体の中に意識???

意識の中に体

我々は体の中に意識が存在すると信じています。そう教わったから。ですが実はこの意識の中に体が存在するのです。だから体が死んでも意識は消えません。体が死んだにも関わらず意識が存在することに気づくのは体が死んだ時です。その時体は朽ち果て意識のみが残ります。火葬場で体が燃えても意識が残ります。そんなはずはない、体が死んだのだから全てが終わるのだ、そう信じていた意識は、、びっくりします。そのびっくりした意識は浮遊霊となって彷徨うのです。

意識がある時

体が朽ち果てても意識は残りますから、、意識が全てを生み出し続けます。これまであった部屋、親族、兄弟、子供、友人、何もかもを作ります。それが意識です。意識が地球に取り残されたのではありません。意識が体が朽ち果てた後の世界を作ります。そのことを知らない固定観念が意識に残っている時、、、パニックが起こり、、浮遊霊として残るのです。浮遊霊とは「死んだら全て消えるはずだからまだ生きているのだ」という固定観念のことです。それがアバターとして残ります。

魂とは意識のこと

つまり魂とは肉体がなくなった意識活動のことです。意識は肉体に何も関係なく残り、この世界を作り出します。肉体なき世界を意識が生み出します。その状態が魂と呼ばれる状態です。アバターが肉体から魂に変化したのです。世界があるのだから俺はまだ生きているという固定観念が残っている状態が魂の状態です。ですが真実では意識しか存在せず意識が肉体死の後も世界を生み出すのです。その世界の原材料は意識です。

私が死んだら??

この体の中に意識があると信じてきた人は体が死んでも意識が残っていること、世界が残っていることにパニックを起こします。意識が存在する限り世界が存在し続けますから、、固定観念がパニックを生み出すのです。そして死後の肉体の周囲で家族が泣いているのを見て驚きます。肉体の外に飛び出た「私」はここに居るのに、、周囲は肉体を囲っていると。そして「魂」が世界に取り残されたと思うのです。ですが違います。実際は意識が肉体死の後も世界を生み出しているに過ぎません。なぜならば「意識=世界」だからです。

道でブッダに会ったら殺せ

禅の教え

道でブッダに会ったら殺せという過激な言葉が禅にはあるようです。これ簡単なことです。そのブッダも意識の表れに過ぎません。全ては意識ですからブッダも老子も何もかもが意識が生み出したのです。ここは意識の遊び場です。意識が生み出せないものは何もありません。ですから何が現れようとも突き詰めれば全て意識です。そして我々はそれに気づく気づきです。

会話

では友人との会話はどうなっているのですか??意識が友人になって友人という知覚を生み出し私という知覚を生み出し会話という行為が起こるのです。この全てを意識が行います。意識という原材料がこの全てを担うのです。今あなたは意識を持ってこのブログを読んでいます。その全てをその「意識」がやっているのです。そしてそのことに気づく気づきが真我と呼ばれるものです。

これは学問ではない

そのことに気づいたら今この見える視界を見ている際にも「意識」が完全に存在していることに気づきますか??意識なしに何も起こり得ないという事実に気づきますか???意識のない場所で何も起こることができないことにあなたは気づきますか??そうです。あなたこそが意識が生み出したのです。私こそを意識が生み出したのです。意識なしに私は現れることが不可能です。意識なしに彼は現れることは不可能です。意識なしに彼女は現れることは不可能です。実験してみてください。本当に意識が全てを作り出していることにあなたは気づくはずです。

超能力

世の中にはお金を稼ぐ才能、異性にモテる才能、営業する才能、、、あらゆる才能と呼ばれるものがあります。ですがあなたの意識がこの経験の全てを生み出していると分かってしまった時、、、あなたの才能はとんでもないことに気づくでしょう。孫正義もあなたの意識なしにはあなたの前に現れることができないのです、イーロンマスクもあなたの意識のないところでは現れることが不可能です。TV画面では観れる???いやいやそのTVこそがあなたの意識なしには絶対にここに現れることができません。画面を見ているその瞬間「意識」が不在であることはないのです。

意識は何でそんなことをやっているの??

ではなぜ今この意識はこんな映画を我々に見せるのですか???この映画の目的は何でしょうか???気になりますよね。では教えましょう。この映画は我々が無限の存在であることを気づかせるためにあるのです。意識がこの無限の経験を生み出し続けています。そして登場人物全てにはそれぞれの映画があります。この無限の動き、動きの創造主は意識であり、、我々こそがその意識です。つまり我々は実はこの無限に存在する映画の創造主であることを気づくためにこの映画はあるのです。なぜならばその自覚もこの無限の経験には含まれていなくてはならないからです。

意識

最重要ポイント

意識というのはヨガの中では最重要とされるものです。意識は常にここにあります。このことを疑う人は絶対に存在しません。例外がないのです。意識は100%いまここにあります。イマココとは意識のことです。意識はあっても体が視界にない時はあります。意識はあっても体を忘れることはあります。意識はあっても思考を知覚していない時、意識はあっても感情は知覚できない時もあります。そうです。意識が様変わり、変容、移り変わるのです。ですが意識が消えることは絶対にありません。

東京ーニューヨーク

どこにいても意識はあります。違います、意識が東京になったりニューヨークになっているのです。寒いという感覚も意識が生み出します。全てです、全て意識の変容でありそれ以外を探してもどこにも見つかりません。時間の感覚も意識の動きに過ぎません。空間の感覚も意識の動きに過ぎません。全ては意識の動きです。

我々

真の我々はこの意識が表層で起こす様々な動きに「気づく」気づきです。意識が表層で動くこの経験、知覚に気づき続ける「気づき」です。その証拠に経験の気づきには「努力」が全く必要ありません。「最大に疲れた」という経験に気づくのに「努力」が必要ないのです。「もう死にそうなぐらいに疲れている」という経験に気づくために何も努力が必要ないのです。

つまり

意識が繰り広げるこの映画を「気づき」というスクリーンで「気づいて」いるのが我々の本性です。意識はあらゆる展開をこのスクリーンで繰り広げますがそこに気づくのが我々スクリーンです。そして意識がここで何を展開しても何も損傷を受けないのがスクリーンです。そしてスクリーンもまた意識が生み出す映画に何も影響を与えることができません。我々は最初から完全無傷であり最後まで無傷です。

純度100%の意識

何も変わっていない

もしもこのキャンパスが純度100%の意識でありそれがただ変容しているのだとしたら、、何も変わっていないことは分かりますか??何も出来事が起こらないことが分かるでしょうか?なぜならば何が起こっているように見え、感じ、聞こえてもこの純度100%の意識には何も変わらないのですから。つまり何も起こることが不可能なのです。純度100%の意識が純度100%の意識以外になり得ないからです。

動くキャンパス

この動くキャンパスはキャンパス上で「オギャー」とあなたが生まれた瞬間から動き続け、死をこのキャンパスで迎えるその日まで動き続けます。ただそれだけです。このことに気づいた瞬間「何もない」「何も起こっていない」「時間も空間もなかった」という気づきに至るのです。そして常にあるのは純度100%の意識のみです。それだけです。それしかありません。

それに気づくと

本当に何も起こっていなかったことに気づきます。意識が私として動き、意識が「あれ??私っているの?」という動きになり、いやこれは完全にいないや、という気づきとして起こります。全ては意識100%の中で起こるのです。そのことが分かっていなかったからあらゆる苦しみが意識の動きとして起こっていました。ただそれだけです。

還元不可能

何か

発見されたしまった存在は何かに発見されている時点でその次元を超えることができません。発見された存在はその事実こそが発見者にはなれないのです。自分という存在を誰も疑っていません。つまり自分という存在は何者かによって発見されてしまった存在なのです。つまり自分はこの全てに気づく気づきの主体ではあり得ないということです。自分こそも発見されてしまっているのですから。

では

発見されてきた自分は気づきの主体ではないとしてでは誰が発見者なのですか???もしもその発見者が存在してしまったらその発見者に気づく発見者が必要になります。ですからここでは「発見者」が存在しないことが分かるのです。つまりこの全ての経験に気づく発見者は存在しないのです。あえていえば「経験」自体が経験に気づく以外に道はありません。そうです。この経験は経験自体によって気づかれているのです。

気づきの動きがなぜ気づきを発見できるのか?

私とは気づきが動きその動きの「様」です。つまり動きなのです、私とは。その気づきの動きである私は気づきではありますが全ての気づきではありません。その気づきの動きである「私」は他人(気づきの動き)を発見した時、私とあなたは別な存在だという新しい動き(思考)を生み出します。俯瞰してみれば気づきという海の中にただそのような思考(動き)が起こっているのが分かります。というよりも気づきの分離など不可能なことが分かるのです。

世界は最悪

私は孤独で無力にさせた世界は最悪だという気づきの動きが「思考」です。ですからどこを探してもその「私」を見つけることができません。見つかったのは全て気づきの動きなのですから。気づきの動きが気づきの全動きに気づくことは不可能です。なぜならば「私」とは気づきの動きに過ぎないのですから動きが全体に気づくのはあり得ないのです。

私は絶対に悟れない

なぜならば

私は絶対に悟れません。あなたも絶対に悟れません。自分は100%悟れません。我は1000パーセント絶対に悟れません。なぜならば「私」「あなた」「自分」は思考であって思考は気づきの「対象」に過ぎないからです。ですから気づかれる「対象」は100000%悟れないのです。

だから

みんなが話しかけてくる「アイデンティ」としての私は一生涯悟れないと諦めてください。悟れるのはそのアイデンティティとしての「自分」に気づく「気づき」です。その気づきが気づきの正体を思い出した時「悟り」です。その時「アイデンティティかつ気づき」だった自分が解体され、、、嘘の自分(アイデンティティかつ気づき)が存在しなくなり「アイデンティティ」のみが残るのです。残ったアイデンティティは「気づき」が抜け落ち、、ただの気づきの対象に戻るのです。

太郎ちゃん

大昔はそれが分かっていてだから自らを「太郎ちゃん」と三人称で呼んでいたのです。大人はそれを面白がっていたのですが事実は180度大人の敗北、大人の大敗退、三人称こそが正しかったのです。気づきが「アイデンティティ」を太郎ちゃんと呼んでいたのです。いつしか「気づき」と太郎ちゃんがガッツリ合体し「自分」が生まれたのです。太郎ちゃんが「自分」に生まれ変わったのです。

自らが「気づき」であることの自覚

普段

普段我々は自らが「気づき」であるということを完全に忘れています。完全にです。この世界でのこの夢でのアイデンティティを「自分」と信じて生きています。ですがカルマの浄化が起こっていきますと「その信念」こそが嘘であるので、、その嘘の感覚が薄まっていくのです。自我が薄まっていきます。その時何かに食らいつく執念のようなものが消えていくのです。

「気づき」がカルマを燃やしていく

真実のメッセージに触れていきますとカルマが燃えていきます。勘違いの信念が燃えていきます。全ての観念が消え去った時、燃え尽きた時、、そこに残るのは「気づき」だけです。この夢にはあらゆる展開が勿論これからも起こりますがそれがただの映像として流れるのです。時間があるのだ、空間があるのだ、という妄想も燃え落ちた時、、それが真の静寂です。

そういえば最近

発想すらない

思考から体からカルマを燃やしていきますと「そういえば最近あれやってないわ」が起こります。気づいてもいなかったのです。そういえば最近スナック菓子食べてないや、そういえば最近ファーストフード食べてないわ、そういえば最近SNS 見てないわ、そういえば最近TV観てないわ、そういえば最近、、が起こります。これ依存傾向の習慣が燃えたのです。朝起きたらその行動のカルマが消えていて、、、そのことにも気づいていなかったのです。

電話

ついつい友達と長電話してしまう、、、気づいたら2時間???そうです。今が苦しいからついついやってまう、、、これが行動のカルマです。思考から体からカルマを燃やしていきますと、、いつの間にか消えています。あれ????何で俺最近タバコ吸ってないんだろう、何で最近マック行ってないんだろう、、、が起こります。そしていつしか関心が内側の内側、内側を超えた内側に向かっていくのです。

今の悩み

全て

今の悩みの全ては「カルマ」が生み出しています。そのことが既に分かっています。真犯人はもう逃げれません。なぜ???真犯人は「今ここ」から逃げ出すことができず今ここに確実に100%存在するからです。刑事からすれば犯人は完全完璧にこの部屋に存在します。面白くないですか???笑っちゃいますよね。犯人は絶対に逃げれないこの場所に今も怯えて発見されることを恐れているのです。

だから

だから我々は何が勘違いかに気づくだけでいいのです。どんな勘違いをさせられているかに気づくのです。それで全てです。体から思考からこの勘違いのエネルギーを削除していきます。全ては後転的に生み出された勘違いですからそれが消えれば終わりです。後転的に生み出された勘違いの全てが今ここにあるのです。それを意図して削除するのです。