映画の登場人物がスクリーンの話をする??

しない

映画好きな人でなくても分かりますね???映画の上映中に主人公がスクリーンの話をしますか???ネットフリックスドラマの主人公がネットフリックスTV画面の話をしますか???しないですよね???あり得ないことです。ですがスクリーンの存在がなかったらその映画自体が上映できません。映画は完全にスクリーンに依存しています。スクリーンは映画には依存しません。上映していなくても存在します。

今まさに

このブログはまさにあり得ない話をしています。話してはいけない話をしています。映画の中で登場人物がスクリーンの話をしてはいけないようにそんな話は台本には基本ないのです。この人間ドラマという映画ではこのスクリーンの話がどこかで起こります。起こらなくてはならないのです。なぜならばその話が起こらなくてはこの映画に終わりがないからです。だから起こるのです。それでいいのです。周囲にこの話をしても誰も関心を持たないでしょう。そのようなレアな話です。

気づきは年齢を重ねない

だから

あなたは年齢を日々感じているでしょうか??勿論、お腹が出て、白髪が増えて、シワが増えて、、という認識からくる老化は感じるかもしれませんが、、今この状態において目を閉じて「老化」を感じるでしょうか??感じませんね。今ここという感覚には老化はないのです。なぜならば「気づき」という我々の本質は年齢を重ねないからです。時間を超えた場所に存在する「気づき」がどうやって老化するのでしょうか??不可能です。

気づきに時間はない

過去の気づき

昨日はかなり疲れた、今日はまずまず、先週は究極に疲れていた、、、そのことに気づく存在が存在します。その気づきには「レベル」はありますか???ありませんね。ないんです、気づきにレベルは存在しません。つまり気づきという存在は不変です。何も変わらずに「気づき」です。つまり「気づき」は全くもって時間に左右されないのです。気づきは時間を超えています。時間の影響を受けていません。もっと正確に言いましょう、時間こそが気づきから生まれているのです、幻想として。

時間を超えた存在

つまり我々の本質である「気づき」は時間を超えています。時間を超越しています。時間の影響を全く受けない気づきが時間と同じ次元に存在するわけがありません。つまり我々の本質は時間を超えた場所に存在するのです。そこからあらゆる現象、五感、思考、感情が起こりそれが時間を超えて気づかれるのです。だから我々はこの時間の中で繰り広げらえるあらゆる現象から影響を受けていないのです。全くの無傷です。そのことにしっかりと気づいてください。

神がマリオでなかったと気づく

マリオではない

ゲーム中に気づきます。あれ俺ってマリオなくて神だ、、、マリオが神だと気づくのではありません。マリオは存在しないのですから、、神がマリオではなく自身の存在に気づくのです。ゲームに中には神は見えませんから見えるマリオを自身と勘違いしていたのです。ですが自身をマリオだと勘違いしているのは苦しいのです。分離感全開、孤独感全開、不足感全開ですから。あまりにそれが苦し過ぎて、、ある時気づくのです。俺って本当にマリオか???と。

神には神だけは見えないのです。そこで確実に見える「マリオ」を私と勘違います。確実に存在する「在る」という感覚の所有者はこのマリオである「私」なのだと勘違います。「生きている」という疑いようもないこの感覚の所有者こそが実際に見えるこの体「マリオ」から発しているのだという勘違いです。それが違うのです。この生きているという感覚は全現象から起こっています。全現象=生きているという感覚です。

生きているという感覚の中に「私」

偽りの私、マリオは「生きている」という感覚の中にこそ生まれるのです。だから逆です、真逆です。マリオが生きている感覚を持っているのではなく「生きている」という感覚の中にマリオが現れています。この大逆転こそが悟りです。目覚めです。景色そのものが生きているという感覚の中に現れているのです。意識の中に景色が立ち現れて消えていきます。

ショック

出来事

ショッキングな出来事が起こった時、コップの中の水は激しく動きます。あれをしなくては、これをしなくては、なぜ私にこんな出来事が、、あの時のあの発言が理由か??そういえばあいつあんなこと言ってたっけ???などなど激しく激しく水が動きます。この時半端なくエネルギーを消耗します。ですが気づいてください。その思考の気づきには全くエネルギーを使いません。思考が起こり思考に気づくという一連の動きには「エネルギー」は不要なのです。なぜか???なぜならば気づきとは「動き」ではないからです。気づきとは動きではなく思考そのものに含まれているからです。もっと分かりやすく言いましょう。気づきが「思考」になったのです。思考とは「気づき」なのです。

現象とは気づき

思考が起こり思考が気づかれます。気づきが思考になって現象化するのですから気づきにエネルギーは不要なのです。ですが思考が激しく起こることこれによるエネルギー消耗は起こります。結果疲れてきます。疲れているということの気づきにはエネルギーは不要です。私たちはこのことに無自覚です。現象の気づきには全く疲れないということに無自覚です。

現象は気づきに収まっていく

どんな現象が起ころうともその全ては気づきに回収されていきます。全五感、全思考、全感情は気づきというスクリーンに収まっていくのです。気づきは現象界での疲れに一切影響を受けません。ただ現象は現れて消えていきます。その大元が「気づき」という我々の本質です。本当の私、気づきは現象によって疲れることはありません。疲れとは「気づき」に気づいかず現象の中の私を信じた時に起こるのです。この偽りの私が激しく思考し、感情し、行動していると勘違いした時のみ疲れが起こります。

至福の波現象

我々の本体「水」は気づきであり至福です。ですから何も現象が起こっていない時至福でしかありません。いかに波が激しくうねり五感全開、思考全開、感情全開であっても、、全ては至福のうねりでしかないと気づいた時、唖然とします。苦しみの思考の正体は至福という水です。五感を所有する私という分離感全開の思考の正体は至福という水です。その思考は波です。至福という原料でできた波の正体を見抜いた時、何も得るものは無かったという気づきに至ります。

水の動きは疲弊するが気づきには疲弊が起こらない

コップの水

コップの水が激しく動く時、、思考、感情、五感の動きが激しい状態です。この時エネルギーが消耗されて疲弊します。ですがそのことに気づくことにはエネルギーは使用されません。思考に気づく、感情に気づく、五感に気づくには何一つエネルギーが消耗しないのです。なぜ????なぜならば波の動きそのものが「気づき」だからです。だから気づきにはエネルギーが不要なのです。

悟る

悟りとはこのことに気づくことです。気づきである水自体が動き、、気づかれているのだという気づきは何も問題は起こらないことを教えてくれます。全て「私という水」の中の動きに過ぎず、何を不安に思う必要があるのでしょうか??不安という心の動きすらも水の動きに過ぎないのです。そして私である水はどこにも行けるわけもなく逃げも隠れもできないのです。ただ水の動きが波として起こるのみです。

経済危機

経済危機のニュースが飛び込みます。その認識こそが水の動きです。水の動きでないのならば経済危機は認識されません。経済危機という認識が起こったということはその水の動きが起こり気づかれたのです。そのことが腹の底から分かった時、、私(水)を損なうことは不可能であるという自覚が生まれます。そして思考という波は波自体が起こすこともまた不可能です。なた波は根源の自ら生じるのみです。何を思考しようともそれを起こす存在が全体でしかなく、、、そこにはコントロールがありません。

激しい水の動き

疲弊

疲弊とはコップに入った水の動きが激しい状態です。思考という波が激しく動きます。なぜ激しいのか??それは水の動きこそを自分と勘違いするからです。だから水の動きでこの問題を解消しようと動くのです。五感という水の動きの主体が私という水の動きであり、結果この水の動きが激化して問題を解消しようと動くのです。ですが一歩引いてみればコップの水はそのまま水そのものであって激しく動こうとも何も変わらずに水なのです。根本的解決とはそのことに気づくことです。

株価暴落

ですが株価は暴落し明日の生活も心配な状態でそのことが何の足しになるのでしょうか??株価暴落という認識が波として起こり、将来危惧という思考の波が起こったのです。真実では何も起こりようがないのです。起こるとしたらどこで起こるのですか???コップの水はただ動きとしてそれらの錯覚を生み出しますがそれも波でしかないのです。株価暴落、経済危機が水とは別に起こることは不可能であり、その認識のみが水の動きとして波として起こったのです。水はそのまま水のままでありそれに気づけばそれで終わりです。

電気代も払えない

ですが手元のお金が底をつき電気代が払えない状態でもそんなことが言えるのでしょうか???電気代が払えない、という認識が起こり、暗いという認識が起こるのです。何も水は変わっていません。そのことに気づいた時、思考という波が勝手にこの体を維持するために動くのです。ですがもうその時には私は何も失うことはないことが分かっています。たとえこの体が滅ぶことがあっても水そのものが変わることはなく体が滅びるという認識が起こるだけです。

コップの水

それが私

コップに水が入っています。これが本来の私です。そのコップを横に揺さぶってください。表面に波ができます。これが偽りの私です。偽りの私とは波に過ぎないのですが確実に知覚されることでそれにリアリティが感じられるのです。その水をさらにさらに揺さぶればあらゆる思考が湧いてきます。さらにそれは五感でもあります。思考という波、感情という波、五感という波が起こり続けるのが人生です。

気づく

どんな思考、感情、五感が現れたって全部波に過ぎないですよね??その通りです。まさにです。それって水が形状を変えたに過ぎず水はそのままに水です。何一つ変わらず水です。どこに行けません、時間も100%存在しないのは水は水です。形態以外が何も変わっていません。何一つ変わっていないのに時間や空間はどこにあるのですか???ないです。水がただ「在る」のみです。

気づく努力

ない

美味しいラーメンを食べます。「美味い!!」この感覚はこの感覚に気づく存在が存在しなければ成り立ちません。美味しいという感覚が起こってもこの感覚が気づかれなかったら絶対にこの感覚は存在できません。私とはこの気づきです。気づきが「美味い!!」に気づくために何か努力は必要でしょうか???全く必要ありません。「不味い!!!」この感覚に気づくにも当然努力は必要ありません。我々は気づくために一切の努力を必要としないのです。だから我々は気づきなのです。そして経験は気づきの中に立ち現れる現象に過ぎないのです。

雲の認識に努力は要らない

空は雲を認識するのに一切の努力を必要としません。雲は雲として立ち現れて勝手に消えます。空はただ空として雲に気づくのです。雲がどれほど荒れていようとも空は何一つ形状を変えることなくここにあります。空が存在するために雲は何も関係ありません。雲は空が無かったら存在を認識されません。雲は雲として存在するために空に依存しています。我々はこの空です。雲を一切必要としない空です。空とは気づきのことです。雲とは五感及び思考、感情という経験のことです。どんな経験がここで起ころうとも空は微塵もダメージを受けません。そのことに気づいてください。ダメージを受けたという思考が起こりその思考が経験されてきたに過ぎないのです。

不幸なとき

不幸な時、我々は不幸という雲を認識したくないから新しい雲を探して求めて味わって不幸を誤魔化します。新しい雲で誤魔化すのです。ですがそれは全くの誤魔化し、ハッタリ、皮算用です。我々は空であって雲ではないのです。空は最初から至福であって雲が至福に誘うのではありません。我々は雲じゃなくて空だと気づいた瞬間に不幸という雲にも気にならなくなります。雲は雲でしかなく空には影響を与えれないのですから。与えていないと信じるのではなく構造上何も影響できないのです。

家族は大切にすべきだよね

固定観念

このような固定観念を持っていますと、、家族なんてどうでもいいと思えてしまうような事件が連発します。奥さんの裏切り、子供の非行、子供の不登校、一家離散、、、こうして「家族なんてどうでもいい」が起こるのです。「家族は大切にすべきだよね」って素敵な固定観念ですが「すべき」が入った瞬間にそれは宇宙には決して存在しない「ルール」となりその瞬間、、消える運命になります。

上司は大切にすべき

こんなルールを持っていればとんでもない上司に遭遇し続け、、上司なんてどうでもいい、、が起こるのです。部下は大切にすべきというルールを持てば、、、とんでもない部下に遭遇し続け木っ端微塵に砕かれます。同期は大切にすべきだよね、、が起こればとんでもない裏切りにあい同期なんてどうでもいい、、、が起こるのです。「すべき」なんてことは何もないのです。ただ自分自身で「すべき」を豪華絢爛に作り上げそのことで苦労のゴングが鳴るのです。