意識にこだわる理由

「空」「大いなる存在」

私は悟り系に関心が長いので、、ワンネス、空、大いなる存在、ブラフマン、、、言葉はなんでも知っています。ですが実感できるのは「意識」です。「意識」とは過去45年間毎日付き合ってきました。この「意識」が神です、、、長年の親友「意識」、、、この意識こそが神だったんです。だから「意識」で全てを解きます、、この「意識」以外には実は何もない、、、「意識」の中から現象が起こり、、、「意識」が現象化し、、、現象が起これば「意識」は気づく。これだけなんです。

思考の渦

多くの方はこの真実を知らずに、、「私」ばかりに興味が行きます、、、「私」を環境に適応させるために一日中思考を巡らすのです。ですがその思考の全てが間違っています。だってこの私って意識のことですよね、、、意識って全然今までの認識とは違うんです。今までも主語は私という仮面を被った「意識」のことですよね、、、その主語が本当の「意識」に変わると、、、私の将来が不安は、、、意識の将来は不安に、、、変わり文章としておかしくなるんです。

意識の将来が不安????

私という仮面を被った「意識」の将来が不安、、、は、、、意識の将来が不安に変わります。。。意識は、、全部ですから環境の全てです。この環境の将来が不安、、、は文章として成り立たなくなります。私「意識」からすべては生み出され、、すべては「私」意識に気づかれる、、ただそれだけ。この体が向かうところは意識から様々な現象が飛び出し意識される。。。私たちは完全な創造主であり、、今までもそうだった。。その創造主がいまここに確実に存在する「意識」です。

10年ぶり

友人再会

十年間会っていない友人に会おうと「意識」します。Facebookに意識が向かい、、Facebookが現象化されます、、アプリを開きます。Facebookで検索を行います、、、旧友らしき人物が現象化されます。旧友らしき人物の写真画像が現象化されます。。もしかしてそうかも???が起こり、、、メッセージを送ります、三日後まさかの返答が現象化します。会うことになります。旧友が実際に新橋駅で現象化されてきます。「会おう」という意識がこの現象を起こしたのです。

旧友が居るのではない

旧友が存在したから会えたんではないんです、、、旧友に会おうという「意識」が旧友を誕生させたんです。これが真実です。だから「意識」が変わると現象の全てが変わります。「意識」が現象を起こすのです。嘘の真実、、環境に小さな私が居て合わせていく、、という嘘の真実を信じますと、、、その「意識」から現象が起こります。その信念に準じた現象が起こります。その現象が苦しいから、、さらにもがく、、が起こります。

どこに居ても

どこに居ても今にくつろぐ、、ができるようになります。なぜ????だってどこに行ったってこの「意識」が全部作っているならば焦って何かを達成する必要が全くないのです。新しくできたあのお店に行かなくては!!!は起きない、、だってそこもここも「意識」が作り上げた現象です。それが分かってでもの本当の興味にしか行かなくなります。

新鮮

同じ部屋

同じ部屋にいるから退屈で、、、同じクラスメイトは退屈で、、同じ部活だから退屈で、、、嘘です、、全嘘です。これって嘘を信じてしまった人々に訪れる感情です。どんな嘘????この世界は「私」という小さな存在が適応しなくてはいけない、、という嘘です。嘘????そうです、嘘です。この世界は「私」を超えた意識が全部作り上げているという真実を隠し「私」が出しゃばるという嘘を信じると、、退屈になるのです。

部屋もクラスメイトも

部屋もクラスメイトも実は毎日毎日変わっています、この「私」がいく場所には意識から現れた現象が現れます、その瞬間にです。この真実を受け入れていきますと「意識」が生み出す現象の数々を全く違った視点で見ることができるのです。全てが幻、全てが新鮮、全てが「私」と同価値になっていきます。

適応

適応というのは、、環境が先ずは最初にあってそこにこちらが合わせていくことをいいます。ですがこれは違うんです、、真実ではありません。真実は今ここで幻想が現象が意識が向く場所から現れます。もしくは現象が現れると同時に意識が起こるのです。ダーウィンの進化論は嘘です、、この世界は「意識」が作り出したいまここ世界なんです。

全部嘘

学生時代はこの移り変わる経済社会で貧困にならないように今から準備しておけ!!!と教わり受験戦争に参加したりします。ですがこれは真っ赤な嘘です。嘘嘘嘘、、、、環境は今この「意識」が作っています。視界に広がる意識から現象が今ここで広がるのです。そして何かが起これば意識が拾う、、意識が向けばそこは現象化します。

蜃気楼

ここからは見えないが

今私の右端には、、、照明が薄ぼんやり見えます、、、しかし、、正面にいる友人からは照明はハッキリ見えます。これが幻想の特徴です。友人からはハッキリと照明が見えることから、、この照明は100%実在する。そして私からは薄ぼんやりとしているが、、それは焦点が合っていないからだ。これが人間業界の常識です。ですが真実は、、薄ぼんやりは、、薄ぼんやりなんです現象として。意識をそこに向けると、、それが明確に現象化します。

鏡にはハッキリと照明が写ります、そして見えます。しかし私には照明は薄ぼんやりです、、、そして真実では薄ぼんやりなんです。鏡に写ったのは蜃気楼のようなもの、、そして実際の照明も蜃気楼です。だからハッキリも薄ぼんやりも実はどっちでもいいのです。この世界が幻想と呼ばれるのはそのためです。

ここからが重要

重要なことは、、、これが幻想であると見切って生活することなんです。この先の真実も全部知っておきたい。という衝動はあってもいいのですが、、ここからは実感が重要になります。全部の疑問を解決しないと実践に臨めないというのは実は逃避です。これはどうなの???こっちは????疑問は山のように出てきますが、、その疑問の答えは実践が教えてくれます。

意識がコーヒーカップを作る

「私」ではない

「私」がコーヒーカップをただ見る、、、たったこれだけの動きにおいて、、意識がコーヒーカップを現象化させます。これが真実です。。ここ重要です。。。。ところが、、、これを前から撮影すればこの体がコーヒーカップに向くだけです。。。。この体はコーヒーカップなどまるで作り上げていませんね。。。気づきました????そうです、、「意識」がコーヒーカップを現象化させたという事実は残らないのです。その証拠にこの体がコーヒーカップに向くという映像が残ります。

意識が「この体とコーヒーカップ」を作った

意識がコーヒカップを作り出しこの体がそっちに向くという現象を作り出します。これを外から撮れば、、ただ体がコーヒーカップに向く映像になります。この体はカップを作ることは作ることは不可能なのでこれでいいのです。その画像に意識がカップを作り出す様子は残りません。人間がカップに向くという現象の映像が残るだけです。

意識の活動は映像には残らない

意識を向けるとそれが現象化される、、これを映像で残すのは不可能です。意識のクリエイションを映像で残すためには、、、神の外に神以外の撮影隊を準備しないといけないのです。ところが神以外の撮影隊がいてしまったら神は神ではなくなってしまうのです。だから神のクリエイションが映像で残ることなどありえないのです。

歩く

意識

歩く時、意識上は何が起きているのでしょうか???体に意識が行きます、腕、足、かかと、股関節、意識を連動させて体の動きを現象化させていきます。変化を意識が作ります。それに合わせて視界という現象に変化が起こります、そこに気づきます。体への能動的意識からの現象化、視界の変化という現象に気づくという意識が加わります。さらにそこの思考が加われば思考にも意識が行き、ビジョン化されそれに気づく意識が現れるのです。

歩いている時ですら

歩いている時ですら、、我々はストーリーの世界、ビジョンの世界に住んでいます。歩きはそのままクリエイティブ活動ですが思考の内容はそれとは全く異なるビジョンを描くのです。本当は今「神」としてクリエイティブをしているにも関わらず思考の中身は「私が道を歩く」です。全く異なった世界に住んでいるんです。今神としてこの視界を作り上げているにも関わらず今「私はこの道を歩く」という世界に居るのです。

疲れた

疲れるのは当たり前なんです、、神としてクリエイションをしながら、、、「私は道を歩く」という幻想を生きています。常に映画が流れている、映画を作り上げているのですから大変疲れるわけです。24時間映画制作をしているんです。神が現象をクリエイトしながら(至福)その中に「私は道を歩く」というビジョンを描きそれを気づく意識を作ります。この映画は上映中ひたすらに「違和感」が出現しますから疲れるのです。

何これ????

人類はいったい何をやっているのでしょうか????自らが意識で全景色を作り上げておいて、、「私が固定されたこの外部環境を生き抜く」というプレイをしています。これほどの自虐プレイはあるのでしょうか???いつから我々はこんな勘違いをされられるようになったのか???とにかく謎です。

意識のグラデーション

全部が意識

この世界は全部が意識です、、、、全部です。その証拠を見せましょう。今目の前の視界を眺めてください、左端には「意識」が薄く向きます、右端も、上端も、下端も、、、意識は薄いです。中央は濃いでしょう。視界は中央がハッキリし、視界の端は薄ぼんやりしています。これはそのまま意識の濃淡です。その証拠を見せましょう、、右端に意識を向けてください、つまりそこを見るのです、、、はいうすぼんやりしていた「照明」がハッキリ現象化しました。次に左端の薄ぼんやりした「冷蔵庫」に意識をしっかりと向けてください。冷蔵庫がハッキリしました。

「自分」に意識が向くと

自我に意識が向くと自我がハッキリと顕在化し、、周囲が薄ぼんやりします。つまり視界が薄ぼんやりします。世界が薄ぼんやりするのです。意識のグラデーションが自分に集中し周囲が薄ぼんやりします。冴えない世界に濃密な自分が顕現するんです。これを苦しいと言います。我々の本質は意識で意識はこの世界に点在していることを自覚すると、、世界は輝きだすのです、、なぜならば意識が自我に集中しないからです。

自我とは

自我とはこの意識がこの体の中にしか存在しないという大きな勘違いのことです。つまり「意識」をこの体に閉じ込めたのです、、なんという愚かな、、世界は完全に薄ぼんやりします、世界は冴えない世界になります、世界は薄汚れ希薄化します、、世界は淀み光を失います。意識がこの体に集中するのですから当然です。そしてその当然を実感してください、今意識がこの体に集中し、、体以外に意識がないのを実感するのです。

脱催眠

意識の解放

我々はこの意識を体の中に閉じ込められるという催眠をかけられています。意識を利用してこの体の中に意識があるんだという催眠をかけられたのです。ですからこの意識を利用して脱催眠をします。ではいきましょう、、今視界にあらゆる物が映っているはずです。視界を眺めてみてください。左端に何が見えますか????薄ぼんやりした何かがあるでしょう、、、冷蔵庫????そこに意識を向けてください、、はい「冷蔵庫」が現象化しました。「うすぼんやり」はこの体の外にあります、、この「うすぼんやり」に意識を向けると、、「うすぼんやり」が「冷蔵庫」になるんです。

右端

視界の右端には何がうすぼんやりしていますか?????照明です、、、、照明が「うすぼんやり」しています。この「うすぼんやり」に意識を向けてみましょう、、、はい「照明」が現象化しました。この「うすぼんやり」は体の外にありますね。意識を体の外に向けた時、、「うすぼんやり」が現象化するのです。意識は体の中にだけあるんじゃなく「外」にもあるんです。意識が現象を作ります。

体の中

体の中に意識を向けます、、、はい「足」に意識を向けます、、フローリングを感じる「足」が現象化しました。鼻に意識を向けます、、はい空気を感じる「鼻」が現象化しました。耳に意識を向けます、、「耳」を感じます。意識を向けると現象化するんです。体の中も体の外も意識が現象化します。こんな簡単なことなのに、、我々はずっと騙されてきたんです。

意識は点在している

意識とはこの体の中にのみあるのではなく、、全部に点在します。そこに意識を向けると現象化します。この意識を「自分」と勘違いしたことから人は不幸になったのです。人類全員が今この瞬間も意識を使って現象化をしているんです。こんな簡単なこと?????そうです、、真実は簡単シンプルです。当たり前なんです。悟りを意識の解放と呼んだりしますが当たり前のことを勘違いさせるのが催眠だったのです。だから全人類がこの催眠にかかるのです。催眠が複雑ならば全人類が催眠にはかからないでしょう。

神を楽しむ

さあ我々は人間なんてものじゃなく神です、、、人間という環境に適応しなくてはならない存在ではなく、環境を作る神です。今それをやっているのです、今神をしています、今自身が神であることを思い出してください。そしてこれはトレーニングです、、神が神であることを思い出すトレーニングです、トレーニングですからこれには段階、階段があります。先ずはこの大前提を思い出すのです。するとドミノが倒れます。階段を登れます。

神がなぜ寂しいのか????

寂しい神って

神が寂しい?????聞いたことがありません、ならば今寂しいのはなぜか????なぜ今寂しいのか???私は神です、、この神がなぜ寂しいのか?????神が「私」を信じたからです。この体の中の意識を「私」と認識すると寂しいが湧きます。この体の中の意識は「私」ではなくそれは人間社会での方便です。これはこの体の中の意識につけられた名前です。

意識の拡大

意識を拡大させてみましょう。この体の中の意識をぐわっと全体に拡大します。今体の中に閉じ込められていた「意識」が全体に拡大されました。では確認しましょう。目の前の照明に「意識」を向けます、、はい照明が現象化しました。「意識」がその場所で現象化したんです。はい目の前のスリッパに意識を向けてください。スリッパが現れました。意識がスリッパに変異したんです。目の前の赤い椅子に意識を向けてみましょう、、はい椅子が現象化しました。

意識の現象化を楽しむ

友人との会話、、、意識が友人に向かなければ会話は成立しないんです。意識が外に向く時、、、友人の会話はただの音です、、、現象化しない。ところが友人に意識が向くと、、、はい会話が現象化しました。会話とはその登場人物への意識が可能にするのです。ビールを味わう時は、、ビールに意識がいきます、、意識がビールに行くことで味が現象化します。考え事をしている時、、いつの間にかビールがない、、が起こるんです。

スーパー

スーパーマケットに行こうという意識が全く浮かばない日は「スーパーマーケット」は現象化しないんです。スーパーに行こうという意識が生まれるとこの世界にスーパーが登場します。意識が現象を作り、、現象が意識を生みます。この真実に触れていきますと、、、寂しいが消えていきます。自分という存在が消えていきます。

至福という背景

動きだけがある

至福という背景に「悟りたい」という動きだけがあります。至福という背景に「いつか悟りたいんです」という動きが起こるんです。至福という背景に「どうやったら悟れますか」という動きが起こります。今もここは完全に至福です。そこにその動きだけが起こっています。「悟り方を教えてください」という動きが今目の前で起こりました。ですがその動きは完全完璧に至福から現れたんです。

俺はどうしたら

至福という背景から、、「俺はどうしたら悟れるのか」という動きが起きました。その動きを注意深く観察してください。至福という背景から明日悟れるだろうか???という動きが起こるんです。。。その時に背景から個人に移ってはいけない、、、背景です、、至福という背景なんです。今も既に。

自我という収縮したエネルギー

自我という収縮したエネルギーを感じてください、、感じるのは背景としてこれを感じるのです。自我を徹底的に感じてください、背景として。背景として思い切り自我を感じるんです。自我を感じる背景は至福です。背景が自我を感じる時一切の至福の崩れがありません。自我がガッツリと絞り込んできても背景の自覚を崩してはいけない。自我は常に背景から分離しようと企てましが、、自我がガッツリ捻れるからこそ背景を強く意識するのです。

もう負けない

自我の強力な捻れを背景として維持します。至福をここで崩しては行けない。背景の中の登場人物は、、背景から自我へのシフトを促すでしょう。ですがここで自我になってはいけない。。背景のままです。背景のまま自我を観察します。