時間と空間の嘘

100%存在しない

時間と空間は100%、100%存在しません。存在しないにも関わらず我々は日々時間と空間を100%感じて生きています。どうやって???どうやって感じるのでしょうか???簡単です、これは映画なのです。映画を見ているのです。だから時間と空間を100%感じることができるのです。映画ということはどこかにフィルム、データがあるはずです。そうです。既にこの映画はデータとして存在するのです。既に存在しているからこそこの映画は今まさに上映されているのです。

無限のデータ

その映画のデータは無限です。無限にデータが存在します。そしてその一部が今ここで上映されています。だから時間も空間も存在しているように感じます。ですがそれは感じることができるだけで存在はしません。100パーセント存在しないのです。在るのはデータだけです。データ上では全てが既に決まっていてそれが流されています。無限のデータの一部が今ここで流れているのです。

何のため???

ではそれは何のためでしょうか??なぜこの映画が上映されている必要があるのですか??なぜですか??この映画が存在しなければ「無限」は「無限」であるという自覚を作り出せないからです。無限が無限という自覚を生み出すには「有限」という経験を積まなくては「無限だ」という経験を作ることができないからです。そのためにこの映画が必要なのです。だからこの映画が無くなることはないのです。

真の安心感

何もしなくていい

真実に目覚めた時何もしなくていいことが分かります。何もしなくていい???電気代を払い、ゴミ出し、排泄、掃除、、、誰がやるんですか????それは勝手に起こります。必要になれば勝手にやります。だから何もしなくていいのです。尿意が起こればトイレに行きますね。全く同じです。この体の面倒は体に任せておけばいいのです。

他人

他人も実は自由意志など全くなく勝手に勝手に行動が起こっています。自由意志がないのですから他人の行動を判断するのは無意味なことです。判断は必要ないのです。ただ勝手に行動が起こっています。自然現象と同じです。そこには自由意志は存在しないのですから。このことが分かってきますと真の安心感に包まれます。本当に何もしなくていいのです。何もせずに生まれてきて何かをしているという勘違いが勝手に起こり、それが勘違いだったと気づき、何もしない生活に戻るのです。

改善した方が良いこと

他人

他人の課題とは自分の課題です。他人に対してこうしたらいいのにという思いが湧く時、それは自分自身がやったほうが良いことです。鏡として自身の課題を他人が映し出してくれているのです。ですから大変有り難い存在です。他人という形状を通じて自身の課題が見えるのです。

自由意志を手放すと起こること

防御反応

なぜ言い訳を言うのか???それはそれをやった本人が自由意思でやったと信じているからです。ですから言い訳を言って自分を守ろうとするのです。言い訳とは「自分」守ろうとする動きです。ですが実際には自由意志はないのです。ですから守るべき「自分」など存在しません。自由意志を手放していきますと守るべき自分など存在しないことに気づきなぜか楽になっていくのです。

ですから

真実に触れていきますと力が抜けていきます。感情を爆発させても全くそこに疲弊がありません。なぜならば守るべき自分が存在しないからです。何をしても大丈夫です。何も責任を取れませんから。責任をとることなど構造上不可能なのです。そういう意味では人生とは超お気楽なものなのです。ですが同時に人生を超重く捉える自由があります。自由意志ではなく全てを経験することができます。ですがそれも勝手にやらされるのです。

成功

人が成功にこだわるのは「自由意志」があると本気で信じているからです。自由意志を失敗して成功から離れ自由意志に成功して成功を成就すると本気で信じています。だから苦しいのです。コントロール不能な暴れ馬をコントロールできると勘違いしているのですから。たまたま右にハンドルを切った時に車が左に動いたことで自由意志が成功したと勘違いし、左にハンドルを切った時に車が右に進めば失敗と捉えます。これが苦しみです。本当の至福とはコントロールという呪縛から解放されることです。

固定観念という自己防衛

お金を稼がなくては

これ自らを守るための固定観念です。この体を守るためには「お金を稼がなくては」そのためには多少の我慢はやらなくては、、、です。こうやって自身を守っているのです。ですが本当は我々は非物質の存在です。守らなくてはならないこの体はアバターです。ですから何を無理してこの体を守る必要があるのか???ましてや世間体のために我慢しなくては???意味不明です。結婚するために我慢して何かをする???勘弁してください、という話です。

ですが

実際にはそうなっています。現代人はあらゆる固定観念で自己防衛を図るのです。この固定観念はもう何を所有しているかさえ分かっていません。私にはこういう固定観念があるという自覚すらもないのです。だから私はヨガを勧めたりします。ヨガは体の凝りとなった固定観念を直接壊してしまえるのです。体からダイレクトに固定観念を消去します。固定観念も結局はエネルギーですからその固定観念自体を直接体から抜き取ってしまうのです。

体のブロック

世界のブロック

世界のブロックと体のブロックは双対関係にあります。世界が体にブロックを生み出し、体のブロックを外すと世界のブロックも外れます。世界とはこういうものだ、、、という世界は体のブロックを外すと同時に外れます。あんなに重闇い世界でも体のブロックが外れると世界も軽く見えます。お酒を飲めば分かりますが、、何杯か飲めば世界が愉快に感じれます。体と世界は一対であって、、ブロックは呼応しています。

ヨガ

ヨガは体のブロックを外していくことで世界そのものを変えてしまうメソッドです。体の硬直を剥がすことで世界の硬直を剥がしていきます。このことにコツを掴めますと面白くなっていきます。何もしていないのにヨガをやる度に世界が変わっていくのです。世界は生き物のように動きます。ヨガをすると世界の責任はこちらにあることを掴めます。固定化した世界など存在せず、、体のブロックを外すことで世界を変えるのです。固定観念が体内に埋め込まれていてこれを壊すことで世界が変わります。世界の見え方が変わるということは世界自体が変わるということです。

固定観念

頭が固い、、という表現があります。これは考え方が固いという意味です。考え方の硬さは頭が固いイメージとして写ります。そして実際に頭が固いのです。頭蓋骨が硬直しています。頭が不純なエネルギーでいっぱいです。これをヨガで解消していきます。首回りの筋肉の凝りを剥がしていきます。すると思考が緩み固定観念が緩み世界が緩んでいきます。固定観念が緩むということは同時に世界が緩むということです。世界が緩みますと対象への執着が消えますからあるがままの状態にシフトします。真我として世界に気づく状態に入れます。

関心

どこに向いているかの自覚

多くの方は自分の関心がどこに向いているのかに無自覚です。例えば役者を目指す若者が実家でお小遣いをもらいながら結果を出すことは可能でしょうか???本人は一生懸命演技の学校に行ったり劇団員の募集をみたり参加していても、、本当の関心は「実家に居続けてお小遣いを貰えるか」に関心が行きます。役者で食べれるか否かは二の次です。その時意識は「役者で食べる」に向いていないのでそこが広がりません。

意識

意識は無かった先が広がるようになっています。全ては意識で出来ていますから向いた先が広がるのです。「何で食べて行きたいか」が決まっているのならばそれを第一の関心にしてしまえばそれで終わりです。ですが多くの場合「食べれるようになったら」実家を出ようという作戦を立てます。ですがこれは上手く行きません。関心の矛先が「実家に居続けること」に向かうからです。すると実家に居続ける世界が広がっていき、、役者で食べれる必要がなくなっていくのです。

世界

世界とは関心のことです。意識が向う先が広がって世界になります。世界という固定した何かは実は存在しません。世界とは関心が向う先が広がって世界になるのです。完全な軟体動物です。変幻自在のトリックスターです。意識のことを実は我々は分かっていないのです。意識が世界を生み出すのです。世界に意識が向くのではないのです。意識が向かった先で意識が世界と為すのです。意識=世界であり世界=意識です。そして真我とは意識を生み出す大元です。

家族

全てが重要

全てが同価値なら、、、家族と他人も同じように同価値ですか????そうです。実感としてそうなります。そこには価値の比較がないのです。ですが一番近くにいる他人としてただそのままに大切にできるのです。全てが同価値で素晴らしいのです。ですが一番近くに存在する素晴らしい存在が家族です。だから家族を無碍にする家族を無視する家族を軽く扱う、、という意味では全くないのです。

差別

差別は良くない、差別は許してはいけない、、このようなスローガンをいくら唱えてもそれが思考であるならば無駄です。頭で考えて差別は良くないと叫ぶのはしっかりと比較が最初にあって、、その解釈を否定しているに過ぎないのです。その最初の比較が消えない限り差別は消えません。比較が起こるという現象自体が消えなくては無駄です。差別がなくなるの思考で行うのではないのです。差別は消えてしまうのです。

長男は可愛い

農家全盛時代は長男が家業を継ぐから「可愛い」とされました。次男、次女はいつかは家を離れていくのだから価値は長男とは違うとされてきました。これが思考の比較です。思考からくる「可愛い」です。長男は可愛いというのは思考が生み出す「可愛い」です。本来は長男、次男、次女に区別はないのです。重要度はないのです。

重要

重要じゃない

これって重要だよね、という経験を積みますと、、それに引き換えこれは重要じゃないという経験を積むことになります。この授業は重要だよね、という経験を経験しますとこれは重要ではないという授業が発生します。重要というのはある特定の結果に対して「重要、重要じゃない」が起こるのです。この二極の世界に存在する限り常に重要、重要じゃないという経験をさせられます。成功、成功じゃない、、の世界です。

太極

本来この世界に重要なもの、と重要ではないもの、、という区別は存在しません。しれは全て思考が生み出すのです。思考がなかったら、記憶がなかったら、、そのような違いは生み出せないのですから。つまり重要と重要ではないというのは思考の中の存在ということになります。太極の視点に立ちますと全てはどう勝ちであることが「思考」ではないところで分かってきます。思考で同価値と言っているには同価値ではなく同価値という解釈のことです。違います。同価値とは感じてしまうものです。

真の重要なこと

真の重要なことというのは思考が生み出す「重要」の先にあるものではありません。思考の先にある重要ではなく思考を超えた存在としての「重要」です。その重要とは比較の中での重要ではなく「重要な存在」しか存在しなかったという気づきから生まれます。全ての現象はたった一つの存在「真我」から生み出される現れに過ぎないということです。大自然に重要な植物と重要ではない植物が存在しないように太極では比較は思考の中での出来事に過ぎないのです。

モテる

モテない

モテるという経験を積みたいとき、モテないという経験も同時に経験させられます。モテないという経験が発生しなかったら「俺ってモテるよね」という体験を味わうことは不可能です。だから経験はセットです。稼ぐと稼げない、賞賛されると非難される、、全てはセットで起こるのです。だからそれがダメだということではありません。そうなっていることを受け入れる時「モテたい」という欲求が減ります、稼ぎたいという欲求が減ります。賞賛されたいという欲求が減るのです。

経験じゃない

真の幸福は経験の先にあるのではなく、、経験とは何か???に気づくことにあります。経験とは何かが分かっていないから「特定の経験」を追い求めていくのです。東京に行けば「稼げる」「モテる」「成功できる」という経験ができるに違いない、、と追い求めます。ですが経験はセットですからどちらもしっかりと経験させられるのです。そのことがハッキリと分かった時、経験ではなく経験の奥にある存在に関心が向きます。その経験を生み出す土台の存在に関心がいくのです。経験では真の幸福に至れないことを痛感した時、経験を生み出す真我という存在に意識が行くのです。

真我

二極、二対の経験を生み出すこの仕組みは何でしょうか??それが真我という存在です。この真我の中で我々は思った通りの経験をさせられています。稼ぎたいと強く願えば、稼げないも起こり、安定したいと強く願えば安定しないも同時に経験させられるのです。安定したいを手放した時、安定しないも同時に消えてなくなります。この仕組みの大元こそが真我です。真我は全経験を回収していきます。我々が経験の主体なのではなく経験そのものの創造主であることに気づいた時真の安らぎに包まれます。