることです。悟りとは思考が作り出す無限のファンタジー、夢、物語を「嘘」と見抜くことです。本当は全部が全部生命活動です。。生命活動しか存在していません、この私も思考という生命活動が作った想像物です。思考が作ったイメージを認識し、それは真実だ!!が起こると、、「苦しい」が起こります。真実とは、、全思考全感情全行動が勝手に起こり、、そこにはコントロールする「自分」は居ません。自分とは勝手に湧き上がった思考のイメージです。自分すらも実は勝手に湧き上がった思考によって作られた被想像物です。

特別扱い

エゴの肥大化

エゴを肥大化したければ、、、相手を特別扱いするのです、、あたなは凄い、あなたは本物、あなたは社長、あなたは、、、すると相手の中に「安心」が生まれます。と同時に「違和感」が生まれます。特別扱いとは、、自我の完全な確立です。。。周囲よりも優れた「あなた」です。「あなた」がありありと存在することを周囲の反応で認識できるのです。これが起こります、俺ってやっぱり半端なく特別な「存在」なんだ、、です。

安心と違和感

この安心はどこから来るのか?????もう頑張って自分を証明しなくていい、、という人参を追いかける必要性をなくした安心感です。追いかける「自分」を手放せるのです。だから一瞬「無我」になります。この安心感。同時にありありと「私」を認識するのですから「違和感」が生まれます。だから、、スナックでチヤホヤされて気持ち良くなった後に、、急激に「寂しさ」を覚え、、、またお店に通うわけです。褒められて「無我」になり一方「自我」は強化されて「違和感」を強烈に感じます。

悟る

悟りとは、、、特別扱いされて自我が肥大化する一方で特別扱いによって一時的な「無我」を味わえるというこの仕組みに気づくことです。もう達成しなくていいという安心と、、一方で、、達成した「自分」という二つの動きが起こるのです。よってこれは負のスパイラルです。認められたいという動きはもう走りたくないという衝動の現れです。。そして一時それを喜びながらも、、まだそこにありありと存在する「自我」を感じます。

本当は

認められて安心する時「自我」の動きがしっかりとあることを認識します。走っている自我の動きがあるのです。認められても全く何も感じない時「既に無我」です。これをただの生命の動きと見切っています。すべての動きを生命の動きと見切った時に、、褒められて嬉しい、認められて嬉しいは起こり得ないのです。褒められた時、特別扱いされた時、、どういう動きが起こるか、、そこに注目です。

アイデンティティ

身体的特徴、経済的特徴、才能的特徴、身分的特徴

アイデンティティというのは差別化です、、人よりも優れている劣っている、、何でもいいのです。何か人と異なる特徴がこの身体を取り巻く環境であればそれを「自分」とする動きが起こり、、エゴの肥大化になります。私の場合は突き動かすエネルギーが人よりも多かった、この自覚が自我を肥大化させました。人によっては経済力、美貌、ファッション、偏差値、学歴、育ちの良さ、育ちの悪さ、就職先、、、あらゆるものがアイデンティ、差別化になり、、、それがエゴの肥大化になります。

常にそこにあるもの

アイデンティファイするためには常にそこに在るものが望ましい、よって身体的特徴は非常にわかりやすいし、身体的能力も然り、、経済力も身近に常にあり、、就職先も毎日のもの、、こうしてアイデンティファイしやすい特徴をエゴの肥大化に使われます。私がいてあなたがいて周囲がいてのマイストーリーです。特徴であれば何でもいい、、それを自分とする動きが起こります。

悟り

悟りとは、、この思考の動き、特徴を自分とする思考の動きを見切ることです。それを思考の動きと見切ると何が残るか、、生命の動きだけです。身体的特徴を自分とする思考の動き自体は「生命活動」です。それを信じると、、マイストーリーが生まれる、、これも生命活動です。ですがこの動きに無自覚であると、、「苦しみ」を生じます。ですから特徴を自分とする思考の動きが起こった時、、それを見切ります。思考の内容はアートであって真実ではない、、思考の内容はアイデアであって真実ではない。。。そこには苦しみは起こりません。思考が描く、、「この特徴は私だ!!!!」という宣言は嘘です。嘘を真実と信じる動きが起こると「苦しい」が起こります。

湧き上がるエネルギー

自分

見かけ上の私は湧き上がるエネルギーこの体の中から湧いてくるエネルギーを「自分」と捉えてきました。恐らく周囲の人間よりもそれが多くゆえに「自分」という存在は人よりも「大きい」のだという錯覚を起こしながらいきてきたのです。この湧き上がるエネルギーは事実でありよってこの「自分」も事実なのだということです。しかしながらこの湧き上がるエネルギーはただのエネルギーであって「自分」ではありません。これを「自分」とする思考が起こったのです。

エゴ

湧き上がるエネルギーを「自分」とすることで、、この自分はもっと評価されるべきだ、もっと活躍すべきだ、、もっと多くを手に入れるべきだ、、、となります。体に起こる特徴を「自分」とする動きこそがエゴであり、それは美貌、若さ、特殊能力、ユニークさ、学歴、なんでもいいのです。これを「自分」とする動きこそがエゴです。私の場合は胸の辺りに「湧き上がるエネルギー」をアリアリと感じるためこれを「自分」とする動きが起こったのです。

五感

このありありと感じる胸の辺りのエネルギーを「自分」とすることで、、自分と自分以外が誕生し、、この世界は二元性の世界に入ります。私が居て周囲が居るというドラマです。ですが今この胸の辺りのエネルギーを「自分」とする動きを見切ることで、、その動きが止まります。すると自分の拠り所がなくなり、、。自分をやるという動き自体が止まるのです。

生命

この体に湧き出るエネルギーを自分ではなく「生命」と捉えます。生命の動き、、ただそういう動きがある、、そう捉え直すのです。それがお腹であろうと頭であろうとも、、その動きを生命の動きと捉えるのです。そして生命の動きと捉えるのは、、概念ではなく真実です。ここでは実は生命の動きしかそもそも無かったからです。

悟り

悟りとは、、この生命の動きを「自分」とする動き、、思考によって想像されるエゴいスティクな動きマイストーリーを作り出す動きを見切り、、それは本来生命の動きでしかないことを見切ることです。生命の動きは千差万別ゆえに、、「独自」の差別化が起こり、、よってこれは無意識に「自分」をやります。おかれた環境、おかれた身体状況、おかれた才能、おかれた〇〇、、、千差万別な特徴があり、、よってそれを「自分」とする動きを自覚的になるのは難しいのです。それこそが無知につけこんだ自我の動きです。その特徴にアイデンティファイしそこにアイデンティティを形成するのです。それが自我、エゴです。

見え方が変わる

そこには誰もいない

人間業界とは全く違う現実が押し迫ってきます。人間業界では全行為には行為者が居てそれが当然であるという認識があります。ですが真実では全行為はそれ自体が勝手に起こっておりそれを意図する存在はその体の中には居ません。ですからどこまで経っても行為には行為者が居るように見えるだけということになります。なぜ行為者が居ないにも関わらず行為だけがあるのか????ここは幻想の世界です、幻想はその瞬間に立ち現れるのみです。この幻想を引き起こす幻想は存在しません。幻想とはその瞬間に立ち現れるのになのです。結果行為という幻想には行為者は存在できないのです。

寂しい

本当は誰も居ないなんて寂しいんですけど?????勿論そうですよね、、ですが今まではそこに行為者が居て突然居なくなったのならばそれも気持ちはわかりますが、、そもそも居なかったのですから寂しいという表現は的を外しています。元来誰も居なかったのです、そして今も誰も存在せずこれからも存在しないということです。この世界には実は誰も居ない、、この事実に気づくことは、、寂しいと出るか、、気楽となるかです。本当の理解に至ると安らぎが訪れます。誰にも監視されたことは無かったしこれからもないのです。

丸っきり異なる

人類80億人がこの地球には住んでいるように見えますがその体の中には自我が実は存在しません。つまり誰も居ない、、この体だけが起こっているだけ、思考が起こっているだけ、感情が起こっているだけ、行動が起こっているだけ。学校で教わったこと、家庭で教わったこととは全くもって異なる事実がそこにはあります。80億人がこの地球で一緒に住んでいると思ったら、、そう見えるだけ。そこには自我は存在していないのです。この私がこの体の中には居るという思考だけが起こっています。