因果など存在しない

これは夢

これは夢です。ですから因果など存在しません。夢の映像がただ変化していきます。その映像を繋ぎ合わせて「コップが机から落ちて割れた」という因果の思考を生み出すのです。現れたのは繋ぎ合わせた思考です。それ以外は何も起こっていません。コップという映像が破片という映像に切り替わり「割れた」という認識だけが起こるのです。世界すら存在していないのですから「コップが割れた」という事実は起こりようがないのです。夢の中でその認識だけが起こったのです。

「在る」という感覚

これが夢だと見抜きますと、、もうこの夢は体の主体が見てはいません。この夢を見ているのは「在る」という感覚です。夢を生み出す「在る」という感覚が観ます。それだけです。この体はもうこの夢ではアバターに過ぎず、アバターは実は何もしていないのです。このアバターは夢の中で困った時だけ「自分」を感じる存在でしかありません。

七つの感覚

それしか起こっていない

世界から「七つの感覚」を取り上げた時何が残りますか???視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、思考、感情という感覚を世界から取り上げた時何が残りますか????全てが消えます。全てです。完全な無です。ですがたった一つ何かが残ります。それが意識です。意識だけは残るのです。7つの感覚は消えますが意識だけが残ります。

再び7つの感覚を取り戻すと

そこから7つの感覚を取り戻すと元の世界が現れるのです。そしてまた7つの感覚を取り上げます。すると意識だけが残ります。では実は世界は存在しなくて7つの感覚だけが起こっているとしたらどうでしょうか???実はそうなんです。5感という感覚が起こりその感覚を利用して思考が起こり「世界が存在」し「私も存在する」という思考を作り上げるのです。本当はこれだけが起こっています。

意識

意識の中に「五感」が起こり、そこから意識の中から思考が起こるのです。そして意識が感情となって現れています。だから「世界は意識」なのではありません。世界自体が存在しないのです。五感という意識の変容と思考という意識の変容と感情という意識の変容だけが起こっているのです。ですから「全ては意識だ」の全てとはこの世界のことではありません。五感のことです、思考のことです、感情のことです。これが意識です。

テーブルが意識なのではない

テーブル、机、人間、スマホ、、これが意識でできているのではないですよ!!!!違います、全く違います。そうではなく、、、全てが存在していないのです。存在するのは五つの感覚と思考という感覚と感情という感覚だけです。 脳も当然存在など一切していません。あり得ないのです。空間が存在しないのですから。だからこの夢が意識なのです。この五感と思考と感情こそが「意識」です。意識の変容なのです。

何を失う???

この夢の中で何かを失うなど不可能なことが分かりますか???夢ですから。失うにも失う実体が一つもないのです。この体も当然存在していません。脳も存在しません。夢の中の知覚として脳は現れます。ですがそれらは全て知覚の中でのことであり知覚以外ではないのです。気づきの中でこの感覚だけが現れては消えていきます。

目の前の覚者

存在していない

私はどうしたらあなたのようになれるのでしょうか??あなたのように目覚めることができるのでしょうか???どうかどうか教えてください。回答を求めて覚者に探求者は尋ねます。ところがです、空間が存在しないのです。どこに覚者は存在するのでしょうか???もちろんここに目の前に存在しているように見えています。ですが空間がないのです!!!存在などしていないのは明白です。

でも

しっかりと回答が起こります。間違いなく回答が起こります。覚者から回答があるのですからそこに存在しているに決まっています。ですが空間がないのです。覚者は存在できません。ただその映像の知覚が起こり、覚者が存在しているという知覚が起こるのです。そこから声が聞こえるという知覚が起こります。100%存在するかのような感覚は起こりますが、、覚者は100%存在できません。

私も居ない

空間がないのです。この私の体も100パーセント存在できません。存在できないのですからあるのは「知覚」という感覚だけです。感覚だけが起こっています。そして気づかれます。5感覚+思考、感情感覚のみが起こるのです。断言しますが覚者は存在しません。空間が存在しないのですから時間が存在しないのですから覚者が存在してしまったら全てが崩壊します。実在は唯一「気づき」だけです。それ以外に実在は存在しません。

映画

2度目

映画を観ます、一回目を観ます。続けて二回目を観ます。続けて三回観ます。どうでしょうか??湧いてくる感情が違うのは分かりますか???そうです。毎回毎回見ると現れる感情が変わります。映画は全く同じ内容です。ですが感想、感情が毎回異なります。悟りとは全てを分かってしまうことです。全てを分かってしまった時、今目の前の私という映画が上映されていても感情が変わるのです。

怖くない

私という映画の上映において一番の感情は不安、恐れ、孤独でしょう。分離感が起こす感情です。これが私という映画の基本的感情です。これが変わります。全てが分かってしまった時、恐れが湧いてきません。全てが自分自身で自分自身の投影に過ぎないと分かってなぜ恐れの感情が湧くというのでしょうか???不安???何を失うことがあるのでしょうか??戦争???いやいや空間がないのです。戦争はどこで起こるのでしょうか??

全てが私

世界が分離していると信じるためには記憶が必要です。記憶がない時分離しているという感覚を持つことができません。分離とは記憶による断片作業の賜物です。分離をすることは不可能なのです。分離という認識を記憶が作り出すのです。私という認識を記憶が創り出します。全ては私です。それを記憶によって分離という認識が生み出されています。つまり今も完全に分離のないあるがままが起こっています。それを分離させるのは記憶なのです。そして分離などしていないにも関わらず記憶によって分離を生み出し苦しむのです。

その結果

苦しいのだから快楽を求めます。苦しいから快楽を与えてくれる対象を探します。この行為こそがさらなる分離を生み出します。記憶をフル回転させて苦しみを一時消してくれるだろう対象を探すのです。この行為こそが記憶が生み出す奴隷行為です。そっちではダメです、そっちに行っても苦しみのループです。真実に目覚めるのです。ベクトルが真逆です。真実では全ての知覚の「気づき」こそが我々です。ここから知覚が現れだし分離という感覚だけが起こっているのです。私は何一つ分離などできずただその感覚が溢れてきているだけです。分離を感じることから悟りの入るのです。その感覚に気づいているのは誰か???から悟りに入ります。

空間と体

あるわけがない

この世界は空間ではありません。空間は存在しないのです。ですから当然ながらこの体も存在しません。空間が全く存在しないのですから時間も存在しません。時間とは空間の移り変わりが起こることで発生するのですからその空間の移り変わりがないのだから時間も存在しないのです。今この感覚というデータのみが起こっています。感覚のデータが神によって認識移動しているだけなのです。データが変わり続けるから時間も存在すると感じ空間も存在すると感じこの体も存在すると感じます。ですが実際にはその感じるというデータが今起こったのです。

世界

多くの人々にとってはこの世界は物質で溢れる世界です。あらゆる名称の物質が溢れる世界です。ですが違います。真実ではその知覚のみがデータとして起こったのです。だからこの世界自体が存在しません。そしてそのデータの知覚が起こりそれに気づく気づきこそが我々の正体です。気づきという物質でもなくエネルギーでもなくなんでもないものが本質です。

何を求めるというのか

全感覚だけが気づきから起こりそれが気づかれました。その本質が我々です。全ての感覚は我々から起こります。それが分かった時何を求めるというのでしょうか???何かを求めるという思考も気づきから起こり気づきに消えていきます。そして実際には実在性のある「何か」は手に入ったことがないのです。空間が存在しないのですから。実際には実在しない「何か」を手に入れてもただその感覚だけが現れて消えていくのです。ただその画像が現れ知覚され消えていくのです。求めるというのは「個別の自分」が存在し寂しいから求めるのです。もうその個別の自分が存在しないことに気づいた時「求める」動き自体が消えます。

ここに在ることが奇跡

真実に目覚めますと今ここにそれが「在る」という感覚が起こることに驚きます。ソファーという感覚が起こり、テーブルという感覚が起こります。これが奇跡です。ですからそれ以外を求めるという発想が消えます。今ここで奇跡が起こっているにも関わらず何に退屈を感じるのでしょうか。私という感覚が根源から起こっているのが奇跡で、目の前に友人が居るという感覚が起こっているのが奇跡です。

記憶の奴隷

我々

無知な人間は記憶の奴隷です。記憶が生み出す思考、感情、活動に関心が向かっています。それを自身が生み出したと勘違いさせられています。自分すらもこの記憶がなかったら存在していないにも関わらず記憶から勝手に現れだす自分という存在で活動を行わされているのです。その全ての主体は記憶です。記憶がなかったらここは「無」です。何一つ対象を指し示すことができません。対象を指し示せることを可能にしているのは記憶なのです。その記憶によって全てが生み出されています。

その中で

記憶の奴隷としれ我々は苦しみから解放されたいと願います。いつかこの全苦しみが消えてくれることを信じて活動します。その活動が実は記憶から勝手に立ち現れているとは知らずに。このメカニズムに気づくと動きが止まります。私がなんとかしなくてはという動きが緩やかになっていくのです。私とはこの私を記憶から生み出すことを可能にした「意識」なのです。「私=意識」から記憶が起こって「自分活動」が始まっていることに気づくのです。記憶の奴隷からの解放です。記憶の奴隷から解放されるには自身が記憶の奴隷であったと気づくこと以外にはないのです。

記憶にやらせておく

レストランに行けばメニューを開き、オーダーをして食べてお金を払ってお店をでます。この全ての活動において記憶が存在しなかったら成立しません。全ては記憶が行為を無事に終わらせていきます。記憶がこの人間活動を支えているのです。こう行為が勝手に起こっています。何一つコントロールなしに勝手に起こるのです。ですから記憶が生み出すこの行為は大切です。だから両親は一生懸命子供に「名前」を教えるわけです。

しかし

しかしその過程で「嘘」も教わります。「あなた」が選びなさい、という嘘です。あなたが全て決めているのだという嘘です。本当は記憶から自分活動という動きが起こっています。これが事実です。すっかり私は騙されて全ての人間活動には主人の私が存在すると確信するのです。記憶の奴隷の完成です。記憶の奴隷としての活動がスタートします。この広い世界を生き残っていかなくてはいけない「私」の誕生です。

明晰なNO

全ては愛

真我に根源に意識が向かうと全てが愛に包まれていきます。自然に愛が溢れてきます。この感覚は言葉を超えています。ですが周囲にはその愛を利用しようとする動きも起こります。この人は何をやっても許してくれるはずだ、、です。それを許すこともできます。ですが許さなくてもいいのです。愛しているからこその『NO 』です。冷静沈着なNOです。かわいい子には旅をさせよ、というNOです。

既に愛している

既に愛しているからこそのNOは破壊力があります。相手は愛されていることを知っていますから相手にとっては辛いNOかもしれません。ですがそれでいいのです。愛から生まれたNOは人間ドラマにはなりません。復讐劇にはならないのです。相手は愛されていることを分かっているのですから。「成功するまでは帰ってくるな」という親の愛です。愛しているからこそ出てくるNOです。

外に向かう意識

自由意志があって思考、行動をコントロールできると思い込まされている期間は、当たり前ですが自身の活動に関心が向かいます。世界と世界と相対する自身の動きに関心が向かいます。世界が変化しそれに自身がどう活動するかに関心が向かいます。意識が外に外に向かうとき、対象は大きくなっていくのです。自分自身は「内面」では???それは内側の話では???違います。この世界の中に存在する全ては外側の世界です。

内側

内側とはどこにあるのでしょうか???それは体を含めた世界という投影を映し出す「窓」意識でありその意識するらも生み出す根源です。根源から意識という窓に光が注ぎ込みそこから意識が生み出す外側の世界が現れます。その外側を生み出す構造が「内側」です。根源、真我とそこから光が意識という窓に注ぎ込む時、窓から世界が立ち現れるのです。

内側に向かった意識

内側に意識が向かっていきますと全く違う感覚が芽生えてきます。外側の世界をコントロールしようという意識が起こりません。外側の世界をなんとかしなくてはという脅迫観念が終わりを迎えます。そして根源と窓である意識にしか関心がいきません。意識がついに根源の存在を捉えるのです。根源という存在を知らなくては意識はそこに向かうことができません。ついに意識が根源を発見したのです。

根源に意識が向かった時

根源に意識が向かったとき根源は再発見されます。そうだこの感覚って小さい頃に感じてた感覚だ、という気づきが生まれます。意識は外の世界ではなくこの体でもなくアイデンティティでもなく真の自分、真我に意識が向くのです。意識がそこに向かわなくてはそれは隠れたままです。意識が根源、真我に向かった時至福が起こります。静寂です。

太陽と窓

真我

真我という太陽から光が生まれます。その光が「窓」を通過した時、、ここに光が差し込みます。これが我々が見ている「世界」です。光が窓を通過した時「意識」が生まれます。世界はこの窓「意識」から生まれていきます。ですから見える世界は全て「意識」でできています。この窓が閉じます。その時世界も意識も消えます。

この窓をしっかりと見ていきますと「網戸」が見えます。光はこの網戸の影響を強烈に受けます。この網戸が反映された世界が窓の外に広がります。この網戸こそが「固定観念」です。思い込みがそのまま世界に反映されます。世界とは「思った通り」というのはこのことです。

自分という固定観念

自分という存在が存在するという固定観念をこの世界で持ちますと、、世界に自分が誕生します。その自分とは世界とは分離した自分です。この自分を世界に生み出した時、「苦しみ」が同時にこの世界に誕生します。自分という固定観念は窓の「網戸」になりそれがそのまま世界に反映されるのです。今このメカニズムに目覚めた時自分とは網戸である固定観念が生み出したことに気づきます。

コップ

コップという固定観念を持てば世界にコップが誕生します。それまでは「コップ」は存在していませんでした。自分という固定観念を持ったとき、世界に自分は生まれます。これからもアイデンティティとしての自分は存在しますがこのメカニズムに気づいています。自分という存在から実在性が消えます。網戸に自分という固定観念を作ったから自分が世界に生み出されていることを既に知っています。

時間の嘘

あり得ない

時間の嘘を教えます。時間が存在するためには宇宙空間が必要です。そこで人類は考えました。ビッグバンが弾けて「宇宙」が誕生したと。宇宙誕生と一緒に時間が生まれたのだと。ところが、ところが、、、では「ビッグバンが弾ける」ためには既に時間がなくてはなりません。ビッグバンが弾けたからそれと同時に「時間」が誕生したという仮説を生み出すには既に「時間」がなくてはならないのです。これはパラドックスです。矛盾です。不可能です。

空間の嘘

宇宙空間はビッグバンが弾けて生まれたのだ!!!という仮説を立証するにはビッグバンが弾けるための「スペース」が既に必要になります。弾けるには「スペース」が絶対的に必要なのです。あれ???空間はビッグバンが弾けたから生まれたはずですよね???そうです。これは既に立証不能です。スペース、空間というのは絶対的にあり得ないのです。

空間がなければ

空間が存在しないということは宇宙も存在しません。宇宙が存在しないということは時間も存在しないということが分かるでしょうか??そうです。時空間というの嘘です。存在しません。100パーセント存在しません。これは映画で今映画データがここで一部流されているのです。映画の内容が変わるから「時間」という感覚が生まれます。空間という感覚が生まれます。これが悪いのではありません。ただそうなっているということです。