真我の子供

何???

今こことは真我の子供のことです。真我の子供が「今ここ」です。では真我の子供が「今ここ」ということは「今ここ」は絶対に物質であってはいけないのです。だから「この物体である机」は100%真我の子供ではありません。真我が物体ではあり得ないのだから真我の子供は物体ではないのです。でも確実にここに机があります。どうしたらいいですか??困ったことになりました。ところが全然全く困らないのです。「机がある」という思考を記憶から消したら何が残りますか???世界から机が全て消えます。つまり机とは「机がある」という思考だったのです。

世界から

「私が存在する」という記憶を消してしまった瞬間、世界中から「私」が消えます。私なしの世界が生まれます。だから全ては思考だったのです。記憶だったのです。心だったのです。概念だったのです。では全ての記憶を今世界中から消したら???何が残りますか???何も残りません。ただ五感だけが残ります。それだけです。真我の子供とは「五感」だったのです。そこの「思考という感覚」「感情という感覚」が突然変異で生まれていたのです。真我が物質ではないからこの世界には「五感+思考+感情」しかないのです。つまり世界とは=「五感+思考+感情」のことです。真我の子供です。真我はそれに気づく気づきです。

矛盾が消える

真実

悟るとは一切の矛盾がないことです。何が起こっても矛盾がありません。悟るとは「分かる」ことなんです。宇宙全体が分かってしまうことです。その中の自分という存在が何か完全に分かってしまった時矛盾が消えます。その時分かります。今までパニック状態だったのだと。今までパニックであることに気づかずに生きていただけです。そうか俺はパニックだったんだと気づくのです。

真我

本当の私はこの体でもこのテーブルでもこの光でもこの空気でもこの世界でもこの地球でもこの太陽系でもこの音でもこの「経験」ですらありません。この全てのもの、全ての知覚、全ての経験、全ての思考ではないものが「本当の私=真我」です。え????何が残るの????残ってはダメなんです。残ったということに気づく時、それこそが残っています。つまり全てが消えた時、、、それまでの存在に「気づいてきた」気づきこそが真我であることに気づくのです。つまり名前も形も空間も何もない「存在」が真我です。

横軸の期待

勘違い

全ては自動運転です。ですから理想の生活に至るか否かは何も分かりません。事実では既に決まっています。ですがそれは分かりません。交通事故で一年後に死ぬことになっていればそこに向かって今があります。ですから期待というのは苦しみです。未来に何かを期待する生き方は苦しみの生き方です。何が起こるか全く分からないという究極も無責任以外今ここで幸せにはなれないのです。

究極の無責任

この体を通じて起こることは全自動、世界の全ても全自動である時、ある特定の未来を期待すること自体が苦しみであることがわかりますか??それではダメです。そっちに行かないでください。行っていいのは真実の自己に目覚めること、その一択です。それ以外の選択肢は失敗に終わるでしょう。だって今ここで既に幸福で充満されていることに気づいていないだけですから。

金の装飾品

我々とは全てが金の装飾品と知らずにいつか金の指輪を手に入れたいと願っているのです。全てが金の装飾品にも関わらずいつか金のお皿を手に入れたいと願っています。この苦しみがいかに滑稽か分かりますか???こんな滑稽なギャグはさっさと終わらせた方が良い。そのことに気づいていきますともう究極の存在以外に関心がなくなります。

「何者かでなくてはならない」という固定観念

私とは「何者かではなくてはならない」という固定観念が生み出した想像物です。何者かでなくてはおかしいじゃないか!!!だって「生きている」という実感は100%あるのだから!!!だからこの見える世界の何であるに違いない!!!あれその何者かって「この体じゃね???」これが「生きている」という実感の所有者じゃね????となります。全然違います。全然勘違いです。100%勘違いです。「生きている」という実感の中でただ映像が流れているだけです。それが答えです。「生きている」という実感の中でこの体というアバターが現れたのです。アバターは生きているという実感の中に収まる依存物です。収納品です。収納部屋が「生きている」という実感、、収納物品が「この体」です。

そのことについて「考える」ではない

一生懸命考えました

昨日は一生懸命「あの悩み」について考えました。本当にスッキリしました。楽になりました。とはなりません。そのことについて考えて、、楽にはならないのです。無理です。不可能です。なぜ??なぜでしょうか???考えてもなぜ楽にはならないのですか???一生懸命、真剣に考えて起こる出来事が「苦しい」です。

その悩みは何か??

では結論を言いましょう。「その悩みは何か???」ここに行かなくては解決しません。この「悩み」はなぜ悩みなのか???ここに行く必要があります。「悩み」という出来事を上空彼方からハッキリと俯瞰した時、その悩みは悩みではなくなります。悩むことが不可能になります。「悩み」と同じ次元に居てはそれは解決しません。

誰が

誰が上空彼方に行かなくてはならないのですか???誰でしょうか。「私」ですね。「私」が悩みとは全く違う次元に行かなくては悩みは消えないのです。全ての現象は「心」が生み出しています。「心」が生み出した現象を、心が生み出した「私」は解決できません。「記憶」が生み出した現象を「記憶」が生み出した「私」は解決できません。「思考」が生み出した現象を「思考」が生み出した「私」は解決できないのです。つまり今回この悩みを解決するのは思考が生み出した「私」ではなく「意識」の方です。意識である「私」が悩みを俯瞰するのです。

つまり

つまり出来事である悩みの真犯人は「心」「記憶」「思考」です。これが真犯人です。真犯人とは全く違う「誰か」を悩みの主犯格と想像して苦しんでいたのです。容疑者を完全に勘違いしています。容疑者Aは完全な白です。容疑者A は実は「心」「記憶」「思考」が作り出した幻想です。ここに気づきます。では「心」「記憶」「思考」が犯人だとしたら捕まえることができないじゃないか!!!となります。違います。その「心」「記憶」「思考」は森羅万象の動きで自然に湧いているのです。雨の動きと同じです。雨が悪くも良くもありません。全く同じです。

要するに

つまりつまりその悩みは森羅万象の動きの中で自動で生み出されていたのです。雨が生み出す豪雨のように一時の形態に過ぎないのです。このメカニズムに真の意味で気づきますと、、、解放されます。容疑者であったAを責めたいという気持ちが消えます。容疑者Aを責めたいという気持ちを持てなくなります。恨みたくてももう恨めなくなるのです。

意識

意識がこの悩みを生み出すメカニズムを俯瞰する位置に移動した時、その悩みの被害に遭うことが出来なくなるのです。大人が小学生の内輪喧嘩に参加できないように、それに気づいた意識はその悩みの出来事に参加することができないのです。「記憶」「心」「思考」は意識が生み出しています。意識が「記憶」「心」「思考」に変容して出来事を生み出した。私はその意識です。記憶が生み出した「私」は意識が変容した「私」であってそれは「真の私=意識」の一部に過ぎないのです。ですから「真の私=意識」は出来事に巻き込まれることはできません。

気づいてしまえは

簡単

システムは簡単です。単純明快です。真実は至ってシンプルで明快です。ですがなぜかこれが分からない。慣性の法則があまりに強く強烈に働いているから飲み込まれます。もうこれは癖です。そう考えるように反射システムが強烈に働きます。分かっちゃいるけど辞められない、、「そりゃそうだ」だけど、、なぜか終わらせてもらえない、、、

苦痛と向き合う

逃げない

目覚めとは苦痛から逃げるのではなく、、苦痛とい向き合うことです。苦痛を一時忘れるのではなく、、苦痛自体が何かに向き合うことです。苦痛とは何かを分からないから人は「快楽」に逃げます。快楽中は一時の一休み、これが終われば直ぐにまた苦痛が襲ってくることを分かっています。終わりのないゲーム。だから人は解脱に憧れるのです。もう人生ゲームは終わりにしたい。終わらせてくれ。

ベクトルが変わる

苦痛を忘れたくて外に外に向かっていた動きが内側に向いた時転換期です。大変革です。もう外の何かには逃げない、その覚悟が決まるのです。苦痛自体を終わらせてやる、苦痛との真剣勝負、タイマンです。覚悟です。「覚り悟る」のです。覚悟とは一方を「諦める」ことです。外側を完全に諦めた時覚悟が決まります。外側には頼らないという覚悟です。

満たされない欲望

どこかでは気づいている

俺いつまでお酒を飲み続けるのだろか??俺いつまで売り上げのこと考え続けるのだろうか??俺いつまで女を追いかけ続けるのだろうか??俺いつまで見た目を気にし続けるのだろうか???終わらない欲望、、、、満たしても満たしても毎日それを満たさざるを得ない。どこまで行っても終わりがないゲームを続けるのか??そうです、これには終わりがないのです。快楽はインスタントラーメンのように食べれば食べるほどにお腹がすきます。飲めば飲むほど飲みたくなります。

苦痛の解消

苦痛という時間が最初にあって一時苦痛を感じなくする時間があります。それが快楽です。その瞬間だけ苦痛を感じないようにするツールです。だから分かっているのです。快楽の時間が終わればまた苦痛が襲ってくることを。「苦痛ー快楽」システムはラットレースのように走り続けなくてならないのです。今日思いっきりお酒で楽しんでもまた明日もお酒に頼ってしまう、今日思いっきり異性を楽しんでも明日も頼ってしまう、今日思いっきり、、、、、あれ???朝になればまたそれを追い求める自分に気づきゾッとするのです。

TV ゲーム

テレビゲーム、、あれだけ昨日やって楽しんだのに、、朝から取り憑かれたように始めます。表情に恍惚感がなく、むしろ貪っているのです。満たされた感覚よりもやらずにはいられない。これが飢餓状態です。周囲は気づきます。「そろそろ辞めないさい」そう言いたくなってしまう。。今がいかに苦痛状態でもゲームをやれば忘れられる。学校がどんなに退屈でも家に帰ってゲームさえやれば、、こうして「苦痛ー快楽」システムに飲み込まれていきます。

映画

次第に

映画を見始めます。徐々に徐々に主人公になり切って映画を見ている状態に入ります。一方そうなれない映画もあります。一方は主人公になり切って映画を一瞬で見てしまい、一方は全く映画に夢中になれない。これ何が違うのでしょうか???一方は映画という映像の主役に意識がチューニングされ、一方はそのチューニングが起こらないのです。主人公という映像に意識のチューニングが合致した時主人公の固定観念に準じた感情が起こるのです。

この夢

我々はこの現実という夢の中に出てくるこの体に意識がチューニングされこの体を「私」という感覚に導きこの夢を見ています。そしてこの私という固定観念に意識が合致し感情を味わいます。映画と何も変わりません。ですが本当はこの体から勝手に自動で思考が起こっていると気づくと意識がこの体へのチューニングを辞め意識は意識のままに戻ります。意識が体から脱皮した状態です。

意識がチューニングを辞めても

意識がこの体へのチューニングを辞めたとて、腹が空けばこの体は食事を食べますし、尿意が起こればトイレにいきます。思考も勝手にガンガン起こります。その時感じるのです。なんだこの体に意識を向けていなくても全ては自動で起こるのだと。そこから自由になります。森羅万象を動かすエネルギーがこの体でも起こっているというのが分かります。この思考もこの感情の動きも森羅万象の動きだったのです。雪の結晶のように完璧な動きがこれまで起こっていました。

苦しいのも完璧

勘違いの動きも完璧なのです。勘違いの固定観念すら完璧だったと気づきます。全ての雪の結晶が完璧な形態をとるように思考も完璧なのです。意識が個の視点にチューニングされた時苦しみが起こり意識が個の視点から脱皮された時苦しみが消えます。

俺はいいけどYAZAWAはどうだろう

面白い

歌手の矢沢永吉さんの発言は非常に関心が湧きます。記者の質問に「俺はそれでいいんだけどYAZAWAが納得しないかも」というような発言をします。自身のことをYAZAWAと他人を称するような発言です。これ分かっている感覚です。意識としてYAZAWAを客観視しているのです。自分という存在を意識として完全に客観視した時「客観視」している存在は誰だ??となります。一流のミュージシャン、職人は言語化はしなくてもそれが勝手に出来ているのです。

意識

全ては意識の中で行われていきます。自身の口から出る言葉の全ては意識が生まれます。自身の口から出る言葉を意識として観察対象になった時「意識」と「思考」は完全に分離した状態になります。意識が思考を注意深く観察しているのです。この状態が超意識と呼ばれる状態です。思考を観察対象できた時、「自分という思考」も当然観察対象になっていきます。すると「YAZAWAはどうだろうか」という発言になるのです。