我々
無知な人間は記憶の奴隷です。記憶が生み出す思考、感情、活動に関心が向かっています。それを自身が生み出したと勘違いさせられています。自分すらもこの記憶がなかったら存在していないにも関わらず記憶から勝手に現れだす自分という存在で活動を行わされているのです。その全ての主体は記憶です。記憶がなかったらここは「無」です。何一つ対象を指し示すことができません。対象を指し示せることを可能にしているのは記憶なのです。その記憶によって全てが生み出されています。
その中で
記憶の奴隷としれ我々は苦しみから解放されたいと願います。いつかこの全苦しみが消えてくれることを信じて活動します。その活動が実は記憶から勝手に立ち現れているとは知らずに。このメカニズムに気づくと動きが止まります。私がなんとかしなくてはという動きが緩やかになっていくのです。私とはこの私を記憶から生み出すことを可能にした「意識」なのです。「私=意識」から記憶が起こって「自分活動」が始まっていることに気づくのです。記憶の奴隷からの解放です。記憶の奴隷から解放されるには自身が記憶の奴隷であったと気づくこと以外にはないのです。
記憶にやらせておく
レストランに行けばメニューを開き、オーダーをして食べてお金を払ってお店をでます。この全ての活動において記憶が存在しなかったら成立しません。全ては記憶が行為を無事に終わらせていきます。記憶がこの人間活動を支えているのです。こう行為が勝手に起こっています。何一つコントロールなしに勝手に起こるのです。ですから記憶が生み出すこの行為は大切です。だから両親は一生懸命子供に「名前」を教えるわけです。
しかし
しかしその過程で「嘘」も教わります。「あなた」が選びなさい、という嘘です。あなたが全て決めているのだという嘘です。本当は記憶から自分活動という動きが起こっています。これが事実です。すっかり私は騙されて全ての人間活動には主人の私が存在すると確信するのです。記憶の奴隷の完成です。記憶の奴隷としての活動がスタートします。この広い世界を生き残っていかなくてはいけない「私」の誕生です。