意識=大きさがない

どこからでも

悟りとはどこからでも導けます、なぜならば真実は一つであり、、どこから登っても「真実」という山頂にたどり着くからです。それを意識から導きます。空から色が生まれる時、、「意識」が生まれます。気づくが生まれます。全ての現象は完全に気づかれます。つまり今私(意識)が気づいている現象以外は何も起こっていません。これが真実です。私(意識)に気づかれない現象はないのです。つまり今私(意識)が見てる世界(現象)が今の全部です。

どうなると

そうなると、、、、世界=意識(気づき)です。気づき(意識)以外は何も起こっておらず、、それだけです。では気づきに大きさはあるのでしょうか????ないです。つまり、、、この世界は無です。気づきしかないのですから。現象は確実にあるが、、、その現象な全て気づかれ、、それが全てです。その現象とは気づきであり、、、気づきに大きさがないようにこの世界は「無」なのです。

視界

我々は形がある世界に生きているように「感じて」いますが、、、嘘です。。気づいた「現象」しかない世界に生きています。何かに気づく時、、、、「この体が」気づくと勘違いしていますが、、、体などありません。。。だって視界に気づく時、、その視界しか出現していないからです。その時体は存在していないのです。なぜならば体に気づいていないので。

TV

TVに夢中になっている時、、、その映像だけが存在します。気づかれた映像のみが全てです。。。もしも体を感じながら。。TVを見るならば、、、その感じと映像が全てです。それ以外はどこにあるんでしょうか???ないです。現象化していないんです。つまり一般の方は大勘違いしています。この体を残したままTVの映像があると思っていますが画像に夢中になっている時、、、体はないんです。存在が消えます。

気づきのみ

毎瞬毎瞬気づきのみが起こり、、その気づき以外が存在しません。世界は=気づきです。気づきに大きさがないので真実は「気づき」であり、、、無なんです。この辺りが実感として分かってきますと全く違った何かが生まれます。色即是空、空即是色とは。。。まさに真理であり、、それ以外はありません。色即是空が起こる時、毎瞬、、、気づかれます。色即是空は全て気づかれるのです。だからそれしかない。。色即是空、空即是色のみ。そしてそれは「気づき」です。

化物

簡単だからこそ

トラブルが起こる時、家族間、会社間、クライアント、友人、、、、どのようなトラブルが起ころうと奥にニヤッと笑う何かを感じませんか????ドラマを見れば簡単ですよね???????主人公がとんでもないトラブルに巻き込まれる時、、、ニヤっとする何かが居ますよね。。。ペインボディです。自分の不幸、人の不幸にニヤッと笑う何かを感じたらペインボディと見抜いてください。不幸依存症、、なぜ????エゴをここに閉じ込めておきたいエネルギー体です。

最高に幸せなはずが

優秀なエゴは、、取引をうまくやり遂げ、、、全く働かなくていい、快適な生活を手に入れます。ところがペインボディが黙っていない、、不幸依存症、、、ネガティブエネルギー体は、、、イライラ、退屈、孤独とおう感情を操って、、エゴに思考させます。。これで人生は終わりか????このままで私の人生終わっちゃうの????です。

不可能

ささやかな幸せで私十分なんです。。ダメなんです、無理なんです、、それが難しいんです。なぜ????本当の私はこの私じゃないから、、、本当の私をこの体に閉じ込めようとする動きは、、、常に苦痛を作ります。だから諦めるしかない、、

意識の奥底

意識=色÷空

現象はすべて空から生じます、、空から生じ色に空と色は次元が異なるために「気づく」という『意識』が生まれるのです。この意識を我々は朝起きた瞬間に感じます、「朝日」に「気づく」「コーヒーの香り」に「気づく」つまり意識です。この意識を常に常に感じているために「意識」の存在を否定する人間は皆無です。神をひてする人は居ても意識を否定する人はいません。仏を否定しても「意識」を否定する人はいません。「意識」このが神、仏です。

そうだ!!!スタバ行こう!!!

この思考が意識されます、、、するとスタバがイメージ化され、、そこに意識が向きます。意識の連鎖が起こるのです。この連鎖が起こり続けなくてはスタバに辿り着かないのです。ですが最初の「スタバに行こう」は勝手に起こっています、、ここも重要です。意識の連鎖のスタートは勝手に湧くのです。そして意識そのものは構造上、、コントロール不可能です。空から色が生まれるを誰がコントロールできるのでしょうか??

それでも

我々が感じられる神はこの意識しかないんです、、神様がやっている全現象を生み出すとは、、まさにこの「意識」だからです。だから意識=神=仏=現象です。現象をあるがままに感じるとは、、そのままで至福なんです、意識しかない=至福です。あるがままの現象をあるがままに受け入れるとは=至福なんです。この発生する意識を「私」という小さい箱に閉じ込めた瞬間「苦しい」が生まれます。

本当の本当は

意識は作れない

私はひたすらに意識が現象化を起こすと言ってきました。例えば右に意識を起こせば、、、右の視界が現象化します。左に意識を向ければ、、左の視界が現象化します。上下、、全部意識です。。。。ですがその意識はどうやって起こっているかといえば「空から色」が起こった時です。つまり意識自体を作るという行為を行うことができる存在はいません。意識は起こるんです。

だから

滅茶苦茶な話ですが、、右、左、上、下と意識を向ける、、、というこの「意識」は誰も作れないのです。にも関わらず今もそれができます。意識を向けるができてしまうのです。完全にできるにも関わらず、、意識は「空から色」が現れた時に起こるのです。これが完全なパラドックスです。つまりつまり、、、とんでもないことをしてしまった、、悪事を働いてしまった、、やってはいけないことを!!!!も全部意識が作っていますが、、その意識は構造上作れる存在がいない、、となります。

全自動

ここが分かってしまうと、、例の全自動というところに落ちます。完全完璧に現象は意識が起こせますが、、その意識自体を起こせる意識はないのです。意識を起こす意識がないのならばこれはもう完全全自動です。ここが空にまで認識が落ちるポイントです。意識はありありと自覚できる、、感じる、、、だがその意識は、、「空から色」が起こらないと顕現しない。。。ここです。最終の気づきです。

唯一の弱点

この私

見かけ上のこの私は、、、ほぼ誰の言うことも信じず、、自らが感じたことだけを実践してきました。体作り、受験勉強、就職、、そしてある程度の結果を毎回出すことができた。それは情報ではなく実感を最優先したからです。実感を最優先した結果20代で多くの収入、地位、名誉を手に入れました。ですがにも関わらず実感としての至福がない、、、この先に真の幸福があるように思えない、、のです。

騙された

私という実感があり過ぎて、、、ここだけは見抜けなかった。。。私が居ない?????何いうてんねん????の世界です。だってありありとまざまざと自分という実感があるのですから。その実感とは「意識」です。この「意識」があるから、、、自分も実感してしまう。だからこの自分のために頑張ってきたんです。

逆によかった

でも今思えば逆に良かったのです、、、自己実現まで一気に駆け抜けて、、残りはこれしかなかったからです。自己超越は自己実現に絶望した時にこそ起こります。もう何も目指すものがない時に、、起こります。後戻りはないのですから。自分っていう感覚はどこからきている、、????どこを根拠に起こっているのか????この自問自答が続きました。最終的に残ったのが「意識」です。。この意識これを私と呼んでいたんです。そしてこの意識が視界全部に存在し全現象を生み出し気づきます。

知らなくては!!!がない

この意識

この意識から湧き出る現象を、、、必死になって情報を集める気になりません。私だと思っていた意識が実はこの体の中だけにあるのではなく、、全部だった、、という気づきは人生観を180度変えます。この意識からすべては起こり、意識に気づかれていく。。意識が向けば現象化が起こり、、やはり意識によって気づかれる。もう今までの「私」は存在せず、、リトル「私」と大私の合わせ技です。

探していたのはこれだった

結局今まで本当に走りに走ってきて、、どこに向かっていたのか????「意識」だったんです、、、この「意識」に向かって走っていたんでした。この「意識」を幸福にしよう、幸福にしよう、、って走ってたんです。ですがその幸福を求めていたはずの「意識」が至福そのものであり、、、最初から何も必要なかったんです。今もこの至福「意識」から現象が起こり、、意識に気づかれています。一体なぜ走る必要があるのか???です。

分かっていた

幼児は誰も焦っていないのは、、、最初から至福だったからです。至福から生まれでて、、至福の中で至福そのものが生きていたのです。至福の中に強引に「私」という存在をぶち上げ、、この環境を生き抜くと決めたことで至福がぶっ壊れたんです。

意識にこだわる理由

「空」「大いなる存在」

私は悟り系に関心が長いので、、ワンネス、空、大いなる存在、ブラフマン、、、言葉はなんでも知っています。ですが実感できるのは「意識」です。「意識」とは過去45年間毎日付き合ってきました。この「意識」が神です、、、長年の親友「意識」、、、この意識こそが神だったんです。だから「意識」で全てを解きます、、この「意識」以外には実は何もない、、、「意識」の中から現象が起こり、、、「意識」が現象化し、、、現象が起これば「意識」は気づく。これだけなんです。

思考の渦

多くの方はこの真実を知らずに、、「私」ばかりに興味が行きます、、、「私」を環境に適応させるために一日中思考を巡らすのです。ですがその思考の全てが間違っています。だってこの私って意識のことですよね、、、意識って全然今までの認識とは違うんです。今までも主語は私という仮面を被った「意識」のことですよね、、、その主語が本当の「意識」に変わると、、、私の将来が不安は、、、意識の将来は不安に、、、変わり文章としておかしくなるんです。

意識の将来が不安????

私という仮面を被った「意識」の将来が不安、、、は、、、意識の将来が不安に変わります。。。意識は、、全部ですから環境の全てです。この環境の将来が不安、、、は文章として成り立たなくなります。私「意識」からすべては生み出され、、すべては「私」意識に気づかれる、、ただそれだけ。この体が向かうところは意識から様々な現象が飛び出し意識される。。。私たちは完全な創造主であり、、今までもそうだった。。その創造主がいまここに確実に存在する「意識」です。

10年ぶり

友人再会

十年間会っていない友人に会おうと「意識」します。Facebookに意識が向かい、、Facebookが現象化されます、、アプリを開きます。Facebookで検索を行います、、、旧友らしき人物が現象化されます。旧友らしき人物の写真画像が現象化されます。。もしかしてそうかも???が起こり、、、メッセージを送ります、三日後まさかの返答が現象化します。会うことになります。旧友が実際に新橋駅で現象化されてきます。「会おう」という意識がこの現象を起こしたのです。

旧友が居るのではない

旧友が存在したから会えたんではないんです、、、旧友に会おうという「意識」が旧友を誕生させたんです。これが真実です。だから「意識」が変わると現象の全てが変わります。「意識」が現象を起こすのです。嘘の真実、、環境に小さな私が居て合わせていく、、という嘘の真実を信じますと、、、その「意識」から現象が起こります。その信念に準じた現象が起こります。その現象が苦しいから、、さらにもがく、、が起こります。

どこに居ても

どこに居ても今にくつろぐ、、ができるようになります。なぜ????だってどこに行ったってこの「意識」が全部作っているならば焦って何かを達成する必要が全くないのです。新しくできたあのお店に行かなくては!!!は起きない、、だってそこもここも「意識」が作り上げた現象です。それが分かってでもの本当の興味にしか行かなくなります。

新鮮

同じ部屋

同じ部屋にいるから退屈で、、、同じクラスメイトは退屈で、、同じ部活だから退屈で、、、嘘です、、全嘘です。これって嘘を信じてしまった人々に訪れる感情です。どんな嘘????この世界は「私」という小さな存在が適応しなくてはいけない、、という嘘です。嘘????そうです、嘘です。この世界は「私」を超えた意識が全部作り上げているという真実を隠し「私」が出しゃばるという嘘を信じると、、退屈になるのです。

部屋もクラスメイトも

部屋もクラスメイトも実は毎日毎日変わっています、この「私」がいく場所には意識から現れた現象が現れます、その瞬間にです。この真実を受け入れていきますと「意識」が生み出す現象の数々を全く違った視点で見ることができるのです。全てが幻、全てが新鮮、全てが「私」と同価値になっていきます。

適応

適応というのは、、環境が先ずは最初にあってそこにこちらが合わせていくことをいいます。ですがこれは違うんです、、真実ではありません。真実は今ここで幻想が現象が意識が向く場所から現れます。もしくは現象が現れると同時に意識が起こるのです。ダーウィンの進化論は嘘です、、この世界は「意識」が作り出したいまここ世界なんです。

全部嘘

学生時代はこの移り変わる経済社会で貧困にならないように今から準備しておけ!!!と教わり受験戦争に参加したりします。ですがこれは真っ赤な嘘です。嘘嘘嘘、、、、環境は今この「意識」が作っています。視界に広がる意識から現象が今ここで広がるのです。そして何かが起これば意識が拾う、、意識が向けばそこは現象化します。

蜃気楼

ここからは見えないが

今私の右端には、、、照明が薄ぼんやり見えます、、、しかし、、正面にいる友人からは照明はハッキリ見えます。これが幻想の特徴です。友人からはハッキリと照明が見えることから、、この照明は100%実在する。そして私からは薄ぼんやりとしているが、、それは焦点が合っていないからだ。これが人間業界の常識です。ですが真実は、、薄ぼんやりは、、薄ぼんやりなんです現象として。意識をそこに向けると、、それが明確に現象化します。

鏡にはハッキリと照明が写ります、そして見えます。しかし私には照明は薄ぼんやりです、、、そして真実では薄ぼんやりなんです。鏡に写ったのは蜃気楼のようなもの、、そして実際の照明も蜃気楼です。だからハッキリも薄ぼんやりも実はどっちでもいいのです。この世界が幻想と呼ばれるのはそのためです。

ここからが重要

重要なことは、、、これが幻想であると見切って生活することなんです。この先の真実も全部知っておきたい。という衝動はあってもいいのですが、、ここからは実感が重要になります。全部の疑問を解決しないと実践に臨めないというのは実は逃避です。これはどうなの???こっちは????疑問は山のように出てきますが、、その疑問の答えは実践が教えてくれます。