宿命

私という感覚を今私は感じていますか??あなたという感覚をあなたは今感じているでしょうか??その感覚が起こっているのならばその感覚は100%いつか消滅する運命にあります。目の前の木がいつか100パーセント確実に消滅します。太陽も全く同じで確実にどこかで消滅します。認識できる全ては消滅することだけが分かっています。ですから私も確実にどこかで100%消滅します。

それは困る

それは困ります、私が消えてしまっては困ります。せっかくここまで頑張ってきたのに消滅してしまうなんて骨折り損です。それが違うのです、全く違います。私という感覚は誰によって気づかれているのでしょうか???誰によって???私という感覚に気づく存在こそが本当の私です。この存在はこの現象の世界の中には絶対に存在しません。だから宇宙が消滅したって大丈夫なのです。その宇宙の創造主こそが私だからです。宇宙に創造主が存在しなかったら誰が宇宙に気づけるというのでしょうか??

超越

できるわけがない

自己超越という言葉があります。これは覚醒、悟りのことです。自己を超越する、自己を超越して全く違う存在になる????そうでしょうか???それは不可能なことです。全く新しい自分に成るためにはその存在はここにはかつて存在しなかったことになりますがそれは不可能です。神が存在しない場所は存在しないからです。つまり最初から存在しているのです。最初から存在していたが全く気づいていなかっただけです。自己超越とはすっかり忘れてしまっていた存在に気づくことだけです。

いまここ

いまこことは時間でも空間でもありません。それらの概念を生み出す存在のことです。そこから時間、空間という概念が創造されます。ですから今を時間の中で探しても無駄です、ここを空間の中で探しても無駄です。どちらもそれには当てはまりません。それはここに存在する感覚に気づく気づきです。五感が現れた時にそれに気づく存在のことです。感覚を超越したそして確実に存在する存在に気づいた時ゴールです。

対極、太極

全ては太極から生まれます。対極のルーツは太極です。ですから対極は存在し得ないわけです。存在し得ないにも関わらず存在しているように感じるのはその感じるが太極から現れたに過ぎません。善悪、優劣、正否、成否、正負、、、全ては太極から現れた幻想に過ぎません。不可能だからです。原材料は全て太極なのですから。このことに真の意味で気づいた時、この世界はただの遊びに過ぎないことにも気づきます。

私の本性

私の本性をお伝えします。孤独を感じます、なぜ孤独を感じることができるかといえば私の本性は孤独ではないからです。なぜ不幸を感じることができるかといえば私の本性が不幸ではないからです。孤独は孤独を感じることができません。不幸は不幸を感じることはできません。つまり私の本性とは孤独ではないのです、不幸でもないのです。

じゃあ

では幸福を感じることができるならば私の本性は幸福でもないのですよね???そうなります。でも確実に私は幸福を感じてきたし、私の本性は至福であると学習しました。そうです。その通りです。真の幸福とは幸福が浮かび上がったのではなく不幸が消えた瞬間のことです。一体感とは一体感が浮かび上がったのではなく孤独が消えた瞬間のことです。真のワクワクとは退屈が消えた瞬間のことです。

感情ではない

感情が存在するということは、感情に気づくことができるということは真の私は感情ではないのです。ですから愛、至福、ワンネスとは感情ではないのです。これらは感情が消えた瞬間に起こるものです。熟睡時の至福感とは至福感が出現したのではなく感情が消えた状態のことです。今不幸だから幸福を手に入れてやる、、これは間違いです。手に入れることができる幸福はフェイクです。幸福風の感情に過ぎません。真の幸福とは不幸という感覚が消えた瞬間でしかないのです。

出現したもの

出現したものは全て本当の私(至福、愛)ではありません。出現したと気づかれているのですから全てそれは幻影の方です。投影の方です。そこには至福、愛はありません。対象に向けての愛は愛風の高揚感に過ぎないのです。期待感です。その期待感が消えた時その対象への関心も消えます。あれだけ愛していたのにそれが消えた時、対象に向けての愛に疑いが生まれます。もうその手には乗らない何かが生まれます。ですからその経験は貴重です。

懺悔

楽になる

何かをやらかしてしまった時、二種類の行動があります。徹底的に逃げる、もしくは懺悔するかです。徹底的に逃げる人間の行動理由は何でしょうか???それはその行動の主体を自分自身と思い込んでいる場合です。ペインボディ、エゴの行動を自分がやったと確信する人は逃げます。なぜならばその罪を認めることは自分自身を否定することだからです。ですから逃げます。自分を否定されてしまったら自分が消えてしまいます。そこのその人間は相手の前から逃避して相手の中の「自分」を消すのです。

懺悔

罪をしっかりと認め懺悔できる人間はその罪の主体が自分ではないことをしっかりと知っている人間です。その行動の主体は「自分」ではなく偽りの自分が勝手のやったことだと自覚している人間です。その行動には一切の自由意志はなく起こるがままに起こるということを自覚しているのです。だから相手にしっかりと懺悔できます。懺悔したところで何も失うものはないのです。ある意味でとんでもなく都合の良い考えです。ですが事実です。事実とはとんでもなくお気楽なのです。

さっさと自覚してしまう

つまりこういうことです。罪の主体を自分自身と確信している期間は逃亡犯のように逃げ回ります。常に常に怯えます。罪の主体は自分にはないことを自覚すると平気に懺悔できお気楽人生がスタートします。そしてこの自覚は相手への誹謗中傷を止めます。全自動の活動を感情的に揶揄することは不可能です。自分を完璧に許せる人間は相手のことも完璧に許せるのです。逃亡犯は自身の罪に怯え、相手の罪にも怯えるのです。

紙一重

ペインボディか否か

自分自身はペインボディを自分と思っています。この悪魔のような性格、この悪魔のような活動を自分自身と思っているわけです。だからこの悪魔を手放すわけにはいない、だってそれを手放してしまったら自分が自分ではなくなってしまうからです。ですが本当はこれはペインボディであって自分ではないのです。自分とはこの悪魔の存在に気づく存在です。性悪な性格に気づく存在こそが本当の自分です。

自分ではなかった

私って本当性格悪いんですよ、私って本当えぐい自分いるんです。違います、全く違います。私とはその性悪さに気づく存在です。悪魔の様な思考に気づく存在こそが自分です。気づきです。気づきだけが実在です。悪魔のような思考、感情、行動はその気づきに気づかれる幻想です。実在ではなく虚像です。そのことに気付いてください、そのことに気付いた時、、、、なんだ性悪な自分はただの幻だったと気づくのです。性悪な自分に気づいたとき、気づきとしてそれに気づいた時、、、何も問題など最初からなかったと気づきます。

ストップ

悟らせない動き

この世界は全て全自動です。このようなメッセージに触れても理解させない動きが起こります。嫌悪感、拒絶感です。その時はメッセージに触れるを辞めてください。代わりに部屋を断捨離したりヨガをしたりとペインボディを小さくする活動をします。ペインボディが確実に小さくなるような活動に専念します。すると悟りへの関心が強まりメッセージに触れたくなる動きが起こります。

この体

この体は経験を起こす道具ですから体がズタボロでは経験を積めません。この体でしかできない経験を散々やらされて目覚めに移行します。ですから体を無視してはいけません。体をこの世界でいかに使いこなすかも経験に含まれている可能性があります。空間をいかに使いこなすかも経験に含まれている可能性があります。ですからメッセージに触れるのに疲れた時は真逆にベクトルを向けて体を浄化、空間を浄化します。体が浄化されることで空間が浄化されることでできる経験が起こります。

それすらも全自動

ですが結論を言ってしまえばそれすらも全自動です。それすらも完全完璧な全自動です。だから何も心配しなくて大丈夫です。今このメッセージに触れてどんなアクションが起こっても問題ありません。問題は100%存在しないのです。問題とは自由意志の世界にしか存在しません。全自動の世界に問題は起こりようがないのです。だから安心してください。何も問題がない中で体の浄化、空間の浄化に関心が向いた時スムーズな流れができまうす。

今ここでペインボディを殺す

物を捨てる

朝寝覚めるとペインボディも目覚めます。ペインボディが活性化の機会を伺います。どうしたら食い止めれるか???モノを捨てるのです。部屋の中からモノを捨てます。収納に収まらないモノを全て全て消去してしまいます。モノが消えていきますとペインボディが静かになるのが分かります。実は片付いていないモノを見るたびに何かが起こっています。そのことでペインボディはペインボディ活動を維持します。

片付けたいのに片付けれない、まさにペインボディ

ペインボディとは片付けたいにも関わらず片付けれない部屋とよく似てます。綺麗にしたいにも関わらず綺麗にできない部屋と全くもって似ています。本当は存在してほしくないのです、ですがそれを殺すことができません。ですからここでペインボディの殺し方を教えます。モノを整理するのではありません、捨てるのです。モノを何一つテーブルの上に置かないのです。収納できないものは全て捨てます。これがペインボディの殺し方です。ペインボディの栄養供給源は片付いていないモノです。

そうか、俺自分を証明したかったんだ

隣の山田さん

我々は常に常に周囲と自分を比較します。隣の山田さんがこの車なら俺はこの車だろう。隣の山田さんが子供を塾に通わせるなら俺も子供を塾に通わせよう。隣の山田さんが海外旅行に年に二回行くなら俺も二回は行けるはずだ、、、全て実はこうなっています。周囲と比較して自分を証明するのです。これをやっています。なぜ????なぜそれをやる必要があるのか???それは自由意志の優秀さを証明したいからです。

ヒーローインタビュー

インタビュアーは本日のMVPに尋ねます。勝てた要因は何だと思いますか???「トレーニング方法を変えて挑んでみました。今回は筋力強化に力を注いだのでそれが良かったみたいです」これ何の意味があるか分かりますか???勝者がどういう気持ちでどういう思考でどういう感情で勝ったかをみんなが聞きたいからです。勝者には絶対に勝者たるメンタルがあるはずだ!!という期待からこの質問が起こりそれに回答が起こるのです。ですが全てが全自動です。

世界が変わる

神の視点で世界を眺めますと世界が変わります。世界から重い重いモヤが消えます。もうコントロールしなくてはいけない誰かは存在しないのです。失敗者も成功者も実は存在しません。なぜならば全自動だからです。失敗者と呼ばれる結果を背負わされ、成功者と呼ばれる結果を背負わされた景色が起こっているだけです。そしてその認識すらも自動で起こっています。

大安心な世界

今ここで何もしていないにも関わらず大安心の世界が現れます。何もしていないのです。いや違います。何もしていないことに気づく時、、世界が大安心な世界に変わるのです。誰も何もしていなかったという大どんでん返しです。コンチキショーレベルの大落ちです。洒落にならないレベルの嘘を教わってきたのです。参った、、勘弁してくれ、、と気づき全くそれに気づいていない他人とのコミュニケーションが始まります。

宇宙の摂理

あり得ない

この体を小宇宙と捉えると、心臓の動き、血液の流れ、細胞分裂、爪の伸び、髪の毛の発育、、全てが全自動です。その中で呼吸を自分の意思でコントロールしているという感覚こそは生まれますがその感覚こそが全自動で起こります。全て全自動です。そこに突然宇宙の摂理とは反して自由意志という完全分離構造が生まれてしまったらこの宇宙はその瞬間に崩壊します。

何もやっていない

ですが自由意志という感覚は100パーセント存在します。存在しなくてはなりません。なぜならばそれも含めて無限の活動だからです。自由意志がないという完全自覚の中での動き、自由意志があるという感覚の中での動きも含めて無限なのです。だからこの感覚はあっていいのです。ですが100パーセント存在しません。全て自動で完璧に動きが存在します。ケチをつけることが全く不可能な動きが起こり続けます。このことに気づいた瞬間何かが変わります。

見なくていい

全てが全自動であるという気づきが起こりますと自分と称する存在の中から現れる思考、行動、感情に無執着な感覚が生まれます。見なくていいのです。見なくていいのですが完全に見えています。他人と称する存在の中で生まれる思考、感情、行動も全て見えます。見なくていいからこそ全て見えます。プロのサッカー選手がアマチュア選手の動きを完全に見切ることと同じです。

悟る

悟とは自分と称する存在からの動き、他人と称する存在からの動きを完全に俯瞰して見えることです。見なくていいのです。見る必要がないのです。コントロールしなくてはという重責が完全に抜け落ちた状態で完全に見切った活動が起こるのです。いや活動でもありません。ただ見切るが起こり続けるだけです。プロのサッカー選手は全選手の動きを見切った状態でただ淡々とプレイします。魔法にかかったようにアマチュア選手が抜かれていきます。そして軽々ゴールを決めるのです。他人はその動きを見て「神」だと言います。違います。ただ淡々と動きを見ているのです。

守る必要もない

しっかりコントロールして自分も守らなくてはならないという発想は嘘だったんです。勝手に自動で思考が動き、感情が動き、行動が起こってこの体は守られていたのです。ですからこれからもそれが起こります。自由意志という感覚の中でそれが起こります。ですが本当は全て自動運転です。だから放っておいて大丈夫です。と同時に変な期待も消え失せます。頑張ればこれが叶うかも、、という期待が薄れていきます。頑張るという行為も自動運転の中に含まれているかもしれないし、いないかもしれないからです。

嫉妬

他人への嫉妬妬みも消えていきます。なぜならば自動運転だからです。自動運転で上手くいっているように見える人も現れ上手くいっていないように見える人も現れます。だから放っておけばいいのです。神の視点が起こった時、この場所がリーラと呼ばれる所以が腹落ちします。千人千様の動き、100人100様の動きがここに現れます。そのことに感動します。

認めて欲しいから

神の視点が手に入った時、高級車、高級住宅、お洒落な服装、見栄えの良いパートナー、どれもが周囲から認めて欲しくて欲していたことに気づきます。あれ???俺なんでこんなもの求めていたんだろうか??そうかこれで周囲に俺って凄いと認めてもらいたかったんだ、、です。これだけ手に入れれる俺は堅実に自由意志を使い倒したと認めてもらいたかったのです。でもそれが解放されます。自由意志など100パーセント存在しないのですから。全てはただの偶然です。

仕事は稼がなくてはならない

手放す日が来る

絶対に仕事は稼がなくてはならないのだ、、そして見事にこれを達成します。そしてその事業を子供に譲ります。すると可愛い可愛い子供は全く稼げずに倒産します。「稼がなくてはいけない」という確信こそがそれを手放さざるような現象を生み出すのです。愛する子供が稼げないことで「稼がなくてはいけないのだ」という確信が消え失せます。子供を稼げなくしたのは「稼がなくてはならない」という確信です。

全く仕事ができない従業員

稼がなくてはならないという確信を持てば、、、、雇った部下が全く稼げないという状況を生み出したりします。人柄は良いのに、、全く稼いでくれない、、、しかも今更首にもできない。。。耐えに耐えます。どうしよう、、、参った、、、、、困る、、、、、そしてどこかで「もういいや」「どうでもいいや」が起こるのです。ついにこの確信は木っ端微塵に砕けて消えました。現れた確信は消え去る運命にあるのでこのような現象が起こったのです。