この映画の中になど一度も参加したことはない

映画

ある映画を観にいきます。その映画のガンガンにのめり込みます、その時あなたは主人公に成り切っています。映画の中にガッツリ参加しています。そして映画が終わった瞬間、、、現実に引き戻され、、、映画の中の役は終わります。さて、、もしもこの現実も映画ならば、、、あなたは映画の中には絶対に絶対に存在しません。あなたは映画の外に居て、、、そのままこの「私」という役にのめり込むのです。それがこの現実と呼ばれる私ストーリーです。真実では私は映画の中には存在できません。

私の投影が映画

映画の中に私が存在するのではなく、、、私が「映画」を観ています。そしてこの映画とは「私」の反映です。私が今私の反映である「映画」を観ているのが真実です。そしてその中で主人公の「私」に夢中になり、、いつの間にか観入ってしまっているのです。だから私はこの映画の中になど実は参入などできません。私が映画の中に入ってしまった途端にこの映画も消えます。実在が反映の中に入れるわけがないのですから。

影と遊ぶ

子供は自身の影と遊びます。影と追いかけっこをします。ですが子供の体が影そのものの中に取り込まれることは不可能です。不可能にも関わらず体と影はまるで同じ次元にあるかのうように遊ぶことはできます。そう勘違いする遊びです。今まさに我々はそれをやっているのです。この世界は「私」の影です。この影はあまりにも完成度が高いから思わずこの影と遊んでしまっています。

色の種類

日本人にとって虹とは7色。ですが海外では6色、8色、9色と、、、各国によって虹の色の数は異なります。なぜ???????記憶が虹の映像を取り込んでそう編集するからです。7色だ!!!!という判断は記憶こそが行うのです。我々はありのままなど全く見ていません。我々が見ている世界とは記憶の編集作業済みの世界です。つまり記憶が見せたい世界です。記憶にとって都合の良い世界を見ます。「給料をたくさんくれる社長」はあなたにとって格好良く写ります。普通のオッサンでもそう記憶が見せます。そんな記憶は絶対にあるはずです。

洗脳

洗脳とはその人の記憶の中に「絶対的現実」を埋め込み、、、そう見えるようにしてしまうことです。その埋め込みが「相手」にとって都合が良いように見せるメソッドを洗脳と呼びます。つまり我々は誰かにとって都合良く見える「世界」を既に構築されている可能性があるということです。日本という国は日本という国にとって都合の良い「思い込み」を国民にさせている可能性があります。どの国でもそれは同じです。

思い込みの削除

悟りとはこの思い込み、勘違いの記憶を「真実のメッセージ」でもって完全削除してしまうことです。真実の前に思い込み、勘違いは、、、一掃されます。一掃された勘違い記憶によって残された記憶のみが、、、五感の現れを知覚し、、、真実の姿をここに見せるのです。これが悟りです。解放です。目覚めです。

真我は自我を抹殺する

なぜ?????

真我と自我の共演はあり得るのでしょうか????真我も存在し自我も存在するということが。。。。。真我実現が起こった時、、、かつての私「自我」は解体します。なぜならばかつての私「自我」とは真我をこの体の中に取り込んだ「私」だからです。その私が解体し、、そこから真我が飛び出て、、、私は思考という抜け殻になったのです。真我は元々あったわけです。その真我がこの体の中に存在しているのだ、、という思考こそが「自我」です。ですから真我が発見された時、、自我は死ぬのです。

自我が消えたら、、、

自我が消えてどうやってコミュニケーションが取れるのですか????何も変わりはしません。私が生み出す世界の中で「会話」が起こります。真の私が飲み込んだ世界の中でかつての私と誰かの会話が起こります。ですがかつての私の中には真の私はもう存在していません。真の私の中で世界が存在するのです。そのことは既に分かっています。そのことに気づいています。私はもうこの世界には住んでいないのです。私がこの世界を生み出しているのですから。

苦悩と快楽には原因がある

真我実現には原因がない

真の幸福には原因がありません。至福には原因がないのです。何かに依存した幸福は、その何かが消えれば幸福も消えるわけですからそれは幸福でもなんでもないのです。何かに依存した幸福は全て「快楽」です。その何かとは「勘違いの記憶」です。「勘違いの記憶」が苦悩を生み出し、、「勘違いの記憶」が快楽を生み出します。思考が全くない場所に苦悩と、快楽は存在できません。

真の幸福

真の幸福とは、、、ただ、、、私とは誰か?????という究極の疑問が消えることです。真の私が明白に分かった時、、、、もう苦悩、快楽ゲームには興味がなくなります。もう苦しみがないから、、快楽も求めません。苦しみとはただ勘違いの記憶が生み出したことに気づけば、、、疑問がなくなり、、、苦しみも快楽も消えるのです。

勘違いの記憶はなぜ起こった????

この世界は「無限」の投影ですから、、、、何でも起こらなくてはなりません。ゆえにここでは勘違いも起こらなくてはならないのです。今ここに勘違いの記憶から自我が現れているならば、、それも無限の経験には含まれているのです。ですから本当は何が起こっても問題などないのです。苦しみも快楽も無限の一表現なのですから。。。ですが苦しいのは事実であり、それを終わらせたいのもまた事実です。その動きが真剣ならば「真実のメッセージ」に触れる動きが起こり、、解放が起こるでしょう。

記憶が真実に触れることを恐れる

固定観念

何が真実のメッセージをシャットアウトするのか???何か????自我だ、、、では自我は何で出来ている???自我は記憶なしには成立しない。。。。つまり自我とは記憶のことです。この勘違いの記憶こそが「真実」を徹底的に避けます。スピリチャル?????怖い、怖い、、、、近寄ってはいけない。となります。ですが実は勘違いの記憶、固定観念こそが「真実」をシャットアウトする反応を起こすのです。そこにが自由意志はなくただそのような反応が起こります。森羅万象の動きの中でただその動きが起こるのです。

自分など居ない

酔っ払うと普段怖いものが怖くなくなるのは「記憶」が麻痺するからです。記憶がお酒という毒素で、、麻痺し、、恐怖心を発生させないのです。人間はお酒を利用して記憶を緩め思考、感情を変えてしまうことを覚えました。一時的記憶解除液です。自分も記憶の一部であり、、深酒で、、、、記憶が飛ぶのはその影響です。悟りとはこの記憶自体を消してしまいましょう、、という話です。勘違いの記憶自体を「真実のメッセージ」に触れることで消しちゃいましょう!!!!という話です。

できる人とできない人

悟りのメッセージに触れれる人とそうでない人が居るのはなぜですか?????今徹底的に恐怖心の中で生きているならば「悟り」には触れれないかもしれない。なぜならば「勘違いの記憶」というサバイバル装置がその情報をシャットアウトしてしまうから。コロナのど真ん中、、、生活も仕事もヤバい、、、、という状況で「勘違いの記憶」を強制削除など、、、、記憶が許さない。今はそんな状況じゃねーだろ!!!!という話です。そうやって勘違いの記憶を使って生活が安定した時、、、もしかしたら真実に触れる流れになるかもしれません。全ては森羅万象の動きです。あるがままの動きです。勘違いの記憶の動きすらも森羅万象の動きです。

記憶との整合性

数学

あなたが小学生時代に「微分積分」の問題が突然テストで出てきたら、、、?????になります。パニックです。これ記憶がその問題を取り入れることができないのです。記憶の延長線上にその問題がないのです。だからパニックを起こします。悟りのメッセージも全く同じ、その人の「記憶」の延長線上にないメッセージなのです。だから取り入れることができないのです。子供から大人になり、大人でしか理解できない小説があって、、その先にさらに成熟した小説が、、、その先には「悟りのメッセージ」はないのです。悟りのメッセージは過去の延長線上にはなく、、、ゆえにこれは理解ではありません。過去の記憶が間違いだったという提案です。

噛み合わない

覚者の言葉は多くの場合、噛み合わない結果になります。聴衆は記憶の中でこれを理解しようとします。ですがそのやり方では理解できません。大前提が全く違うのですから。だから過去の記憶に頼らずに聞いてください、、と訴えたところで、、そんな経験がないのですから不可能なのです。あえて可能性があるのならば、過去の記憶を全て横に置いて聞いてみてください、、、としか言いようがありません。

天動説が地動説に

過去に人類は世界の大転換を経験しています。天動説が地動説に完全に切り替わったではありませんか。。。。ですからそのような大転換が起こってもおかしくはない。。。。むしろ起こることを可能性に含めなくてはならない。。。。。ということです。それが目覚めです。覚醒です。解放です。

全てを合わせたら「自分」???

全て

この世界が私のものだとしたら、、、この机、空気、テーブル、、この体を全部合わせたら「私」になるんですね??この世界を「私が」生み出しているのですから「私」はその全てを超えた存在です。その全て=私ではなく全てを超越した存在が「私」です。ですから悟りとは自己超越と呼ばれます。自己を超える、、、この世界を超えることは悟りです。そこを実感できればゴールです。実感できないとすれば「勘違いの記憶」がその実感を阻止しているのです。

ならば

勘違いの記憶を徐々に徐々に削除していきましょう。本丸は不可能でも小さい小さい勘違いを削除します。そのためにこのブログはあります。自由意志がない、全ては幻想、ここ以外何も起こっていない、、あらゆる真実のメッセージを、、、浴びてください。分からなくていいのです。ただ浴びます。ただシャワーのように浴びます。何でもいいのです。どこから記憶が削除されるかなど全く分からないのですから。

ゲスい

ブラック労働とギャンブル

ある会社がブラック労働を社員に強制させます。その社員はストレスが溜まります。その会社の経営者は会社横にパチンコ屋を建て、、、社員をパチンコ屋に誘導します。ストレス発散をパチンコで解消させようとするのです。低賃金で働かせ、さらにその賃金をパチンコで回収するのです。これを「ゲスい」と言います。ですが実際にはこんな「ゲスい」構造が今あなたの中にも存在します。え???????何言ってんの????なわけないじゃん。。。。。。ですよね。。。。。。ですが事実です。

記憶

我々の記憶とは勘違いの記憶の集積です。この勘違いの集積記憶は「苦しみ」を生み出します。「孤独感」「不快感」「分離感」を生み出します。。。。。。そしてその集積記憶が「快楽」を生み出します。ギャンブル、異性、食欲、名誉欲、、、、、、を生み出すのです。大元は同じ「勘違いの記憶」です。ここからあらゆる思考、感情が沸き続けるのです。これが「人生が苦」と言われる所以です。どんなに快楽を貪ってもその快楽自体が「勘違いの記憶」から現れでているのですから、、、「意味ないじゃん!!!!!!」状態です。

騙された!!!!!!

はい、、、今気づいた人は「騙された!!!!!!」という気づきを得ます。そうです。完全に我々は記憶の奴隷であり、、、記憶によって「七転八倒」「有象未曾有」の世界に閉じ込められていたのです。勘違いの記憶によって「苦痛と快楽」の両方を行ったり来たり、、、たださせられる。。。。。。両極をただ振られ続ける。。。。。この事実に気づいたら「真実のメッセージ」に触れてください。勘違いの記憶をただ消してください。

欲望

構造的生成物

欲望はなぜ終わりがないのか???なぜ?????なぜならば欲望の根源は「記憶」だからです。勘違いの記憶が「欲望」を構造的に生み出します。ですからこの欲望を抑えよう!!!!という努力は完全に無駄です。構造上湧いてくるものだからです。湧いてくる欲望に蓋を閉めても、、、、湧かなくなるわけがない。。。。これが欲望です。勘違いの記憶が小さくなった時のみ、、、欲望も消えます。

何かが足りない

欲望とは苦しみを一時的に解消してくれる対処療法です。性欲、食欲、睡眠欲、、、あらゆる欲望は「苦しみ」を一時的に解放してくれる対処療法です。これが勘違いの記憶から自動的に湧いてきます。この動きにコントロールはいっさいないことから、、、欲望に縛られていない人を見ると、、、何かが違う。。。。という気づきが起こります。勘違いの記憶を除去しない限り、、、欲望を沈めることなど不可能です。

欲望が大きければ大きいほど

勘違いの記憶が大きいのです。勘違い思考のデータ量が半端ない時、欲望も大きくなります。勘違い記憶が小さくなればなるほどに欲望も必要なくなります。苦しくないのだから解消方法も少なくていいわけです。苦しみの増幅が、、欲望の増幅です。外への苦しみ解消が不毛なのは「苦しみのメカニズム」から現れる欲望の消化は苦しみのメカニズムの中の活動だからです。

なぜ情熱が湧いてくるのか???

事実

事実と向き合うと情熱が湧いてきます。あるがままを受け入れた時、、何もしていないにも関わらず情熱に包まれます。意志とは愛であり情熱です。ここは意志が満ち溢れた場所です。ここが情熱そのものに変わります。ですが勘違いの記憶が増幅し、、勘違いの記憶が全ての五感を牛耳ってしまうと、、、生きた現実は姿を消します。概念化された、思考化された現実に姿を変え、、、、編集された「生」を生きることになるのです。

勘違いの記憶からの解放

勘違いの記憶が削除されていきますと、、、、「生」が記憶から解放され、、、、、生そのものに変わります。躍動する「生」です。生はそもそも躍動してただ記憶が生を概念化していただけなのです。五感が記憶によって乗っ取られ、、、そこに概念がガッツリ重ね合わせられます。「花」は本来の花ではなく、、概念の中に閉じ込められた「花」に変わります。人間は本来の人間ではなく、、、、概念の中に閉じ込められた「人間」に変わるのです。

何かをすれば、、ではない

情熱的に生きるためには「概念」の断捨離が必要なのです。記憶の断捨離です。勘違いの概念を記憶を削ぎ落としていきます。削ぎ落とされた概念、記憶は五感の乗っ取りをできません。その時、、、何もしていないにも関わらず「情熱」が湧いてきます。情熱とはただ無駄な観念、概念、思考が取り除かれた状態だったのだと気づきます。