幻想を利用して悟る

大乗仏教

大乗仏教とはこの世界は幻想だが、、、でもこの幻想の中で生きていくのは間違いのだから、、この幻想をどやって自分好みの幻想にしていくかを説く教えです。いきなり悟るの無理ゲーだし、、だったら居心地の良い幻想の中で、、悟りを目指しましょう!!!という教えです。ところがところが、、、この最初の本当は幻想だが、、、、の前置きが崩れ、、、いつの間にか超現実の中でこの超現実と折り合いをつけるかの教えに成り下がってしまいました。

本当は幻想という真実

私たちはどうしても感じることを信じる傾向があるので、、、ハッキリと「物」と感じるこの世界を幻想とは思えません。ボタンのかけ違いから人生がスタートするので、、、宗教もそっちに引っ張られるのです。解釈が歪められてしまいます。釈迦、イエスの気づきが、、、、、凡人の解釈によって歪められていきます。これは本当はこういう意味なんでは???と人間の五感の方に引っ張られていくのです。

それでも

幻想を幻想と見抜きますと、、、もうこの幻想の有無には関心がなくなっていきます。これって半端なく価値がある椅子なんだよね!!に対しても「私も欲しい」が起きえないのです。だって幻想ですから。すると夢が変わっていきます、、物欲精神欲が薄れていきます。勿論それでもこの幻想の中で囲まれていきますが、、そこに関心が無くなっていくのです。そして生きる目標が「悟り」に絞られていきます。

幻想の中でこれから何を目標に生きればいいのか???

幻想の中で夢って必要か????

究極的なことを言えば、、ここに夢は全く必要ありません。いまここに完全に「在る」時、、夢が必要無くなるのです。ですが今ここに完全に「在る」という状態に至るのは決して簡単ではありません、複雑ではないのですがそうなれるか否かに自分は全くもって無力なのです。だからその期間は夢があったほうが生きやすいしあっても良いのです。

自分がこうなる、、は苦しい

夢を持つというと、、有名な役者になる、有名な会社に入る、、、とかを始めますがこれでは至福には至れません。なぜならばそこにはしっかりと自分が居るからです。自分をより強く意識しますから、、それは苦しみの道、茨の道なのです。自分がこうなる、ああなるという夢からいかに離れるか、、、世界をああしたい、こうしたい、、という夢に切り替えれるかが重要になるのです。

夢の達成と真実の理解は矛盾を生む

これが完全な幻想である!!!!これが悟りです、これを見抜くのが悟りですから、、そういう意味ではこの幻想をこうしなくては!!は悟りではないんです、騙されです。方便として暇つぶしとして、、、この幻想の世界で遊ぶ動機としての夢ならば全く矛盾がありません。世界には困った人々がたくさん居てそれを救わなくては!!!!これは騙されです。悟りではありません。

自己の不在

ゴール

世界平和、世界幸福、戦争のない世界、、、こういった大きな大きな目標は自己の不在を作ります。この目標を達成する際に、、自分がこうなる、ああなるという、、文法が消えます。つまり「自我」が消え失せるのです。環境保全、、この夢には自分が存在しないのです。この世界を幻想と見破った状態でこうやって夢を持つのは健全なことです。この私がこうなる、、これは自己実現です。世界平和、、これは自己不在、自己超越です。

幻想なのに?????

この世界が幻想であるにも関わらず世界平和って価値があるんでしょうか??????この辺りからかなり高度になります。価値はないです、、価値とは何者にもないです。ですがこの自我不在の活動、自己不在の活動は、、至福に入ります。その活動にはなりたい自分が存在しないのですから、、自我は放置です、ほったらかしです。この感覚が至福なのです、無我です。

無我になって無我実現

自己超越、、世界平和のために活動が始まりますと、、、そこにはこうなりたい自分という存在が居ないのですから、、、それだけで至福に入れます、真の安らぎに入れます。しかも無我夢中になって取り組めば、、その状態も無我です、、至福に至りながら至福を目指すという状態に入れます。無我になって自我が介在しない夢を叶えるという状態に入れます。

一般通念

俯瞰

一般通念に善悪は100%ありません、アラブに行けばアラブ、アフリカにはアフリカ、、日本には日本、、それぞれの一般通念があり、、、そこに善悪、良否、優劣は存在しません。だから日本に生まれたならば早くこの一般通念を学習してしまうのは重要です。ただしここで多くの人間は過ちを犯します。一般通念が正しい、これを知らない人間は未熟でこれを熟知した人間は優れている、、このように一般通念の理解度で人を判断するようになるのです。一般通念は利用するものであって人を判断する物差しでは断じてありません。

ルールにする

大人になるとはこの一般通念に熟知することだ、、、これは利用するだけのものであって、、それ以上の価値はない。ですがこれを熟知した人間が講釈を垂れて、、、、人間はこうすべし!!!が始まるとどうなるか????この人間はこのルールによって必ず苦しむことになります。子供がグレる、子供が不登校になる、妻が不倫に走る、、、一般通念を破る身近が現れるのです。

俯瞰すると

一般通念の完全な理解とは完全な俯瞰です。俯瞰とは上から一般通念を眺めている状態です。ではどこから眺めるのでしょうか????根源、大いなる存在、、そこから一般通念を俯瞰するのです。一般通念の完全の理解とは細かくこれを覚えることではなく、、それがどういう機能をもって機能を果たしているかに気づくことです。一般通念が正しい、、、これは完全に間違った理解ですからこれに苦しみます。

親子の取引

私がこれだけやったんだから

私がこれだけ頑張って働いてこれだけ家事もやって、、、、だからお願いだから、、私の望みを叶えてちょうだい。。。。これが親が子供に行う取引です。これだけ私が犠牲になったんだからだから、、私の願いを叶えてもらってもいいでしょ。。。。です。子供はこの取引にまんまと乗せられます、、優しい子供ほどに、、、親のこの絶対の要望に応えようとするのです。

そして負の連鎖が続く

親の要望をこうやって叶えてきた子供はどこかで親のことを恨んでいます。子供は親の所有物ではなく、、一人の人間です。ですからこの恨みは奥深くにしっかりと根付き、、この恨みが肥大化していくのです。あなたは絶対にこうしたほうが幸福になるという価値観はあくまで個人の趣味でありその趣味を強要された子供は恨みを持ちます。そしてその子供が子供を産んだならば、、、今回のパターンをまたその子供に引き継がせるのです。

取引の先には絶望しかない

親がなぜ子供を自分の思い通りに進ませたいのか????それは子供を自分の所有物だと思っているからです。所有物は自分仕立ての自分の趣味に染めたいわけです。私の車は私らしい車を選びたいのです。私の子供は私らしい子供にしたいわけです。自分の子供を自分仕立てにしたいのはなぜか????それは自分という存在はこの世界でたった一つでしかなくとてつもない小さい存在だと勘違いしているのです。この自我だけを私と捉えているのです。だから寂しくて寂しくて仕方がないとなります。

違う

本当の私はこの私ではなく、、この私を生み出す根源です。この体もこの気づきも全部が全部根源から湧いています。そのことに気づけるようになりますと自分を過小評価しなくなり、、だからこそ所有物を増やしたいという欲求が減るのです。外部環境を求めて小さな小さな自分を使って所有物を増やしていこうという動きが減ります。本当の本当の私とはこの全部です、、小さな小さな私の欲求も子供の存在すらも私です。私の現れです。

怖いからの達成

達成からの悟り

多くの方は怖くて怖くて何も冒険をしないで人生が終わります。一部の勇者は冒険を冒しあらゆるタイトルを奪って人生が終わります。その中でも一部の勇者は、、全タイトルを制覇しても所詮人生は不満で終わることを悟り、、悟りに関心を向けていくのです。恐怖から達成に移行し達成から悟りに入るのです。

自己実現からの自己超越

多くの方にとっては自己実現こそが最終目標でしょう、、、好きなことで周囲から感謝されて生きる、、それって絶対最高だよね!!!!!でしょう。ですが残念、、、、自己実現するのは「自我」です、、自我とは不快感製造機です。この不快感製造機を残しておいて人生最高って起きえないのです。達成した自我は得意げに周囲に宣うでしょう、、俺って凄いっしょ!!!!と。ですが腹の中では苦しくて苦しくて仕方がないわけです。

悟っちゃっていいんですか?????

自我は悟りを何か遠い遠い仙人が成し遂げるもの、、という幻想を抱かせ、、そんなものには全くもってリアリティがないと思わせます。悟りなんぞ、、何か偉業を成し遂げた賢者が目指すもの、、、みたいな感じに。ですが残念!!!!それこそが自我の策略なんです。悟りとはこの当事者である自我が実は幻想であることを目指すのですからそりゃ自我は黙ってそうはさせないわけです。

ドロップアウト

多くの人々

多くの人々は実はドロップアウトしたことがありません。不登校になる、浪人する、大学中退、会社を首になる、アルバイトを首になる、、、大借金して破産、、、結婚詐欺に逢う、、、とにかく世の中の大悲惨と呼ばれるような事態に遭遇したことがないんです。だからいつかそうなるんじゃないかとビクビクしているのです。つまり人生のバンジージャンプを飛んだことがないわけです。だから怖いというジレンマに入ります。

飛んだことがないから怖い

面白いことに大惨事と呼ばれる出来事は人を救います、、大惨事が起こった翌日も、、、、何も変わらないように朝が来るのです。周囲が騒ぎ立てるほどに、、全くもって日常が変わらないのです。あれ???別に全然大したことないじゃん。。。が起こります。ということはこのバンジージャンプもいけんじゃね????が起こるんです、人生に。

それでも

それでも周囲の幻想は騒ぐでしょう、、本人がバンジージャンプをバンバン飛べば。ただそれでも何も問題が起きないのです、だってバンジージャンプを飛んでいる本人が全く怖くないのですから。そして周囲が怖がる理由が汲めるので、、、そこで揉めることもない。

恐れとはなんだ???

大惨事を恐れるこの感情とはいったい何なんでしょうか??????この体は現状を維持できていればそれでよく、、今が不幸だろうと実はどうでもいいのです。だから、、、楽しいと嬉しいとか、、ドキドキとか、、、そんな事件よりも何も変わらないを求めるのです。自我の現状維持システムです。ここを俯瞰できますと、、もう現状に留まろうという気持ちが馬鹿らしくなります。さっさと色々経験して、、、究極の俯瞰に辿り着きたくなるんです。

本当の問題

全然違う

もしももしも、、アイスコーヒーを飲んでいたら途中でそれが熱湯に変わった、、、蛇口を捻って水を飲んでいたらそれが石油だった、、、友人Aと遊んでいたら途中で友人Bに変わっていた、、、会社に行って帰ろうとしたら会社が別の会社になっていた、、、、、というよなとんでも現象が毎日毎日続いたらこれは問題です。パニックです。

それは起きない

問題というのは理解不能なパニック現象が連発する時、、これは困った!!!でいいと思います。ですが残念ながらそのようなことは起きないんです。今まで起きていないのですからこれからも起きないでしょう。我々の目の前に起こるのはこういうことではなく普通のことが起こるんです、、それを問題と捉える現象だけが起こります。

みんな

多くの方は、、普通の現象を問題と捉える遊びを一生しているのです。Yahooニュースの数々、会社の業績、会社の人間関係、旦那との関係、子供の成績、、、親の介護、、こういった普通の現象を問題と捉える遊びをして苦しみます。本当は全て現象です、今現れでた現象に過ぎません、今現れでた花の香りが素晴らしいように全現象は素晴らしいのです。今目の前の人の笑顔が素晴らしいのは今たった今それが現れでたからです。

問題

この世界で

この世界では実は問題は全く起きていません、、問題と呼ばれる現象は起きますがが、、、、それは全部個人にとって国民にとって、国家にとって、、、という主体客体の世界でのことです。ですがこれは全部後付け、、現象に後付けの意味を追いつけて、、「問題」と呼ぶのんです。実際には何も起きておらず、、ただ現象、生の現象のみが起こるのです。

生老病死

生老病死を問題と捉える考え方があるのであってこれは問題ではないんです、、、この世界で起こることを問題と捉える習慣が起こっただけです。野生動物は一度も問題を抱えずに死に絶えるのに、、人間だけが問題を引きずって生きるのです。問題と言うのはあくまでその人の解釈が起こす趣味です。現象は全て中立中庸であって、、そこには意味など最初からあるわけがないのです。

無知な人間が起こすこと

でも無知な人間が起こすことは問題って発生しますよね????違うんです。無知な人間だけが目の前に問題が起こるんです、、無知ではなく知の人間の前には現象は起こっても問題は起きません。え?????じゃあウクライナ紛争も問題ではないんですか??????ウクライナ紛争は今目の前で起こったならばそれは非常事態です、問題ではなく非常事態が起こったのだから逃げるだけです。

帝王学

由緒秘伝

超富豪の家には帝王学がありそこで生まれた子孫はその帝王学を学ばされます。そして多くの場合それに準じて富豪を継承できます。平民がこれに気づき、、これを採用し、、少数ですがそこから富豪に上り詰める人も居ます。ユダヤ人、架橋、、、あらゆる民族はこれらを共有して富を守っていたりします。これは本当の話です、実際に日本でも財閥系家系の出身者はそうやって自身の人生を選択したりします。

ですが

豊かになるのに本当はルールはありません、、ですがこうやったら豊かになるというルールを採用し、、それを実感できるレベルにまで落とし込めば、、確かにそれえによって豊かになれるでしょう、だって実感レベルにまで落とし込んだんですから。ですがここには大きな大きな大きな落とし穴があります。それは宇宙は本来ルールがないということです、、宇宙にはルールがないにも関わらずルールを作ったのです。するとこの不自然なルールは必ずこのルールを採用した人間を苦しめるのです。

見抜く

私は不思議で不思議で仕方がなかったんです、、なぜこの手の成功者が、、それほど幸福そうに見えないかが。。私がもしもその手の法則で億万長者になったならば喜びを抑えきれずにそこら中で叫んでいるような気がします。飲み屋で毎晩若者に講釈を垂れているでしょう。ところがそうでもない、、、つまりやっぱりルールはルールなんです。ルールはどこまでも人を苦しませるのです。