意識がコーヒーカップを作る

「私」ではない

「私」がコーヒーカップをただ見る、、、たったこれだけの動きにおいて、、意識がコーヒーカップを現象化させます。これが真実です。。ここ重要です。。。。ところが、、、これを前から撮影すればこの体がコーヒーカップに向くだけです。。。。この体はコーヒーカップなどまるで作り上げていませんね。。。気づきました????そうです、、「意識」がコーヒーカップを現象化させたという事実は残らないのです。その証拠にこの体がコーヒーカップに向くという映像が残ります。

意識が「この体とコーヒーカップ」を作った

意識がコーヒカップを作り出しこの体がそっちに向くという現象を作り出します。これを外から撮れば、、ただ体がコーヒーカップに向く映像になります。この体はカップを作ることは作ることは不可能なのでこれでいいのです。その画像に意識がカップを作り出す様子は残りません。人間がカップに向くという現象の映像が残るだけです。

意識の活動は映像には残らない

意識を向けるとそれが現象化される、、これを映像で残すのは不可能です。意識のクリエイションを映像で残すためには、、、神の外に神以外の撮影隊を準備しないといけないのです。ところが神以外の撮影隊がいてしまったら神は神ではなくなってしまうのです。だから神のクリエイションが映像で残ることなどありえないのです。

歩く

意識

歩く時、意識上は何が起きているのでしょうか???体に意識が行きます、腕、足、かかと、股関節、意識を連動させて体の動きを現象化させていきます。変化を意識が作ります。それに合わせて視界という現象に変化が起こります、そこに気づきます。体への能動的意識からの現象化、視界の変化という現象に気づくという意識が加わります。さらにそこの思考が加われば思考にも意識が行き、ビジョン化されそれに気づく意識が現れるのです。

歩いている時ですら

歩いている時ですら、、我々はストーリーの世界、ビジョンの世界に住んでいます。歩きはそのままクリエイティブ活動ですが思考の内容はそれとは全く異なるビジョンを描くのです。本当は今「神」としてクリエイティブをしているにも関わらず思考の中身は「私が道を歩く」です。全く異なった世界に住んでいるんです。今神としてこの視界を作り上げているにも関わらず今「私はこの道を歩く」という世界に居るのです。

疲れた

疲れるのは当たり前なんです、、神としてクリエイションをしながら、、、「私は道を歩く」という幻想を生きています。常に映画が流れている、映画を作り上げているのですから大変疲れるわけです。24時間映画制作をしているんです。神が現象をクリエイトしながら(至福)その中に「私は道を歩く」というビジョンを描きそれを気づく意識を作ります。この映画は上映中ひたすらに「違和感」が出現しますから疲れるのです。

何これ????

人類はいったい何をやっているのでしょうか????自らが意識で全景色を作り上げておいて、、「私が固定されたこの外部環境を生き抜く」というプレイをしています。これほどの自虐プレイはあるのでしょうか???いつから我々はこんな勘違いをされられるようになったのか???とにかく謎です。

意識のグラデーション

全部が意識

この世界は全部が意識です、、、、全部です。その証拠を見せましょう。今目の前の視界を眺めてください、左端には「意識」が薄く向きます、右端も、上端も、下端も、、、意識は薄いです。中央は濃いでしょう。視界は中央がハッキリし、視界の端は薄ぼんやりしています。これはそのまま意識の濃淡です。その証拠を見せましょう、、右端に意識を向けてください、つまりそこを見るのです、、、はいうすぼんやりしていた「照明」がハッキリ現象化しました。次に左端の薄ぼんやりした「冷蔵庫」に意識をしっかりと向けてください。冷蔵庫がハッキリしました。

「自分」に意識が向くと

自我に意識が向くと自我がハッキリと顕在化し、、周囲が薄ぼんやりします。つまり視界が薄ぼんやりします。世界が薄ぼんやりするのです。意識のグラデーションが自分に集中し周囲が薄ぼんやりします。冴えない世界に濃密な自分が顕現するんです。これを苦しいと言います。我々の本質は意識で意識はこの世界に点在していることを自覚すると、、世界は輝きだすのです、、なぜならば意識が自我に集中しないからです。

自我とは

自我とはこの意識がこの体の中にしか存在しないという大きな勘違いのことです。つまり「意識」をこの体に閉じ込めたのです、、なんという愚かな、、世界は完全に薄ぼんやりします、世界は冴えない世界になります、世界は薄汚れ希薄化します、、世界は淀み光を失います。意識がこの体に集中するのですから当然です。そしてその当然を実感してください、今意識がこの体に集中し、、体以外に意識がないのを実感するのです。

脱催眠

意識の解放

我々はこの意識を体の中に閉じ込められるという催眠をかけられています。意識を利用してこの体の中に意識があるんだという催眠をかけられたのです。ですからこの意識を利用して脱催眠をします。ではいきましょう、、今視界にあらゆる物が映っているはずです。視界を眺めてみてください。左端に何が見えますか????薄ぼんやりした何かがあるでしょう、、、冷蔵庫????そこに意識を向けてください、、はい「冷蔵庫」が現象化しました。「うすぼんやり」はこの体の外にあります、、この「うすぼんやり」に意識を向けると、、「うすぼんやり」が「冷蔵庫」になるんです。

右端

視界の右端には何がうすぼんやりしていますか?????照明です、、、、照明が「うすぼんやり」しています。この「うすぼんやり」に意識を向けてみましょう、、、はい「照明」が現象化しました。この「うすぼんやり」は体の外にありますね。意識を体の外に向けた時、、「うすぼんやり」が現象化するのです。意識は体の中にだけあるんじゃなく「外」にもあるんです。意識が現象を作ります。

体の中

体の中に意識を向けます、、、はい「足」に意識を向けます、、フローリングを感じる「足」が現象化しました。鼻に意識を向けます、、はい空気を感じる「鼻」が現象化しました。耳に意識を向けます、、「耳」を感じます。意識を向けると現象化するんです。体の中も体の外も意識が現象化します。こんな簡単なことなのに、、我々はずっと騙されてきたんです。

意識は点在している

意識とはこの体の中にのみあるのではなく、、全部に点在します。そこに意識を向けると現象化します。この意識を「自分」と勘違いしたことから人は不幸になったのです。人類全員が今この瞬間も意識を使って現象化をしているんです。こんな簡単なこと?????そうです、、真実は簡単シンプルです。当たり前なんです。悟りを意識の解放と呼んだりしますが当たり前のことを勘違いさせるのが催眠だったのです。だから全人類がこの催眠にかかるのです。催眠が複雑ならば全人類が催眠にはかからないでしょう。

神を楽しむ

さあ我々は人間なんてものじゃなく神です、、、人間という環境に適応しなくてはならない存在ではなく、環境を作る神です。今それをやっているのです、今神をしています、今自身が神であることを思い出してください。そしてこれはトレーニングです、、神が神であることを思い出すトレーニングです、トレーニングですからこれには段階、階段があります。先ずはこの大前提を思い出すのです。するとドミノが倒れます。階段を登れます。

神がなぜ寂しいのか????

寂しい神って

神が寂しい?????聞いたことがありません、ならば今寂しいのはなぜか????なぜ今寂しいのか???私は神です、、この神がなぜ寂しいのか?????神が「私」を信じたからです。この体の中の意識を「私」と認識すると寂しいが湧きます。この体の中の意識は「私」ではなくそれは人間社会での方便です。これはこの体の中の意識につけられた名前です。

意識の拡大

意識を拡大させてみましょう。この体の中の意識をぐわっと全体に拡大します。今体の中に閉じ込められていた「意識」が全体に拡大されました。では確認しましょう。目の前の照明に「意識」を向けます、、はい照明が現象化しました。「意識」がその場所で現象化したんです。はい目の前のスリッパに意識を向けてください。スリッパが現れました。意識がスリッパに変異したんです。目の前の赤い椅子に意識を向けてみましょう、、はい椅子が現象化しました。

意識の現象化を楽しむ

友人との会話、、、意識が友人に向かなければ会話は成立しないんです。意識が外に向く時、、、友人の会話はただの音です、、、現象化しない。ところが友人に意識が向くと、、、はい会話が現象化しました。会話とはその登場人物への意識が可能にするのです。ビールを味わう時は、、ビールに意識がいきます、、意識がビールに行くことで味が現象化します。考え事をしている時、、いつの間にかビールがない、、が起こるんです。

スーパー

スーパーマケットに行こうという意識が全く浮かばない日は「スーパーマーケット」は現象化しないんです。スーパーに行こうという意識が生まれるとこの世界にスーパーが登場します。意識が現象を作り、、現象が意識を生みます。この真実に触れていきますと、、、寂しいが消えていきます。自分という存在が消えていきます。

至福という背景

動きだけがある

至福という背景に「悟りたい」という動きだけがあります。至福という背景に「いつか悟りたいんです」という動きが起こるんです。至福という背景に「どうやったら悟れますか」という動きが起こります。今もここは完全に至福です。そこにその動きだけが起こっています。「悟り方を教えてください」という動きが今目の前で起こりました。ですがその動きは完全完璧に至福から現れたんです。

俺はどうしたら

至福という背景から、、「俺はどうしたら悟れるのか」という動きが起きました。その動きを注意深く観察してください。至福という背景から明日悟れるだろうか???という動きが起こるんです。。。その時に背景から個人に移ってはいけない、、、背景です、、至福という背景なんです。今も既に。

自我という収縮したエネルギー

自我という収縮したエネルギーを感じてください、、感じるのは背景としてこれを感じるのです。自我を徹底的に感じてください、背景として。背景として思い切り自我を感じるんです。自我を感じる背景は至福です。背景が自我を感じる時一切の至福の崩れがありません。自我がガッツリと絞り込んできても背景の自覚を崩してはいけない。自我は常に背景から分離しようと企てましが、、自我がガッツリ捻れるからこそ背景を強く意識するのです。

もう負けない

自我の強力な捻れを背景として維持します。至福をここで崩しては行けない。背景の中の登場人物は、、背景から自我へのシフトを促すでしょう。ですがここで自我になってはいけない。。背景のままです。背景のまま自我を観察します。

悟りの場所

悟りの場所はどこにあるのでしょうか???

ここです、、ここ以外にはありえない、、、だからここに全部あります。自我はそれを嫌がります、自我は先のどこかに、、「私は幸せになれる状況」があると信じ込ませます。これとあれが手に入り、子供はこんな感じに育ち、、、老後はこうで、、、です。「私」が主語のハッピーの感情を「描く」のです。そして真剣にそうなったらハッピーになると信じています。

いまここでなぜ至福じゃないのか????

逆算なんです、、いまここは至福です、、、ですがいまここが至福じゃないわけです、、なぜ?????いまここで至福じゃない理由はどこにあるのか????逆算します。「私」がいるからですね、いまここから私が飛べば、、ここは至福なんです。エゴとペインボディ動きを完全に見切ります、、私を認識しているのは誰だ????ペインボディの動きを認識しているのは誰だ????

目の前

目の前の旦那を認識しているのは誰だ?????誰が認識している????この視界は誰が認識している????認識とは、、その場で起こるのです。その場所がそのものを認識します。その場所の現象がこちらに話しかけてくることで「私」が生み出されますが、、その「私」を認識するのもまた背景です。背景が相手の言葉を認識し背景がこの言葉を認識します。背景と背景の会話が起こります。そこに意味はあるのでしょうか???ないです。

意味があると思っている

会話に意味があると思っているのは、、この先に至福があると信じているからです。ですが既に至福の中でただ背景同士の会話が起こるのです。その理解が起きますと、、突然至福が起こるのです。相手は言うでしょう???どうしたら私は幸せになれますか????ですがその発言が至福から飛び出たのです、これを見抜きます。エゴの動き、ペインボディの動きははやりあります、これからも。ですがそれすらも至福から起こっていることに気づくのです。

悟らせないペインボディ

こっちに行くと悟っちゃう

体は全部分かっています、、どこに行けば悟るかを、、どうすれば悟るかを。それをペインボディが食い止めます、、なぜかそっちに行かせてくれない、、なぜか?????悟らせないための動きをペインボディが代わりにやるのです。これさえ行動できれば、、、、絶対にやらせてくれないんです。いいんです、、全く問題ありません。その絶対に行動させてくれない動きがペインボディと悟る、、、これ以上にペインボディを弱らせる方法はないんです。

邪魔の全て

本当はこうしたいんだけどなんで出来ないんだろう?????全部ペインボディがエゴ維持のためにやります。勝手にやるんです、勝手に。だからどうしようもない、、どうしようもないことを悟るんです。ペインボディは勝手にやるのだからそこを悩んでもしょうがない。悟らせないように勝手にペインボディがやったというこの事実を受け入れます。

そこには行かせない

悟る方向に行こうとすれば、、そこには行かせないというペインボディの動きが起こります。今まではこれが水面下で行われ、、どうしようもなかった。。ですが今は違う、、、、ペインボディの動きに気づくが生まれる。やりにくい、、あまりにやりにくい。。。。こうやってペインボディを徐々に弱らせていきます。そしてこのペインボディのエネルギーをポジティブな方向にシフトさせます。悟りへの可燃剤に使うのです。

雑念の数だけ

意識が湧く

雑念がなぜ苦しいのか????それは雑念の数だけそれに気づく「意識」が生まれるからです。昨日一万の雑念が生まれたんです、、つまり一万回「意識」が生まれたんです。この意識が頭に集まったままですと、、、自我が消えないということになります。ですがこの仕組みを理解しますと、、、そのことによる思考が減ります、、、なんで自我が消えないんだろう????という副次的な思考が減ります。

雑念湧いた、意識も湧いた

雑念が湧けば意識も湧きます、、意識があるから自我が湧く、、自我が湧けば意識が湧く、、、これを見抜くのです。雑念が湧いたから意識が湧いたんだ、、、なぜ雑念が意識を生み出すかと言えば、、、現象=意識だからです。雑念=現象=意識です。ここに気づけばいいのです。するとそのことで悩むがないんです。

意識には悪いも良いもない

意識とは神のことです。神に悪いも良いもないんです。ですから雑念が湧くこと自体が悪いわけではない。しかしながら雑念の内容が意識されると、、雑念がイメージ化(現象)し、、、それがまた意識されます。このイメージの内容が苦しいという感情を生み出すのです。するとその感情を打ち消そうと思考が湧きその内容によって苦しいが湧き続けます。

東京は何が作った

意識

東京という大都市は一体誰が建てたんでしょうか????「意識」です。東京を作り上げるという「意識」が最初にあってそれがこの街を作り上げたのです。目の前のコーヒーカップを持つ、、これには意識が必要です。そしてそのコーヒーカップに気づくにも意識が必要です。何度も説明しますが、意識が現象を生み出し、、、現象が気づくという意識を生みます。

意識しかない

外を見渡してください、、何かが見えますよね、、ビル群でしょうか????その現象の全てに気づきました????現象の数だけ意識が生まれたんです。今何が見えましたか?????高いビルが三棟、山が一つ、川が一つ、、、です。その気づきの数が意識です。意識が現象化し、、現象が意識を作るんです。ですから意識はこの体の中にも外にもあるんです。

自我が強い

自我が強いとはこの頭の中に自我を起こす習慣が強いのです。自我が出現すると「意識」が生まれます。だから自我を感じます。自我が出現する回数が増えると、、意識が生まれます。自我を前提にした、、、思考の全てが、、この頭に「意識」が起こります。だから自我と意識の強力なタッグが芽生えるのです。だからこそ自我が嘘?????なわけないだろ、、これだけ意識が鮮明に起こっているんだから。。になります。