記憶
目標を設定しそのための努力をすることをやってきた我々は、、、当然悟りも努力の果てに叶えるもの、成し遂げるものと考えます。今までそうやってきたのだから、、今回の案件「悟り」も当然そのやり方しかないだろう。。。。これが我々の思考が考える方法です。慣れ親しんだメソッドです。ですが断言しますが、、このやり方では悟りは開きません。なぜならば勘違いの記憶の中で、それが生み出した私が、、、将来悟りを開くと決めているからです。悟りとはこの勘違いの記憶自体を崩壊させることです。その中に含まれる私も崩壊させることです。悟りを開くことになっている私も記憶の消去と一緒に消えてなくなることです。
記憶が生み出すストーリー
真実のメッセージは記憶が生み出すストーリー自体を消去してしまいます。つまりこの記憶が生み出す私も木っ端微塵に消え失せるということです。記憶が生み出す私物語、マイストーリーも記憶と一緒に木っ端微塵に消えてなくなります。そんなことは可能なのか??????逆に言えば記憶喪失になればそれが起こります。記憶喪失にならずに勘違いの記憶だけを消去します。どうやって????真実に触れるだけです。
だが
ですが、、、勘違いの記憶が「真実」を「三顧の礼」で向かい入れることは絶対にない。。。。自らの存在を消去してしまうようなメッセージをなぜ「ようこそ」と向かい入れるというのでしょうか。。。。ですからこの拒絶こそが「真実の証拠」であるという俯瞰が必要です。意識がここを俯瞰しない限り、、そこには至れません。