サウナ

とんでもない暑さ

サウナって入れば分かりますが、、とんでもない熱気、とんでも湿度、、、です。これが幻想?????ありえない、、です。ですがですが幻想です、、、熱気を感じる触感が、、熱気を作り出し、、湿度を感じる触感が湿度を作り、、サウナ場というビジュアルを作り出す視覚がサウナ場という幻想を作るのです。信じられない話ですが、、サウナが最初にあってそこにこの体が行くのではないんです。五感がサウナを誕生させその中に五感がこの体を生み出すのです。

半端ないから幻想じゃない

エベレストを上るときに、、このエベレストが幻想?????何いうてんねん!!!!という話です。半端ない壮絶な環境の中で、、、「幻想?????」勘弁してくださいという話です。ですが幻想です、この寒さ、この痛さ、この空腹感、この肉体疲労、、こそがこの幻想を生み出すのです、、寒いにはこの気候があるから、苦しのはこの山があるから、空腹感はこの体があるから、、肉体疲労は、、この肉体があるから!!!となります。この五感こそがこの幻想を生み出し、、幻想を体感します。

気づく

そこに気づきますと、、この幻想は、、五感に依存し、この体もこの環境も全部五感に依存していることに気づきます。真実ではこれは空『不変の自己』です、、これしかありません、、、ですがそれだけでは、、自身が存在することすら気づけない、、ところが空は全部ですから、、自身の存在に気づく存在も居ないといけないわけです。すると空の中には空の存在に自覚的な部分もでてくる、、これが色(無限の現れ)に気づく存在の登場です。それこそが五感です。。。五感が空の現れである無限の現象に気づくのです。思考がこれは何だ???と騒ぎ出し、、これは私の鏡だという思考も起こる。。。これが(無限の現れ)が私の鏡ならば、、私は無限だ!!!という気づきが起こります。空即是色、色即是空に「気づく」が起こるのです。

悟りとは、、五感が実は幻想を生み出しこの体、この環境の産みの親であることに気づくことです。ですが五感があって次に環境、体が登場したんではありません。そこには時間も存在しないので両者はもしくは三者は同時に生まれたのです。そこにあったのです。そして最終的にはこの五感は、、体に依存もしていません。。五感とは現象と同時に生まれます、五感が現象を生み出し現象が五感を生み出しています。そこにも気づきます。

幻想

外は雨

外は雨です、、なぜ外が雨か分かるのか?????先ずは聴覚があります、、雨の音を感じます。そして曇っています、曇りを視覚が感じます。。さらに触覚があります、、湿度を感じます。この三つの感覚で雨を感じています、、さらに言えばこの三つの感覚こそがこの世界に雨を生み出したのです。この三感覚が無ければ、、雨を実感できていないのです。雨という幻想を実感できないのです。つまりこの三感覚が「雨」を作ったのです。

雨があってじゃない

雨が最初にあってそれをこの五感がキャッチしたんです!!!!ではないんです。五感が雨を作ったのです、雨が最初にあったのではない、、雨は幻想です、、幻想は幻想ゆえに、、幻想のみでは成り立たない起こらないのです。五感こそが雨を作り出しました、、だから我々は神なんです。よってこの体という幻想も当然起こり認識されるのですがこの私はこの体の中にすっぽり収まるコンパクトサイズではないんです。真実は違います。五感が無ければ雨も太陽もこの体も誕生しないのです。

感じると幻想は一つ

雨が最初になって五感で雨を感じる、、この体が感じるを作ったんだ!!!ではないんです。五感こそが雨という幻想をこの世界に誕生させたのです。この体もです。この体という幻想もこの五感が誕生させたんです。頭が混乱しますよね?????この体があって五感が進化し、外の雨を感知できるようになった!!これがダーウィンの進化論です。違います、、この五感が外部環境を認識しこの体も認識し、雨も体という幻想もこの世界に現れることが可能になったのです。

悟り

悟りとは思考が考え出したあらゆる推論をバッサバッサと切り倒し、、真実に至らせることです。悟りとは思考が作り出した推論を完膚なきまでに切り倒し真実のみを残させる行為です。悟りとは、、思考の罠を思考のイリュージョンを思考の詐欺行為を見抜き、、真実のみを顕にする行為です。

軽さ

何かを得るからじゃない

お金が手に入ったら、、安定が手に入ったら、、実績が手に入ったら、、、気分が軽くなれるんじゃないか?????というのは幻想です。手に入れば手に入るほどに、、失う怖さが起こるので、、軽く全くないわけです。有名になったら好き勝手やれる????全くの逆です、、、有名になったら一挙手一投足、、監視されます。だから何かを手に入れて幸せになるという作戦は、、、苦しい作戦なんです。

軽さとは

軽さとは「個人が何かを得る」ことで得られるものではなく、、、この個人が実は居ないという真実に触れることで起こります。「真実の理解=軽さ」です。だから何も得なくていいし、何も達成しなくていい、、何かを手に入れるから軽くなることはない、、と悟るのです。ただ真実に触れて真実に生きるのです、、すると軽くなります。

幻想

この世界は全部幻想です、その幻想を作り出すのが五感です、、この五感が無ければ幻想に気づくことはできない、=幻想も存在できない、、となります。つまり我々は生まれ持ってそこにあった五感によって幻想に気づき、この体という幻想に気づき、、そこから、、この私という第七感が起こり、、感情という第6感が起こり、、私物語が起こっているだけなのです。

悟り

真実は人を軽くします。真実は人を軽くする以上に人が居ないことを見抜き、軽さを生み出します。どこに????全体にです。人が居るという幻想が、、この世界に重さを生み出し、、この重さを払拭したくて右往左往しているのです。真実では五感が幻想を作り出し、この世界この体をも作ります、そしてこの体には「私」が居るというさらなる幻想を第七感(思考)が作り出し違和感という第六感(感情)を生むのです。この事実に触れてください、事実は軽くします。

憧れなくていい

勝手に起こった

大好きなサッカー選手、野球選手、モデル、役者、ミュージシャン、、憧れる、、同じ分野で食べているならば尚更に、、俺も私もあんな努力ができたならば。。。。。残念、、その努力は彼ら彼女らが起こしたんではないんです。勝手に起こったんです、勝手にそのような努力が起こり才能が起こったんです。誰一人その努力をコントロールできる誰かは存在しません。

じゃあどうすんの?????

努力が勝手に起こる者ならば、、、今三軍キャンプで右往左往している選手には光はないのか????ないんです、全く。。。。どうなるか、どのようにそこに至るか、、において自由意識が全くなく、自由行動も全くないのです、、ですから、、、何もできない。。。とんでもない諦めの境地を掴んでください。。すると、、憧れるとか羨ましいとか悔しいとか、、がない。。。

コントローラーを手放した

マリオカートの自動操縦モード、、勝手にマリオが動く、、実は勝手に動いていたことに気づく。ガンガンコントローラーボタンを押していたつもりが、、実は自動操縦だったという大オチ。ですがそれが人類80億人を救うのです、この事実が人類80億人を救うのです。もう誰かに憧れて頑張らなくてもいいし頑張ってもいい、、それも勝手に起こるのだから。

悟り

悟りとは個人が頑張って個人が何かを手に入れて個人が何かを手放すという個人ストーリーの終活です。何も自由がなく何も行動もできず何も決められず何も思うことも決められない、、という真実を個人に突きつけるのです。お前は実は何もしていない!!!!!です。その時、、個人は力を失います、自信を失います、、同時に、、解放されます、責任から解放されます。憧れる誰かもマウントを取れる誰かも実はいない、、この真実が個人を救います、、個人という夢物語が終わるのです。

パニック

信じていたことが壊される

お金さえあれば、地位さえあれば、評価さえあれば、パートナーさえ居れば、家族さえ居てくれれば、、、、人にはこれさえあれば、、という心の支えがあります。この心の支えが順調に問題なく在り続けてくれればそれでいいのですが、、そうはいかない。。。そう簡単にはいかない、、のが現実です。いつかそれが崩れた時人は生きる希望を失って早死にするか、、執着縛りが消えて悟りに目覚めます。

突然の解雇

全てを捧げていた会社から突然の解雇、、人は選択に迫られます。もうやる気がしない、、あとは酒を朝から飲んで死んでいいや、、、か会社という存在に依存していた、人生とはそんなに浅いものではない。。。という気づきに至るかです。本当は分かっているのです、会社に依存するのが正しいとは限らないことは。人は信じているものが崩れる時、、失望するか解放されます。頼るというのは依存でありその時点で「苦しみ」があるのです。このメカニズムが崩れるのです。崩壊は解放です。

幻想

お金も地位も家族も評価もパートナーも、、全部が全部五感が作り出した幻想です。この幻想に依存するというのは危険なです。幻想ですから。五感があまりにもありありと幻想を創造するので我々はついこの幻想に依存します。ですがこれは勘違いです、真実とは異なります、よってこの依存は「苦しい」が最初からあります。「違和感」が最初から起こります。違和感のなかで偽りの「安心」を得ているのです。

幻想が落ちる

お金も地位も名誉も家族も全部幻想です、、幻想ですからいきなり崩れます。幻想が幻想としてそこに在り続ける方が難しいのです。だから崩れて当たり前です。そういう意味では幻想の何かにしがみつくのは最初から「苦しい」そのことを実は誰しも分かっています。そうではなくこれが幻想だ!!!と見抜くのです、所詮幻想、されど幻想。本当にこれが幻想で幻想なんだと気づくと、、全く違う視座が生まれます。この幻想であるこの体に自由意志なんてあるわけないじゃん、自由行動、自由感情あるわけないじゃん!!が起こります。

されど幻想

幻想にしがみつくのはおかしよね!でもだとしてもこの幻想って凄くない?????山は綺麗で川は美しく野原は生命で溢れている、、、この幻想って幻と呼ぶにはあまりにも壮大すぎる。。。そうですこの幻想はとんでもなく偉大壮大甘美、、、そしてこの幻想の所有者こそが私です、、そこに気づくと、、とんでもない感動が生まれます。

ケチ

損得

損得勘定、取引、駆け引き、、、、自我の動きはこれを積極的に行いますが、、この大前提には大きな勘違いがあります。大勘違いが、、自我の動きを強固にし結果的に取引、損得、駆け引きに動くのです。この自分を強く強く意織しますと、、「苦しみ」が勝手に湧くため、、その解決方法として多くを手にし少なくを手放そうとするのです。損得、駆け引きは結果引き起こったものであってそこを強引に沈めても全く意味がありません。

重要なこと

重要なことは勘違いを終わらせることです。勘違いです、無知です、、ここを終わらせることが最重要、最重要課題です。誰にとって、、「私」ではないですよ、、勘違いの動きがいまここ、あるがままで起こっており、これを終わらせることが重要なのです。

どうやって終わらせる

真実に触れるのです、それ以外にありません。思考が作り出した嘘のイメージを壊すには「本当はこうなっている」という真実に触れる以外にありません。頭でこねくり回して真実にたどり着こうとしてもその大前提が勘違いですから無理なです。天動説をベースに地動説を発見するのは無理なんです、天動説の中でしか人は思考できないからです。悟りとは勘違いの根底を壊すことであり、、根底をベースにした思考ではこれはできません。

存在

内と外

我々の本質は、、内と外両方の現れを認識する存在です。内と外の現象を起こす創造者でありかつそれを認識する存在でもあります。内と外とはこの体の皮一枚を境にそうなっていますがこの皮一枚によって何が変わるのかと言えば実は何も変わりません。ただし、、この思考はこのことを重視し「私」がやった、「私」がこの世界に影響を与えた、、という想像を起こします。ですが、、実際には、、この皮一枚によって何かが変わることは一切なく、、ただこの現象が起こるのです、、内外を問わず。

全現象

全現象は間違いなく起こっていますが、、それを認識するのは視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚という五つの感覚を通じてです。この感覚が現象を実は支えています。この感覚こそがこの現象、幻想、幻を作り出しているともいえます。見える幻想、聞こえる幻想、味わえる幻想、触れる幻想、香る幻想です。五つの幻想を五感が作り出し、、この幻想を作り出したこの体の中に自分が居るという思考(第七感)を作り出したのです。そしてそれに伴い「違和感」という感情も同時に作り出しました。

この体

この体が五感を作り出したというのは思考(第七感)であって、、五感がこの体を作り出したのです。その証拠にこの体も視覚によって存在が確立し、触覚によってこの存在が確立し、嗅覚によってこの存在が確立し、味覚によってこの存在が確立し、聴覚によってこの存在が確立します。この世界の確立と全く同じなのです。思考はこの世界が外部でこの体が内部、、そしてこの内部には「私」が存在するという概念を打ち立てたのです。その結果「違和感」が起こりその違和感解消のために新たな思考が今も起こり続けています。

悟り

悟りとはこの事実を正しく認識することです。本当は内も外もなく、、ただ五感の存在によって五感が働くベクトルに内外を設けたのです。これは思考です。五感の内が「体」五感の外が外部環境となりました。ですがこの幻想の世界はただ起こるのみ、、、内も外も実はなく、、そうあるとする思考が今も起こり続けます。そしてそれえに伴い感情が常に起こるのです。

地球

五感

地球とは全人類の五感が作り出した幻想です、人類に五感がなければ地球は存在しません。つまりこの五感こそが地球を作り出し人類を作り出したんです。これを一人の人間に当てはめれば、、五感がこの地球を作り出しこの体も作り出しました。五感がこの地球、この体の接点であり同時に創造者です。そしてそこから起こる思考が様々なストーリー、もしくは真実を指し示す指になります。ストーリーにどっぷりハマることもそこから這い出ることも、、完全に目覚めることも可能にします。

五感へ

当たり前にあるこの五感を、、この世界を認識する機能として我々は捉えます。ですが実際にはこの五感こそがこの世界を作っています。そうです我々はこの世界の王です、神です。だってこの五感が無ければ世界は存在できないのですから。ただし結局この世界を作り出しこの体を作り出し、この体の中に神が収まれば同じことです。この五感の王は、、この体の中に収まるのではなく、この世界を作りこの体を作り、、あるがままを観察するのです。

この体

この私はこの体の中の住人という小さい小さい住人なんてものではありません。この世界を作り出しこの体を作り出し全てを観察する者です。この体の中からはあらゆる思考が湧くでしょうしあらゆる感情が湧くでしょう、、、ですが我々はその思考の所有者でもなくその感情の所有者でもなく観察者です、、あの体の観察者であもありこの体の観察者でもあり、、あらゆる体の観察者、、あらゆる現象の観察者です。

競争から降りる

私と私以外

周りがこんなに頑張っているんだから「あなた」も頑張らないと、、これこの世界の常識でしょう。周囲がやっているぐらいは私も頑張んなくては生きていけない。。。みんな必死で頑張っているんだから当然、人よりも少し頑張れば人よりも少し豊かな生活ができるよ!!分かるよね???です。本当は本当は誰も頑張っていない、、ただその動きがあるだけ。。。その体には頑張る自我は存在しません。

この体で起こること

この体で起こることも周囲の体で起こることも全く同じです、、、ただ思考感情行動が起こるだけ。それをコントロールする誰かは存在せず、、その動きが起こるのみです。それはこの体で起こることも全く同じです。そういう意味では自然現象がただ起こっているのです、この体でも周囲の体でも。。そうなると、、、この体で起こる自然現象以上に周囲の自然現象を楽しんでもいいわけです。この体の自然現象が周囲の自然現象よりも優れる??必要はないのです。

全部が全部自然現象

全員が全員五感が生み出すこの世界の中で、、たった一人のこの自分が居るという錯覚の思考を生み出し(第七感)違和感という感情(第6感)に苦しんでいます。この五感が作り出したにも関わらずそのことを忘れ、、この広大な世界にたった一人自分が生き抜くというストーリーをぶち上げ、、生きています。本当はこの五感が今この世界を作り出し、、、思考がその孤独感分離感を起こすというギャグをやっています。そこに気づくのが悟りです。この五感が作ったこの世界がありこの五感がこの体を作り出し、、内外の全くない一つの世界がただある、、これだけです。

五感が無くなってしまったら

もしも五感が無くなってしまたら

朝起きて五感が無かったら、、、先ず視覚がないのですから光が全くない、ビジュアルがない、、真っ暗です。さらに聴覚がなければ、、、何も聞こえない、、完全な無音。そして触覚が無ければどこにいるか全く分からない、、、味覚、嗅覚が無ければ、、、、完全な無です。。完全な無。。。。怖いですよね????そうです怖いんです。ですがこの場合起きたという感覚すら無いのですから、、、意識が生じない。つまり死です。

五感が全てを作り出している

実は実はこの五感がこの世界を作り出しています。この五感が無ければこの世界は登場できないのです。この五感がこの世界を世界たらしめています。そうです、この世界にこの人間が居るんではなくてこの五感を所有した人間があって初めてこの世界は登場するのです。もっといえばこの人間という体は五感が作り出しています。この世界同様にこの五感が作り出したのがこの人間という存在です。

思考、感情

五感の誕生によってこの世界も誕生するのですが、、そこに思考が起こり、、この体の中に「私」を作りました。この世界の中でたった一人で生き抜く「私」の登場です。この五感がこの世界この体を作り出し、、、思考がこの体の中に「私」を作り、、この世界を生き抜くという物語を作ったのです。本当はこの五感が今ここでこの世界を作り出しています。世界が最初にあって、、、じゃないですよ。五感がこの世界を今作り出したんです。物語は完全に嘘です。嘘だから違和感が生まれているんですよ、そこに気づいてください。