どんなに滑稽な行動も

ベストな選択をさせられる

酔っ払って昨日本当に馬鹿な行動を取っちゃったなー、、、、残念!!!!間違いなくベストな選択をしています、過去のデータ上。あの時は本当不注意で大失敗したよ!!!、、、残念!!!!その時もデータ上最善の選択が自動的になされています。失敗して、、三日三晩考えすぎちゃった、、馬鹿だよね????違います、、考えすぎるという行動も完全完璧なベストな選択として起こっています。

あの歳は本当に不調で

20歳の時は本当は勘違いが酷くて、、失敗し続けたんだよね!!違います、、データ上完全完璧な選択しか取れないので、、たまたま周囲からはそう映っただけです。それを操れる人格は実は存在しません。自我が存続すると思ってもいいのですがその自我はデータ上最善最適な選択しか選択できないようになっています。つまり全員がそうなのですから、、自我は居ないと思っても全く関係なく人生は進みます。

ただ経験させられるだけの人生って本当は存在するんですか???

結局最善最適な選択をさせ続けられていく人生ならば、、それって人生と呼べるんですか?????間違いなく多くの人が思っている人生とは違いますね、、化学反応上の事実と多くの人が想像する人生とは異なるということです。勝手にそのような行動をさせられるならば、、そのゲームの行方を俯瞰しててもいいぐらいですよね???その通りです。どこで俯瞰するんですか????今ここです。もう俯瞰でいいや、、が起こった時に、、今ここという真の安らぎの場所にどんと座ってこの経験だけをさせられるというステージに入ります。

全員が最短最速で悟りに向かっている

犯罪者も成功者も

犯罪者も成功者も全く同じように最短最速で悟りに向かっています。最短最速以外の道が用意されていないのです。なぜならば人間はデータ上ベストな選択しか選択できないという自由意志に支配されて行動していますので毎日毎日それに則って経験をさせられているのです。つまりそこには実は主体性は一切なく完全な受け身です。犯罪者ですらもそのような法則に則って経験をさせられています。だから重要なこと、、人の行動を判断するのは無駄です、そして自分の行動を判断するのも実は無駄です。

経験の先にあるもの

この私、自分が居るという想定の動きの中にいる時、、、苦しみ、緊張、孤独が必ず伴います。ですからそこから逃げようとする動きが必ず起こります、、、それが私前提で動く場合、、実はこの苦しみがなくなることはありません。そのことに気づくまで最短最速であらゆる経験を積まされるのです。全観念(思い込み)が観念(お見込み)であることが分かるまでこれは続きます。そして最後にこの体の中に私が居るという観念(思い込み)が落ちるのです。そこが分かるまで最短最速で人は経験を積まされます。

初心者は9面には行けない

スーパーマリオは初心者がいきなり9ステージまで進むことはないです。必ずその人のスキルにおいてギリギリのところ、ステージで止まり、、そこでの右往左往が起こります。これは人間も同じ、、その人の気づきステージのレベルで右往左往が起こるのです。経験をがっつりさせられます、、ですから全くもって無駄はなく、、完璧な配分でこの経験は進むのです。ラスボス「私」が徐々に徐々に近づいていきます。

後悔する心配するも罠

自由意志ががっつりある、、、、こう信じるステージが着実にあります。このステージでは後悔、心配を繰り返しまくるのですが、、それこそが最短最速で起こるのです。全く無駄はありません、、マリオに熱中しマリオに成り切るのがベストな時期があるのです。その時は人一倍心配し、後悔するのがベストなのです。我々はデータ上ベストな選択しか起こせないように設定されていますから何も心配せずに、、心配後悔を繰り返せばいいのです。

コメンテーターの勘違い

松本人志問題

今ワイドショーでは松本人志の問題で賑わっています、、、、彼の行動に対するコメンテーターのコメントが、、、、この世界の「苦しみ」を証明するので解説します。多くのコメンテーターは彼の行動に対し、、、もっと慎重に考えるべきでしたね、、、あれだけ優秀な才能を持っていてなぜその衝動を抑えれなかったのか????後輩の今後の人生をもっと考える余裕があったんじゃないか????女性の気持ちを全く分かっていなかったようだ、、、と好き勝手なコメントを言います。

ですが

この真実を分かっていません、、、「松本人志は、、彼の歴史においてベストだと思う選択しか選べない」ということです。彼は常に過去のデータ上ベストだと思える選択しか選べないのです。そういう機械です。つまりベストな選択がそういうことになってしまった、、、という真実しかないのです。もっと違う選択肢があったんじゃないか????という思考前提の議論は完全に的を外しています。

被害者を守らなくていいというわけではない

かといって被害者を守らなくていい、、というわけではありません。松本人志という人間を通した行動が女性を痛めつけたならば彼は責任を取らなくてはならないのです。ですがその彼の行為のシステムが、、ベストしか選べない自我から起きているという新しい視点で観察できるか否かです。その時彼の人格を非難するという無駄な時間は省けます。

それは真実ではない

本当はあの時

本当はあの時こうしとけば良かった!!!!人間ならば何度もこういう後悔は起こるでしょう。。ですがこの後悔の仕方は真実ではありません。真実とは人間はベストしか選べない道具であるということです。その状況でベストと思えるアイデアが勝手に湧いてきてそれを選ぶ道具が人間です。ですからあの選択肢があったというのは、、その経験を積んだからこそでるアイデアであり後悔するというのはポイントがズレています。

ベストしか選べないのならば

ハッキリ言いましょう、、ベストしか選べないのならば、、、自分など存在しないも同じことです。選択肢の中から自由に選べる存在こそが自分であるとするならば、、、それは起き得ないので、、、つまり自分は居ないんです。ベストしか選べない道具=自我とすればそれは真実です。ですからこれからもこの自我はその環境においてベストしか選べないし選びません。

あー私はベストを選択され続けてこうなった

ベストを選択され続けた結果=自分です。そして今後もそれは微塵も変わることはありません。この認識が板につきますと、、人間関係が変わります、、、、その選択をしちゃった友人ではなく、、、その選択しかできえなかった友人になります。その選択を責めるこうとは構造上不可能ということです。降ってきた雨に責任を問うことが起きないように、、人間を判断することは今後できなくなります。

ベストを選択し続ける機械

我々の自我の特性

私はこの人生において一回たりとも失敗をしたことはありません、、、なぜならば私とは過去の経験からもっともベストだと思える選択をし続ける機械だからです。一回たりともベストではない選択をしたことがないのです。そういう意味では人は一回もミスをしていないし、、、そしてこれからもミスをすることはないのです。ただしその選択を後悔するという動きは今後も続きます、、、ですがどれほど後悔しようと、、ベストしか選べないという点で何もそこを動かすことはできないのです。

ところが

自我はベストしか選択することができない機械です。ですが、、、と同時に自我が存続し続ける限り我々から苦悩が消えることもできないのです。ベストを選択し続ける機械は「自分」という存在ありきでベストを選択し続けていきます。ですがどこかでその自分が居ないという気づきが起こる場合があります。自分がベストを選択し続けてきた結果この先には至福がないという気づきが起こるのです。

すると

する次は、、この自分という存在が嘘だということを見抜くことがベストだという気づきが起きます。そしてまたその上でのベストな選択が今後も続いていくのです。悟りが開くまで、、、我々はベストしか選べないこの機械『自我』と共にあります。ベストしか選べないのが自我であるという気づきは多くの癒しを起こすはずです。相手の行動はベストを選んだ結果である、そして「私」の行動もベストを選んだ結果であるという気づきです。

言葉にならない

この感覚は言葉を超えている

悟りって本当は言葉にならない世界です、、、なぜならば体験したことない感覚、、、感情ではないから、、こんな気持ちになるよ!!!じゃないんです。気持ちとは全然違う感覚がただ漂う感覚、、、これが悟りです。そしてそれを味わう自分が居ないんです、、、自分がこれを味わったから、、、誰かにも一緒の感じを味合わせたい、、、でもないんです。そういう衝動も消えてしまい、、最初から悟りしかなかったんだな、、、という拍子抜けでもあります。

戦いの余韻

さっきまでとんでもない殴り合いをしていたにも関わらずそれが急遽終わった感覚、、、シーンと静まりかえりながらも何か戦いの余韻が残る、、、でもこれって戦いがあったからこその余韻だよね。本当はシーンがいつもあってそのシーンの上でこの戦いはいつも繰り広げられていました。そして振り返ればその戦いも悪いもんでもなかったという感じです。だってその戦いがなかったら今ここには居ないから。

静寂が気持ちいい

一度でもこの静寂の気持ちよさを知ってしまったらもう執着には興味がなくなります。地位、名誉、お金、それらは便利で刺激はあるかもしれませんがこの静寂とは何も関係がありません。最高のパートナー、、それは自身を絶対的に安心させてくれるし刺激はありますが、、、それとこの静寂とは全く違うものです。だから早く味わってしまうが勝ちです。

湖の上での生活

悟りとは

悟りとは湖の上で生活しているような感覚です、、何をしていても静かなんです、、、シーンと静まりかえった感覚がいつもある状態、、、この状態は感情ではないです。感情は湧いては消えていきますが湖の上のような感覚は、シーンとした感覚は感情がない状態です。一度この状態を覚えますと、、嬉しい、幸せ、ハッピーみたいな刺激はどうでもよくなります。そんなことよりもシーンとした静寂にいつも包まれていたい、、そのような衝動に駆られます。包まれていたいという表現は間違い、、、包まれるというよりもシーンが広がっていく感覚です。

シーンを意識的に作る

シーンって意識的に作れます、、信じられないかもしれませんが出来ます。頭に意識が意織している時、、シーンは起きません、、、、思考グルグルが起き続けます。雑念ガンガン、雑音ガンガン状態です。この状態が苦しいのです。一方意識が頭にない時、、、シーンが起きます、、、体験したことないだろうシーンが起きるんです。つまり意識を思考、頭に意識させないようにすればOKです。

呼吸法

呼吸法は誰でも簡単にできる意織シフトツールです。呼吸に意識を向けますとそれは完全に頭ではない、思考でもないところに意識が意識できます。呼吸を深く行い、その呼吸に意識をしっかりと向けることで意図的に頭から体、下腹部に意識をシフトできます。思考が湧いたら呼吸法、思考が湧いたら呼吸法です。シーンがデフォルトになるまでこれを行います。

失う

得れば分かる

多くのことを獲得した時、、何か大きな成功を成し遂げた時、、、多くの人は至福に至ります、最高、もう何も要らない、、、です。ですが数週間もすればそれが当たり前になり、、、至福感は消えていきます。こういった成功体験を何度も繰り返していきますと次の何かを達成しても全くもってそれは私を救ってくれないことが分かるのです。次の何かは私を絶対に救わないと、、この苦しみから私を救い出してはくれないのです。

失うことへの安堵

これだけ多くのことを成し遂げ得てきたにも関わらず「私」を苦しみから脱してくれはしないのだから逆に言えば何かを失ったところで、、苦しみもまた変わらないのです。得ることで何にも変わらないのならば失うことでも何も変わらないということです。この「私」という存在がいる限りこの苦しみを解放することは不可能なのです。

「私」を失う

実は実は至福に至る最重要課題とはこの「私」を失うことなのです。「私」を失う????意味不明、何を言っているのか???ですね。ですがまさにこの私を失うことが至福へと至る唯一の方法なのです。だから全員が今苦しんでいるんです、なぜ有名人、成功者がそれでも犯罪を犯すのか???不祥事を起こすのか?????私を失う以外に至福に至る道はないからです。

脱雑念

全員が知っている

何かあって苦しくなるのって結局は雑念が湧くか湧かないかなんです。。。。全現象は個人によって全く意味が異なります。例えば今回の松本人志さんの事件、、、この事件で雑念が湧く人は過去に浮気をしていたり、同じような行為をしていた人、さらに同じような被害にあった人々でしょう。この場合このニュースを見て雑念が湧くはずです。逆に言えば雑念が湧かないのならば全く苦しくはありません。

脱雑念プログラム

雑念を抜くには、、、雑念が起こるメカニズムを知らなくてはなりません。雑念が生み出されるメカニズムとは、、、思考に意識がフォーカスされているということです。体で言えば頭部に意識がフォーカスされている場合ひたらすらに思考が湧きます、雑念が湧きます。意識的に湧く思考は雑念とは言いません、、、勝手にひたすらに湧く思考を我々は雑念と呼びこれが苦しみのメカニズムを作るのです。

意識を頭部ではなく腹に移す

意識を頭部ではなく腹に移します、、多くの人は勝手に頭部に意識がフォーカスされているはずです。これを腹に落とすのです、どうやって?????呼吸法でお腹に意識を集中させ何度も意識を腹に集中させるのです。これによって勝手に頭部に意識が行くのを防ぎ、、自然と腹に意識が収まるように導くのです。これを何度も繰り返していますと湖のように思考が静かになります。

悟りの勝利

全人類が敵???

悟りに関して言えば、、完全なる孤立無縁状態、、、この状態で戦うことを楽しめないと難しいでしょう。なぜならばマトリックスの世界で苦しむ人々は、、、、ここから出られることを嫌います。一人だけ何楽な世界に行こうとしてるんだ!!!です。そして悟りを開いた?????嘘に決まっている、気持ち悪い、、、という反応を示すでしょう。スクリーンの中に閉じ込められた人々にとってここから出るというアイデアはパニック以外にないのです。

静かに静かに

だから悟りは声だかに宣言しては駄目です。。。静かに静かに水面下で開きます。エージェントスミスの手口を完全マスターし、、、今どのような手口を戦っているかを理解していきます。スーパーマリオの100倍面白い戦いが始まります。だって周囲は完全に盲目、無知、勘違いですから、、、その中で悟りを開くって最高に面白いのです。

手当たり次第に

煩悩がまだ残っていればその煩悩は全部現象化して「私」の前に現れるでしょう、、、それらから逃げるのでなく体験していきます。。。なるほどこんな感じね!!!です。つまりこのゲーム、幻想は悟りがゲームクリアですがだからといってワープが素晴らしいのではないのです。何も体験しないではい悟り!!、じゃないんです。経験したいことは根こそぎ経験でいいんです、、、ですが重要なこと、、その経験が苦しみから救ってくれることはないということです。苦しみの解放は悟り以外にありません。