手放せない安定

恐怖心

一度手にした安定をなぜ手放せないのか???なぜでしょうか???それは恐怖心です。この壮大な世界でたった一人生き抜かなくてはならない「自分」が想像された時、恐怖心が溢れてきます。こんな大きな世界で俺はどうやって生き延びればいいのか????分離感全開、この恐怖を救ってくれるのは「安定」です。

もう大丈夫

もう大丈夫、、この安定を手にしたのだから、大丈夫。と思っていたらこの安定を絶対に失ってはいけない!!!!という次の恐怖に襲われます。失ってしまったらどうしよう。。。。という次の恐怖です。大丈夫じゃ全然ない。これが人生です。偽りの安定を手に入れればそれを失う恐怖心に怯えます。どこかでこの安定の罠に気づくまで、、いつまでもこの苦しみは続くのです。

もういいや

ある日突然それは起こるかもしれない「もういいや」です。もう十分だ、、もう結構、もうお腹いっぱい、、これが起こります。するとその瞬間とんでもない開放感が起こります。解放感です。偽りの安定を手放す瞬間です。過去にしがみ付く「自分」が消えます。分離の花火が消えます。記憶の中に生きるテクニックが解体され同時にそれにリンクした「自分」も消えるのです。なんだ、俺自分から苦しみに行っていたんだ、、と唖然とします。

表面的な安定を求め退屈を生きる

テクニック

こうすれば一生食いっぱくれはしないだろう、このテクニックさえ使えば死なずに生きていける、、、これ人間が大好きな思考です。生活保護、〇〇保障制度、財テク、不動産運用、、、などなど、、、さてこのテクニックはテクニックとして記憶されているのだから絶対に忘れてはならないのだから関心は「記憶」に向かいます。この過去に構築したテクニックを忘れてしまっては大変です。だからテクニックとは記憶であり過去なのです。ここに執着が起こるときそのテクニックに授かる存在は「私」です。過去にどっぷりと染まった「私」が今ここで意識から生まれるのです。

退屈

なんか釈然としない、何か退屈、なぜ???テクニックで一生を救われた私は、、、このテクニックを死んでも離さないとギュウギュウに掴み倒します。分離記憶を握りしめているのです。今という意識の中に「分離記憶の花火」を打ち上げまくっています。あれ????これってわざわざ苦しみ花火を盛大に上げているのでは???大正解です。一生安泰なのは誰ですか???間違いなく「私」ですよ。そしてこの安泰を絶対に手放してはならないと「思考」が起こり続けるのです。今という至福に苦しみの花火が連発されていくのです。

握りしめる

一度手に入れたのだから絶対に手放してはならない、、という思考が起こり続けます。この思考を起こすのを忘れてしまってはならない。テクニックを失うことへの恐怖心が次々に起こります。至福というプールに思考の波がガンガン立ち現れていくのです。最初から至福なのに、、自ら「自分」と「テクニック」という分離記憶をガンガン起こし続け、、苦しみを創造しています。

退屈

意識

全ては意識の現れです。全現れに過去も未来も今すらも実はありません。意識自体は時間の中に収まっているものではないのです。ですから「退屈」ということはあり得ないのです。退屈とは時間の中でしか起こりません。ですが意識は時間を超えていますから退屈ではないのです。つまり今ここに意識が在るという自覚が起これば退屈は消え去ります。逆に言えば今が退屈ならばそれは意識が生み出した時間を感じているのです。それも100%意識ですが。

意識ではなく意識の現れを感じている

退屈とは時間軸の中で起こる思考を感じる時に起こります。この仕事を一生我慢してやっていかなくては、、という思考が起こる時、、意識そのものではなく思考が生み出す現実を感じているのです。退屈という感覚が意識の中で起こりそれを感じているのです。ですが本来意識しかないのですから全ては意識の現れに過ぎず、つまり過去も未来も存在するわけがないのです。過去、現在、未来の必須条件は其々が異なっていることですが、、異なることは不可能です。全て意識ですから。

矛盾

ですが同時に表層では常に意識は多様な色を見せます。一切同じでない色です。だから人は過去、現在、未来とその相違を呼ぶのです。全ては変わっていくのだから世界は存在し時間も空間も存在するのだという勘違いを起こします。ですが本当は意識が一瞬一瞬違う「顔」を見せているに過ぎません。真実が見えてきますと全く変わることがない意識が全く違う顔を見せていることにこそ感動します。人はそれに恐れを抱きますがその感情こそが意識の顔です。

緊張が緊張を呼ぶ

世の中には怖い人がいてね

大人は子供にこう呼びかけます。「世界は怖いとこなんだよ、だから一生懸命勉強しなくちゃね」こう言って学校に通わせようとします。学校は絶対に休んじゃだめ、勉強できないと将来苦労するから、、こう脅しをかけます。すると体が緊張します。緊張するから、、意識がこの体の中に入っているような勘違いが起こります。意識がこの体の中に入っているという勘違いは分離感を生み出し、その結果益々恐怖心が強くなるのです。学校行かないと大変になるよ、という嘘の催眠が効きやすくなります。この悪循環がピークに達した時、人は無気力人間になるのです。鬱状態です。

意識は体には入っていない

意識が体の中に閉じ込められたような感覚が起こりますとそれが分離感になります。孤独感です。怖いという感覚が起こります。すると人は集団を求め、結果どこかに所属しなくては、、となるのです。この恐怖感がどこかに就職する動きになります。世界は怖いから一人で生きていくなんて不可能、だから就職しよう、という流れです。これが悪いということではなく事実です。そして本当の事実では意識は体に収まるわけがないのです。意識が世界です。ですから体も意識の一部です。他人の体も紛れもなくあなたの意識でできています。あなたの意識の守備範囲外には何も存在できないのです。これが真実です。

これは私のもの、これはあなたのもの

学校ではこう教わります。この鉛筆は私のもの、この鉛筆は太郎くんのものと。ですが事実では全て意識です。全て私の意識だから太郎くんのものではありません。そして太郎くんも私の意識でできていますから太郎くんも私の意識のものです。さらに言えば私も意識の中に居ますから、私は意識のものです。こうしてすっかりと全て意識の中に収まっているのが真実です。

真実は常識の真逆

残念ながら真実は学校で教わったことの真逆なのです。だから緊張感が緊張を呼び、その緊張が更なる緊張を呼んでいきます。嘘を教わり続けていくことで次第にこの緊張によって何も楽しめない状態になっていくのです。これが鬱の土台になります。

そうは言っても現実は、、

この観念で封じ込められる

子供が明るい未来を語ります。「将来はサッカー選手になりたいんだ」すると大人は、、、いい夢だね、そうは言っても現実は、、、、、と合いの手を打ちます。「将来はケーキ屋さんになりたいんだ」、、そうは言っても現実は、、、、こうなります。すると子供は、、、そうか現実って、、、夢が叶わないんだ。。。となっていくのです。ですが、ですが、、、全ては意識です。全てが意識活動です。その現実こそが意識でできています。その意識の中で「現実は厳しい」という固定観念が生まれれば、、その意識活動が行われるだけです。

現実

我々の意識の外には「現実」は存在できません。意識の外に存在する現実を見たことはありますか???今まで一回たりともそんな経験をしたことがありますか??ないはずです。世界で悲惨な戦争が起こったというニュースを意識のない場所で見たことがありますか???あったら是非教えてください。私は一度たりとも意識のない場所で悲惨なニュースを聞いたことがありません。意識の許可なく事件が起こることは絶対にないのです。

その悲惨な現実も

リーマンショック、コロナ、震災、、、どの現実もあなたの意識の外で起こったことはありません。なぜならば全ては意識の活動だからです。え???震災が意識の活動????そうです。あなた震災現場に行ったならば意識の中でそれを見るはずです。意識のない場所など絶対に存在しません。あなたが飛行機に乗って上空1キロの場所を飛んでも「そこには意識はなかった」とは絶対になりません。あなたがバンジージャンプをする時も「意識が飛んだ」とはならない。あの絶叫も意識の中で起こるのです。

何が言いたいか??

何が言いたいかお伝えします。全てが意識なのです。究極の分離感、不安感、絶望感、孤独感、、、も全て意識という原料の活動です。紐解けば全て意識です。世界も意識でできています。孤独感も意識でできています。それを体感してください。その体験も意識の中です。このブログを読んでいて何か感じたら何かが燃えています。それがカルマです。

意識の不安活動

意識の

全ての思考に「意識の」という枕詞を付加してみてください。意識の自我活動、意識の不安活動、意識の恐怖活動、意識のエゴ活動、意識の期待活動、、、、です。全ては意識の活動です。そしてそれを我々は実感しやすい状態にあります。なぜならば意識がない時がないのです。実は全て意識活動だったのです。100%否定できない存在、それが意識でありその活動です。今分離を感じていますか???ならばそれは意識の分離活動です。

意識の世界活動

今世界を感じていますか???ならばそれは意識の世界活動です。今不安を感じていますか??ならばそれは意識の不安活動です。意識という唯一無二の存在、決して消えることがないこの意識が全てを構築しています。そしてそれを我々は否定することが不可能です。なぜならば意識がない状態がないことを我々は最初から分かっています。余りにもそれが当たり前すぎてすっかり忘れていたのです。

喧嘩

家族と大喧嘩をします。その際にもそれが意識の活動であることを我々は絶対に否定できません。なぜならば喧嘩真っ最中でも意識はここに100パーセント存在するでしょう。そのことを否定できる人はいますか??絶対に居ません。そうです、我々は意識によって喧嘩を勃発され意識の中で争っていたのです。意識100%ジュースの中でそれがただ起こったのです。そのことが分かってきた時、喧嘩が馬鹿らしくなります。喧嘩が愛の中で行われていきます。なぜならば意識とは愛だからです。

未来という顔をした過去

過去無くして未来はない

過去の記憶を全て消した状態で未来を描くことは出来ますか??未来予想を記憶を無くした状態で出来ますか???頭が良い人は過去を精査して未来を描きそして逆算をして生きます。その逆算の生き方には過去のデータが完全利用されています。つまりその生き方は過去をベースに引き出された生き方です。過去データバリバリの生き方です。つまり過去を今生きているのです。つまり半端なく分離感全開の生き方をしているのです。だから苦しいのです。

結婚して全てを手に入れたと思ったら

女性が理想の結婚相手を手に入れた瞬間、その人は過去を生きることになります。相手が望む役割を演じ続ける生き方です。その役割とは確実に過去を精査した役柄です。過去にこの雰囲気、この性格、このキャラ、この声のトーン、が合致した役柄です。この役柄を生きるということは過去を生きるということです。分離感全開の過去を今に生きるのです。これは苦しくなります。今分離感全開を生きます。

今というのは分離が一切ない世界です。いつでも分離は完全完璧にないのです。ですがここに過去データが生み出した思考がガツンと起こります。苦しみのスパークが起こります。これが過去を精査した未来を生きるということです。過去を精査し上手くいったパターンを生きるということです。そこには「私」がガッツリ存在します。今という至福に私という分離感花火をバンバン上げていく時「苦しみ」が起こります。

意識は何かと分離しているか??

意識と分離した何かはあるか??

意識があるのは明白です。間違いなく意識があります。今意識がないと断言できる人がいるならば教えてください。私はかつて意識がない状態の人に会ったことがありません。つまり万人が今現在間違いなく感じているのが「意識」です。ビールを飲みます、半端ない飲み越し、、この「飲み越し」と「意識」に境界線はありますか????ビールが視覚に入ります、ビールという認識が起こります。ビールを飲みます。この全ての経験と「意識」には境界線はあるでしょうか???ありませんね。そうです。ないんです。

つまり

経験というもの、知覚の全て、、全てが意識です。意識の変容です。だからいつでもどの瞬間でも何があっても「意識はある」という自覚があるのです。これがこの世界の悟りです。全ては意識なのです。全てを顕微鏡で観察すれば、、原子の細部には「意識」が出ます。つまり意識で全てはできているのです。何もかもが意識だということがわかった時「自分」も意識です。意識の意識活動です。蓋を開ければ全てが意識です。

気づき

では意識が常にあるということに気づいてきたのは誰ですか???それはこの体の中の私ではないですよ。だってそれは意識の意識活動ですから。思考は意識ですから思考が意識に気づくのは不可能です。つまり意識は「私」によって今気付かれているのではなく「気づき」によって気付かれているのです。今意識に気づいていますか???ならばそれが気づきです。その気づきは私ではないのです。私こそが意識の活動でありその活動に私は気づけません。だから真我はこの体の中の私ではなく「気づき」です。

熟睡

からの

熟睡中に苦しむことはできますか??できませんね。熟睡中に苦しめる人は皆無です。絶対的に不可能です。ですが目覚めますと苦しみが起こります。なぜでしょうか??熟睡中に苦しんでいないことが可能だったのですから目覚めても苦しまないことも可能なはずです。朝目覚めますと意識が起こります、と同時に確実に世界も起こります。知覚です。この時点では苦しみはありません。マインドが起動します、その瞬間苦しみが起こるのです。マインドが苦しみの犯人です。

マインド

つまり真実とは異なった認識、観念、というマインドさえ起こらなければ我々は苦しみから解放されます。これだけが苦しみを生み出します。このことに気づいた時真実に目覚めてしまえば苦しみから解放されることがわかります。意識=世界では苦しみはありません。意識の中に意識の変容であるマインドが起こった時のみ苦しみが起こるのです。それ以外に苦しみを生み出す力はないのです。

意識不在の私

存在しない

私の存在しない意識は存在します。肉体死の後の意識がそれです。肉体が死んでも意識が残った時、、そのまま世界も残ります。その時世界が残っていて意識が残っているのだから「私」が存在するという思考が起こります。これが魂と呼ばれるものです。ですが実際には意識が残ったから世界が残ったのです。だから私はもはや必要ないのです。意識が世界です。

世界が残り

意識が永遠であるのだから世界も永遠です。よって肉体が滅んでも世界が残ります。世界があるのだからこれまで肉体に収まっていた私もまだ残っているという勘違いの固定観念も残ります。これが輪廻転生です。あれ???世界がまだあるぞ、、つまり「私」は魂として残ったのだ、、、これが自我です。そしてまだやり残したことがあると再び体に入っていきます。輪廻転生の成功です。ですが真実では「世界=意識」であり意識は永遠です。意識が世界を創造しているに過ぎません。当たり前のことです。実はどこに行ってもいないのです。意識がここにあって現象が変化しているに過ぎません。