セルフイメージ

自らのセルフイメージ、相手が作り上げるセルフイメージ

会話とは面白いものです、、こちらにはセルフイメージがあり、相手はこちらに対して独自のセルフイメージを持ちます。AさんはAさん独自のAさん像、、Bさんから見たAさん像、、、Aさんってこういう人だよね!!!とBさんから発言があり、、、これを聞いたAさんはいやいや、、、わたしってもっとこういう性格だから。とすれ違うのです。このすれ違いが多いと、、面倒、、、となります。なぜならば、、すれ違いコントが行われるからです。

では正解はあるのか?????

残念ながらここには正解がないんです、、なぜならばどちらもイメージだからです。イメージとは実態がなくその瞬間毎に変わるのです。ゆえに、、、イメージとイメージの会話には正解はありません。イメージを実態と勘違いするという現象が起こるだけです。つまり苦しくなるのです。会話の延長線上にあるのは何か???「苦しみ」です。

大いなる存在

大いなる存在であることを自覚して、、、そして相手も大いなる存在であることを自覚しての会話のみが、、疲れません。なぜか?????それが真実だからです。自身が大いなる存在である、そして相手も大いなる存在である、、、目に映るのはそこから現れた現象に過ぎない。この理解があれば、、相手も疲れない、こちらも疲れない、、となります。それだけが本当だからです。相手は勿論相手が作りあげたイメージに向かって話しかけてくるでしょう、、それを理解して会話します。

どのようなイメージであっても

相手がこちらに対して、、良いイメージを持っていようが悪いイメージを持っていようが、、全部間違っています。それだけは分かっているんです、、だから気にしない。本当は大いなる存在が大いなる存在と会話をしています、ただそれだけ。会話の内容がなんであれそれだけは変わらないのです。

反応しない

全現象に

人の行動は全て現象です、、、現象ですからそれは全部根元から起こります、、、全部そこから起こる以上これえをコントロールできる誰かは存在しないのです。にも関わらず人は目の前の人から起こる言動をその人が意図管理していると勘違いします、感違いするからそこに指摘批判判断が起こります。ですが実際にはそれはただ起こるんこです、根元から。そこを理解できないと、、現象に取り込まれ悟りから遠ざかるのです。

NO

だからといって、、全部を受け入れて被害者になれ、、、という意味でありません。目の前の犬に噛まれそうになっても噛まれろ、、、ではありません。噛まれないように逃げてください、、、しかしながらそこから、、批判批評判断に入らないのです。裏事情を詮索し判断を下す、、をしないでください。ただNOと突っぱねてください、、それだけです。

反応しない

反応しないというのは実は意識的であるということです。多くの場合無意識に反応します、、無意識ゆえにそれは自我の反応です。自我の反応に自我の反応で応えるのです。これでは「誰も」救われない。反応しないとは超意識的であるということです。自我を観察する意織であるということです。自我の反応に対し大いなる存在として対応するのです、そこから悟りに入るのです。

インナーボディー

体のエネルギーを感じる

体に目を向けてみてください、、体の中のかすかに揺れ動くエネルギーを感じれるようになります。騙されたと思って頻繁に体に意識を向けます。体の中に微かに動くエネルギーがあるのを探します。何度もこれを行います、時間が空いたら直ぐに感じるトレーニングをします。目を閉じて体の中で何かが動くことを気づきます。これがエックハルトが言うインナーボディーです。このインナーボディーは何か?????気です。空から発せられる気がインナーボディーとして充満しているのです。

インナーボディーを感じれると

インナーボディーを感じることができるようになりますと物質としての体に意識が行かなくなります。物質ではなく物質ではない気としての体を一日中感じることができるのです。するとこの体は幻想であったことを実感できます。そうですこの体は濃密な密度ある体ではなく、、幻想です。それを実感できるのです。物質として体と付き合うのではなく、、気、インナーボディーとしての体と付き合えるようになります。

空に気づく

インナーボディー、気は空から起こります、、気を感じることができるということは、、必然的に空に気づくことになります。気は空から生み出されるわけですから、、気の感知は、、空の感知です。言葉でこれをどのように説明しても意味はなく、、先ずは気を感じる、インナーボディーを感じます。気、インナーボディーが存在していると思ってこれを1日に何度も行います。

深刻な無意識状態

エックハルト

エックハルトは、、、自我の活動に意識的でない状態を無意識状態と表現します。特に予期せぬ事態が起こった時などは深刻な無意識状態になり無意識自我が活発になるのです。人に喧嘩を売り、暴言を吐き、トラブルを起こしまくる状態です。もしくは中に籠り、お酒、タバコ、過食に走るなどの自傷行為に入ります。自我はある種現実逃避をして自己を守っているのです。自暴自棄とは逃避型の自己防衛とも言えます。ですがその場合自我は確実に生存ししかも自我の活動には無自覚なままです。結果「苦しい」というこの構造的生産物からは絶対に逃れることはできません。

自我の観察に入る

自我を放置しておけば、、、あらゆる活動をしてこの体を守ってはくれますが「苦しい」からは絶対に逃れられません。「苦しい」という犠牲の上に成り立つのが自我システムですからどこかで自我を観察する、意識するステージに入りたいものです。この体の中のは自我というセルフイメージが存在し、、そのセルフイメージがさも実在するかのように生き延びている、、この事実に向き合うのです。そしてそれはイメージですから傷つくのは不可能であり、何かを得ることも不可能、幸福になるのも不可能です。

でも私は傷つくし、たまに幸せにもなれる

でも私は傷つきますよ、、友人から悪口を言われれば傷つきますよ!!!!自我って実在しているじゃないですか??????違うんです実在していると信じているから傷つくことができるんです、「私が馬鹿にされた」とありありとイメージすることで、、、体が真実と受け止め、、傷つくことができているのです。馬鹿にされた和私は本当は絶対にいない!!!こう確信した状態で傷つくことはできますか????できません。

取引を手放せない

自我

自我は取引です、、私がこれをあなたに与えるからあなたはこれを私にしてね、、、あなたにはこれだけのメリットを与えるから私にはこんなメリットを頂戴。。。。取引なんです、、、これだけ愛情を注いだのだから裏切ったら許さない、、世の中のトラブルはこの取引が成立しなかった時に起こります。自我は損得で生き延びるシステムですから全くそれが問題ではありません。ただし「苦しい」が常にあるために取引を手放すことができないのです。

これをあげる

これをあげるから私には優しくしてね、、これもやってあげる、、だからちゃんとあとは頼んだよ、、、エンドレスに自我は取引を繰り返します。これでいいのです、サバイバル戦略としては完成です。ですが大問題が一つある、、それは「苦しい」「孤独」から逃げ出せない、この戦略では。なぜか??????取引を行うのは誰ですか?????「私」です。。。。。「自分」です。この自我戦略はありありと「私」をイメージ化し、それが体に反映されて「苦しい」が起こる最大のデメリットを抱えています。

自己超越

覚者はゆえに取引ではなく、、、全人類平和、全人類貢献に意識を向けたらいいですよ!!と言います、、、恩恵、取引、メリットを享受するのは「私」ではなく全人類に変えるのです。するとそこには「私」「自分」「俺」が登場しないんです、、例の「苦しみ」製造プログラムが消えるのです。「居心地の悪さ」製造システムの崩壊です。

そんな

そんなやり方では「私」は生きていけませんよ!!!!どうやって食べていくんですか?????全人類を豊かにしようとする活動で、、、見返りがない方が難しい、、全人類に豊かさを提供した人間が見返りを獲れない方が不可能です。だから「自分」のことなど考えなくていいのです。そしてストレスフリーの状態で活動を活発にすればOKです。

テレビドラマ

観れない

この見かけ上の私はテレビドラマ、映画をもう観れません。なぜか?????主人公、登場人物の思考が煩すぎるんです。起こる現実に対しての思考が、、煩いんです、、、とにかく起こった出来事を私ごとに捉えて、、、ひたすらに解釈を繰り返すという行為が、、アホくさくて見れないんです。真剣な顔で出来事と向き合う様が耐えられません、こちらが感情移入できないから。感情移入できないドラマほど苦しいものはありません。

パートナーの闘病編

愛するパートナーが倒れた!!!!ドラマのクライマックスシーン、、、、主人公は慌てて病院にかけつけ、、、見れない、、、きつい、、、その必死さが見てられない、、、、起こる現象、出来事自体が私から浮かび上がっているという真実に目覚めると、、、出来事自体に入り込めないんです。その出来事は断じて私から生まれはするが「私」に起きていないから。全ては私が作り出したルールが反映された現象に過ぎないのです。

全事件

惑星が地球にぶつかるのをなんとか阻止したヒーローは、、一瞬の幸福に浸ります。映画は涙でエンディングを迎える、、、、残念!!!その幸福は、、、成し遂げた「自分」が一瞬消えたから起こったのです。成し遂げないといけない仕事が終わり、、義務を果たすべき「自分」が消えたから、、起こったんです。今日朝目が覚めれば「私」がまた現れ出て、、、成し遂げるべき「何か」を探すんです。だからもう見れない、、幸福が幸福じゃないことを知ってしまうと。

光は誰???

この宇宙に太陽は存在しているように見えますが、、それは100%幻想です。するとこの光はなんでしょうか????この光はいったいどこから出現しているのか????私です、、私から光は現れては消えていきます。今見える景色は光がベースにあり、、よってこの景色そのものは私です。光のタペストリーは私の現れそのものです。目を開いた瞬間に私が現れ彩っています。

音は誰???

音を鳴らすスピーカー、、これは100%幻想です。するとこの音楽はどこから現れてどこに消えていくのか????私です、、完全なる静寂の中から、、音が現れて消えていきます。全音色は私そのものです。静寂という私から音という私が現れては消えていきます。

全現象

全現象は現れては消えていきます、これを生み出せる現象は存在せず、、、よってこの全現象はこの次元からは起こらない、、全く見えないところ(空)から起こり空に消えていくのです。空は誰ですか????本当の私です、色は誰ですか、、その本当の私から現れてた子供です。だから私です。この思考も感情も、、全部本当の私(空)から現れでた子供、つまり私です。

恐怖心

ストーリー

この世界にたった一人で生きているという大前提のこのストーリーは、、たった一人がゆえに常に怖い怖い怖いが襲ってきます。怖いんです、、こんなに世界は広いのに、、、その中で独りっきりで生きるのですから。ですが真実は全く異なってこの世界こそが私です。この体が向かう場所、スペースこそが私なんです。とはいえこれを知識で把握したところで、、怖いが無くなるわけはなく、、これは実感する以外に方法はありません。

実感

子供の頃は分かっているんです、、大人が何を偉そうに語っても実感として、、、私とはこの体の中に閉じ込められた何かではないことを。そんな小さな小さな存在という実感がないのです。何かもっと偉大な存在であるような実感があるわけです。これが大人になるについて、、現実を視ろ!!と言われて渋々納得をさせられていきます。ですが子供の頃の実感自体は確かなものでありそれを本当の意味で忘れることは不可能です。

明晰な理解

知識でもって無理くり誤解を植え付けられてしまったのですから、、明晰な知識でもって誤解を解いていきます。思考はあらゆる方法でこれを阻止しようとしますが、、真実が何かは実は奥の奥の存在はハッキリと分かっています。分かってはいますが現実問題今は自我システムでもって機能していますから、、そこには齟齬が生まれます。このギャップ、齟齬を解消するのに人によって理解に誤差が生まれるのです。

鮮度

概念

本当は本当は今ここに現れる現象は鮮度100%、半端ない生です。その半端ない生こそが面白い、楽しい、最高なんです。にも関わらず人間はここに概念、観念、信念を付け加えて全く面白くない現象にしてしまいます。そして全然大したことない!!!と判断を下すのです。自身の観念、信念でありのままの現象を燻らせておきながら、、大したことないと判断を下すというギャグをやるのが私たちです。

既に

既にここに完全完璧な愛の形があるのです、、それに気づかずに、、、あれやこれやを繰り返し、、、、ああだこうだと判断を下すのです。この私というセルフイメージを実在と大勘違いを起こし、、、苦しい、孤独、寂しいを、、、起こし、、それを解消するために、、、右往左往しているのが我々です。自分を自我をセルフイメージに過ぎないと思い出せば、、、、ゴールです。

主語を変える

この体の中に自分が居るという大前提こそが苦しみを生み出す原因です。この体の中には自分など存在せず、、、あるがままの現象の全てを起こすスペースこそが私です。そこに気づきますと世界が変わります、ここが鮮度100パーセントの世界に大変身します。私というフィルターが落ち、、生が生のままに現れる世界が起こります。

本当の自由

嘘の自由

本当の自由とは、、、自由気ままに生きることではありません。自分勝手に生きる=自由ではないんです。自分勝手を自由と履き違えても構いません、、試しにやってみてください。直ぐに飽きます、、こんなもんか、、、何にも楽しくもない。大学時代って本当に時間がたくさんありますがその時間を有意義に過ごせる人ってほとんどいません。だいたいが家でゲームをやるかバイトに明け暮れて過ごすだけです。つまり自由とは大したことがないのです。

本当の自由とは

本当の自由とは、、あるがままを受け入れることです。外部環境で起こる全てを受け入れます。この体で起こることも受け入れていく、、全思考、全感情、全行動はただ起こっていると受け入れます。自由意志などなく全てがただ起こっていることに気づきます。この私などはただのイメージでしかなく、、そのイメージに派生した思考感情がただ起こっていることに気づくことです。

完全な自由の中で

我々は完全な自由の中で不自由な発想を生み出し、、その発想によって苦しんでいます。この体の中に自分が居るという制限という概念を起こし、、その概念によって「不自由」という感覚を起こすのです。本当は完璧な自由の中に今も過ごしてします。自由でなかった時だ今までないのです。不自由な存在という概念を起こし、体がしっかりとこれに反応して苦しみます。