この体が幻想なら、、誰がこの体の面倒をみる??

誰もみない

この体が幻想だというのはわかりました。それならそれでいいでしょう。だとしたらですよ?????誰がこの体の面倒を死ぬまでみるのですか????誰もみません。この幻想の世界に「主体」は存在できません。面倒を見ることができる「主体」が存在してしまったらここは幻想ではなくなってしまうのです。つまりこの幻想の世界に手を加えることができる「人=実在」は存在しちゃったらダメなんです。でも安心してください。。。。今までも「あなたの体」は面倒を見られてきましたよね???だからこのブログを読んでいるんですよ。。。。それに気付いちゃいました????

つまり

つまりこの体は森羅万象の動きの中で存続されてきたのです。そしてこれからもそれ以外にありません。一瞬先は闇、、、、というのは本当で、、、何が起こるかをコントロールできる「誰か」は森羅万象の動き、この幻想の動きでは皆無です。つまり五秒先にこの体が死に絶えるかもしれない、、、それに誰も介入できない。。。。これが真実です。え????それは悲しいですか????怖いですか????とんでもない、、、こんなお気楽な真実ありますか????誰にも何も責任がないのですから。。。。

もう一個

そしてもう一つ真実を伝えれば、、、このことが分かってしまうと、、、、お気楽な現象が起こり始めます。お気楽な気分の中でお気楽な現象が起こるのです。誰かが変えたんではないんです。ただ深刻さがなくなった時、、全現象がお気楽になっていきます。深刻さが深刻な現象を生み出し、お気楽がお気楽な現象を生みます。一度これを経験してしまえば、、何も問題などないことが分かってしまいますよ。。。。

因果は思考の想像

思考なくして

コップが落ちれば割れる、、、これは因果ですよね?????因果でないとは絶対に言わせませんよ!!!!残念、、、それはあなたの「記憶」が生み出す因果です。記憶喪失になった瞬間「コップが落ちれば割れる」という因果も消えます。すなわち因果とは「記憶」に依存した思考です。記憶が消えたら因果も消えるならば、、、因果とは「思考」ということです。すなわちそのような絶対的事実は断じて存在しないのです。

カラスがフンをして頭に落ちた

これが事実でないならばこの頭のフンは何なんですか?????思考の中では「カラスがフンをして頭に落ちた」は事実です。思考的事実です。ですが記憶喪失になった瞬間その事実は理解不可能です。どんなに頑張ってもその事実は消滅します。森羅万象の中の動きをくり抜いて、、そういうストーリーを「記憶」が生み出したのです。クリ抜き作業を記憶が行ったのです。カラスを神と呼ぶ国では「神がフンをして私に授けてくれた」というストーリーが生まれます。ですから思考的事実と、、、、、真実は全く異なります。

因果の中では幸せになれない

因果の中で幸福になれない理由は「どこまで行っても」その幸福は「記憶」が支えた妄想だからです。私は幸福に違いない、、、という妄想を「記憶」がでっち上げます。ところが、、、その記憶こそが「苦しみ」の生みの親ですから、、、、、、、、「苦しみ」という大前提の中で生み出された幸福という幻想が起こったに過ぎないのです。そして幻想の宿命、、、それは現れたものは消えるのです。ですからその幸福も必ず消えます。因果の中では幸福にはなれません。因果自体が記憶が生み出した幻想だという気づき、、因果を超えた場所が至福です。

時間がないのになぜ悟りが起こるのか???

あり得ない

時間が無いんですよね!!!!だったらなぜ覚者は、、、、ある日突然悟るのですか????教えてください。意味がわかりません。時間が無いなら時間の中で悟って絶対におかしいじゃないですか!!!!その点ハッキリしてください。では回答しますね。。。。。。時間の中で悟るのではありません。覚者と呼ばれる人物は「幻想」です。幻想が「おりゃ〜」って悟ったらそれは幻想ではないのです。ですから悟った覚者とは幻想のことです。つまり時間の中で悟る覚者は実在ではなくただの幻想です。そう見えるだけです。そのアバターの奥で、、、「真実に気づく」意識の動きが起こったのです。

つまり

このブログを読むあなたが悟りを開こうとも、、、それはあなたというアバターではなく、、その動き、森羅万象の動きの中で「私とは誰か???」の答えが見つかったのです。それがアバターを通じて表現された時「分かった」というアバターの動きになるのです。だから時間の中では何も起こらない、、、幻想以外に。すなわち、、、、悟りとはこの幻想の中で起こるのではないのです。幻想全てを動かす森羅万象の動きの中で起こります。意識の中で気づく意識の動きが起こるのです。

神はここに既に居た

拝む対象?????

なぜここまで人は神を求めるのか????仏を求めるのか????人類世界一の関心は常に、神、仏です。人はここまでなぜ神、仏を求めてきたのか????それは常にどこかでその存在を感じていたからです。だから人から「あなたは神を信じますか???」と問われた時「何か」が湧いてきます。全否定できない何か、、、が湧くのです。

気づき

究極の存在とは、、、、全ての知覚、五感、思考、感情に、、、気づく、、、、気づきです。この気づきはこの現象界の中では当然起こりません。同次元の存在が同次元の存在に気づくことは不可能だからです。だから我々が今「この景色」に気づいているのは「異次元」によるこの視界の気づきを、、、この体の中で「気付いた」と勘違いする動きが起こったのです。そしてその思考も「異次元」によって気づかれます。この「異次元」の存在こそを神、真我、絶対と呼ばれてきました。名前は実は何でもいいのです。

この事実

この事実をスッカリと忘れてしまったから、、今我々は苦しんでいます。本当にそれだけです。この事実をスッカリと忘れる動きが起こり、その動きが現在進行形だから悩むのです。もしかしたら、、という思いが起ころうと、、、、もう今更勘弁してくれ。。。。。。。です。だからこのメッセージは嫌われます。人生半ばでそんなメッセージ遅いよ!!!!!です。もうこれで行かせてくれ、、、、勘違いでイイっす。。。。。です。

結局横取りする「私」

気づき

真実のメッセージに気づき始めますと、、、様々なことが変わっていきます。気軽な感じになったり、景色が変わったり、、習慣が変わっていきます。その時、、、勘違いの記憶は、、この功績は「私」がやったのだ、、、という思考をぶち上げます。そうです。この功績は私のもの、、という反撃に出るのです。そしてあちこちで、、私はやり遂げた、、私は目覚めた、、、とマウントを取るのです。こうしてまた勘違い記憶を増強しようと目論みます。

ですが、、、、

そんなことはどうでもいのです。もう既に勘違いの記憶を消去してしまえばOKと分かっていますから、、、、自我が何をほざこうが、、思考しようが、、、、、放っておいてください!!!!そして、、、ただ真実のメッセージに触れて、、、、勘違いの記憶を消去するのです。日々真実のメッセージに触れて勘違いの記憶を消去します。これをただ誠実に、、ただ情熱的にやっていきますと、、、、勘違いの記憶が消去され、、、自我の横取りも無くなります。

気づきと気づきの内容

気づきが気づきの内容として現れる

今この瞬間、何が起こっていますか????景色が現れ、それが気づかれています。これしか起こっていません。思考が現れ、、思考の内容が気づかれている。これがただ延々に続く、、、、これが真実です。逆に言えばこれしか起こっていない。確認してください。本当にこれしか起こっていないのです。音が聞こえる、それが気づかれている。。。気づきと気づきの内容、、、それしか起こっていない。。。。。です。ですが多くの方????は内容にばかり目が行き、、、それが気づかれている、、、という事実には気づいていないのです。

私がこの景色を見た

いやいや、、、、この景色を見たのは「私」です、、、、、という思考が現れ、、、やはりそれが同時に気づかれる。。。つまり、、、、どこまで行ってもこれしか起こっていない。。。。。いやいや、、、、私こそがこの景色に気づいたんです。。。。。。という思考が起こり、、、やはり同時に気づかれる。。。。本当はこれしか起こっていないのです。ですが、、、そうは問屋が卸さない。。。。。この圧倒的事実が忘れ去られ、、、、直ぐにマイストーリーが勘違いの記憶から現れます。ですが、、、、その内容が現れ、、、気づかれます。どうやったって、、この事実からは回避できないのです。

マイストリー

マイストーリーというのが成立するのは、、、、気づきと気づきの内容が「この体の中の私」によって行われているという勘違いの思考が立ち現れ、、、それが気づかれているのです。どんな勘違いの思考であっても、、、それが気づかれてしまう。そしてその構造システムが「この体の中の私によって行われている」という思考も気づかれる。。。。。こうなっています。自我とはこのシステムの総責任者のことです。ですが残念ながらこのシステムがこの体という幻想の中で行われるわけがないのです。なぜならば体も幻想であり思考も幻想です。幻想に気づくことができるのは幻想の外以外にはありません。

私=記憶のパターン

私とは?????

私とは何でしょうか????記憶が生み出すパターンです。概念です。あの人ってこういう人だよね!!!と予想がつくのはその人の記憶が特有のパターンを持っているからです。それはそのはず、、記憶こそが「私」「私の行動」「私の感情」「私の思考」を生み出すからです。「あなたはこの世界の住人よ」という初期設定が、、、あらゆる五感を全て、、、この初期設定の上に重ねていくのです。記憶が増大していきます。カレーを食べれば、、私が食べた味として記憶が増えます。この記憶こそが「私」を増大していくのです。ですから年々、年々、、、歳を重ねれば動きがパターン化し、、、、急激な変化についていけません。記憶量が多いからです。

反射が起こらない

悟りのメッセージに突然高齢者が触れても、、、記憶がこれを処理できず、、、遮断されます。実は全部幻想です、、、記憶が処理できない、、、終わり。。。。こうなります。ですがこのパターン化された行動に嫌気がさした時、、、、記憶が処理できないメッセージだからこそ、取り入れよう。。。という全く逆の行動が起こります。これはもう記憶の奴隷ではなく、、、記憶の解体です。記憶の存在を意識が俯瞰的に見えている状態です。記憶の奴隷から自ら意識が目覚めようとする動きです。

これが現実だから、、、、

プロ

ボクサーの中でプロになれるのは1%、そしてその中でそれで食べれるのはさらに1%、、、、これが現実だから。。。。。。凄い、凄い、、、、説得力がある言葉。。。。。。そんなパーセンテージに挑むってどうなん????まともな大人はやらなくないですか??????これ罠です。半端なく罠です。これは全て幻想です。幻想ですから「難しい」と確信すればただ「そうなる」のです。ですから今の現実を凝視しないでください。それただの「固定観念」です。その固定観念は無視してただ真実に触れるのです。

一度分かっちゃえば、、、、

それ難しいよ、、それ難易度高いよ。。。。。。という私の固定観念が今、、、、、他人を通じて起こっています。それだけです。だから無視してください。。。。そしてただ真実に触れて行きます。ただやりたいように動きます。真実に目覚めて行きますと、、、固定観念が変わっていき、、、全く異なった結果が起こります。それを一度でも経験してしまえばもう周囲の声は気になりません。また固定観念がなんか言ってら、、、になるのです。

安心という体験

条件

人は安心を求めます。不安が基本ですから、、安心を求める、、というのは人間の根源的欲求です。結婚などそうですが安心を求めて動く究極の行動です。就職もそうです。年金も保険も、何もかも安心を求めての行動です。つまり人間は条件を揃えれば「安心」が手に入ると信じています。条件を揃えた時に浮かび上がる「安心」はその時「ボコっと」浮かび上がる安心です。これは幻想です。それまで無かったのですから。つまり安心という幻想を求めて動いているということです。ですがそれは幻想ゆえに現れては消えます。条件が揃っていようとも幻想ゆえに消えるのです。

では

絶対的安心、これはどうやって手に入れるのでしょうか????これは幻想では駄目です。現れては消える幻想の安心では駄目なんです。つまり今既にここに確実にあって消えることが絶対にない「安心」を手に入れる以外にないのです。既にあるけれどもただ忘れてしまっていた「大安心」を再び発見する以外にないのです。それは何????それはこの移り変わる幻想の土台です。絶対に消えない土台、根源の存在に気づくことです。この偽りの幻想もそこから立ち現れて消えるのです。その土台があるからこそ偽りの安心も現れて消えていくのです。

矛盾

矛盾するようですが、そんな偽りの安心が現れて消える目撃者が存在するからこそ、、、今度こそはと期待します。あれ????安心が消えちゃった、、、、その発見者が存在しなかったら、、、期待もできないのです。そうです、我々はその偽りの安心の存在に気づく気づきです。振り回される心に気づく存在です。だから我々は損なわれることもないし、付け加える必要すらない存在です。

全部そこから

では最終回答を伝えます。偽りの安心を求めるのは単に「自分の存在」を忘れる動きがあるからです。この究極の土台であることを忘れ、、この体を自分とする動きが起こったことから、、、怖い怖いと安心を求めます。ですが手に入れる全ては幻想ですから、、、現れては消えます。つまり安心はあり得ないのです。そこで考えます。いやこれらの幻想では安心は起こらないと。。。。そして究極の存在に関心が湧くのです。それがこの根源、土台です。

他人の意見

ほーなるほど

他人から意見を言われます。「あなたは何でも焦っているからもっと落ち着けば。。。。」と私自身が自分の欠点を常に意識している場合「ガーン」となります。ですが全く欠点に意識を向けていない時「まーそういう意見もあるか」となります。日々服装を気にしていれば「ダサいね」の一言で「ガーン」となります。気にしていなければ「気にする人にはそう映るよね」で終わりです。つまり他人からの口撃は本人の意識次第に過ぎないのです。

意識の反転

私自身は意識の反転にしか興味がないので、、、、、他人からの口撃は「面白い」とさえ思います。そうかかつてはそんなこと気にしてたわ。。。。。です。小学生が幼稚園児の知能をバカにはしません。中学生が小学生の知能を馬鹿にはしません。高校生は中学生の知能を馬鹿にはしません。。。。ただそこには違いがあるだけで、、、優劣ではないのです。進化のプロセスがあります。

否定

否定というのは森羅万象の動きを理解していないことから起こります。全ては一体であって「特定の部位」に自由意志など存在しないのです。その部分にそのような動きが起こった、、そう見えただけです。実際には「その人」自体が存在しないのです。当然こちらも同じです。この体も森羅万象の動きに過ぎません。そう見える思考が森羅万象の中に起こる、、そう感じる動きが森羅万象の動きの中に起こる、、ただそれだけです。