どうでもいい

覚者

全てはどうでも良くなる、どうだっていい、、、これ悟りの世界ではよく聞かれる言葉です。これを一般的解釈で捉えればかなり排他的、悲観主義に「聞こえる」でしょう。ですがこの「どうでもいい」は普通の「どうでもいい」とは全く違います。このどうでもいいは満点の星空を大自然の中で眺めた時の「どうでもいい」です。つまり感動して「区別」「差別」が起こらないどうでもいいなのです。区別、差別、比較ができなくなったどうでもいいです。

だから

そこには比較がないんです。どっちを選ぶべきか、という基準がありません。全てが美味しい料理の時、選ぶという時間が起こらないのです。どうすべきかという思考が起こりません。どっちをとっても美味しいことが既に分かっています。どっちを選ぶべきかを悩む遊びはできます。真実の覚醒はある意味で全てがどうでも良くなる遊びです。

時間を作り出す感覚

それすらも

実は時間も空間も存在しません。存在しないのです。100%。ですが我々は確実に時間という感覚、空間という感覚を持っています。つまり時間という感覚、空間という感覚を紛れもなく作りだしているのです。それを後転的に身につけました。後天的ということは最初はなかったわけです。あとからそれを作り出したのです。どうやって???観念です。固定観念です。固定観念がこの夢を生み出しています。ですからそのことに気づいてしまえば、気づけてしまえばもう我々は時間、空間という感覚を超えれます。

どうやって???

思考のカルマ、体のカルマ(勘違い)を燃やしていきますとあらゆることが分かってきます。分かってきちゃいます。なぜか分かるのです。そして分かってきちゃいますと他人がなぜ苦しんでいるかにも気づきます。あの人は今そうかこういう気づきのレベルに居るんだなと気づきます。それが毎日続きます。実は何がどうしてこうなっているかに気づかずにいてそこに苦しんでいたのです。

分かることもわかる

コツを掴みますといずれ全てが分かってしまうことにも気づきます。全ては自分が作り出しているのはもう分かっているのです。過去の体験からそれは既に証明されています。今はもうそのことが分かってカルマが燃えていくのを見守るのみです。真実のメッセージはあらゆるカルマを水面下で燃やしていきますからそれが遊びになっていきます。

苦しむために

人間

人間とはある意味で苦しむという経験を積むために作られた存在です。どう考えても苦しいがデフォルトです。普通に生きていれば大人は子供よりも確実に無邪気さを消失しています。大人は確実に「苦しい」ことを前提に生きています。細やかな幸福と呼ばれる何かさえ手に入ればそれでいいと諦めています。ですがそのような生き方でもどこかで絶望が起こります。その絶望が起こった時「チャンス」です。

絶望

私は生活さえ保証してもらえればいいのだ、私は安定さえ手に入れば、私は食べてさえいければ、、、ところが残念、、、それすらも失ってしまう絶望が起こります。彼さえ私のそばに居てくれれば、、、そんな彼が急に私の元を去っていく。。。。。これが絶望です。人はこの時怒り、悲しみ、泣きじゃくり、、この世を恨み、、そして悟りの道に入ります。外側に幸福を求めるにではなく内側の何かを求めます。

関心

悟りに向かう

思考の浄化、体の浄化を続けていきますと関心が「悟り」に向かうようになります。目覚めることが一番の関心になります。この状態に自然となっていきます。思考で一番にしているうちはダメです。それは嘘です。フェイクです。自然とそこへの憧れが広がっていき自然とそこに至るのです。露天風呂で心底リラックスした後に目をギラギラさせて株価のチェックをするでしょうか???しませんね。つまり究極のリラックスこそが更なるリラックスへの関心に向かわせます。

関心が向かない期間

関心が向かない期間は「何かを手に入れたら幸せ」「条件が揃ったら幸せ」と信じている期間です。その期間はしっかりとそれを実験してそれがどんな結果になるかを試すのです。あらゆる実験結果を得たとき「何を手にしてもどんな条件を満たしても」幸福にはならないことを悟るのです。これも十分大きな悟りです。どんな条件を満たしても幸福にはならないという気づきは関心を内側に向けさせます。関心が内側に向いてしまえばベクトルが内側に向いてしまえば、、、その瞬間から苦しみが消えていきます。

何も欲しくない

なぜ欲しかったのだろうか

意識を思考から切り離していきますと「何も欲しくない」という状態に入っていきます。あれ???最近俺洋服も旅行にもTVにも映画にも何も関心がないかも。。となります。そしてそのことが自然過ぎて何も思わなくなります。そうか何にも求めないことが自然なんだという気づきです。人は好きになります。ですが関係を築きたいとはあまり思いません。

虚無とは違う

虚無とは「感じる」力が衰えていき楽しいも辛いも何もかもを感じれなくなった状態です。今日からあなたがマグロ漁船に乗って1年間労働を強いられた時、全てを感じないような状態になっていきます。感覚を鈍くしてこれを乗り越えようとします。すると楽しいという感覚すらも衰えていき虚無に入っていくのです。これとは全く違います。感覚と意識を引き離していくことで感覚をしっかりと感じるようになります。これをやっていきますと何も手に入れていないが幸せという状態に入ります。

埃(世界)を埃(自分)では掃除できない

プンジャジ

プンジャジのインタビューで面白い言葉がありました。世界を私は掃除できない、なぜならば埃を埃で掃除することは不可能だからだ、ということです。大変面白い表現です。まさにそうなのです。世界そのものは心が生み出します。自分も心から生み出されたものです。なぜ心が生み出した私は心が生み出した世界を掃除できるのでしょうか??「私=埃」が頑張って世界に働きかければかけるほどに世界はより埃にまみれていきます。頑張ってはいけないのです。私こそが埃なのですから。

思い出すだけ

今まで散々頑張ってこの世界を快適にしようとしてきました。ですが一向にそうならない、そうならないという事実こそが教師です。この事実こそが絶対証明です。だからもう私が頑張るのはやめましょう。私に重責を乗せて頑張って世界を変えようとするのは終わるのです。そうではなく私こそが心の記憶の想像物であり、それも埃に過ぎないことに気づくのです。

人間トラブル

巻き込まれる

株価暴落、会社が倒産、就職先探し、、これが現実です。これが人間ドラマです。この人間ドラマで悟りとか悠長なことを言っていて意味などあるのですか???目覚めとか知らんがこの現実はしっかりと「私」を巻き込んできます。何をゆっくり気長に眺めていれるのでしょうか????確かにそうです。間違いなくそうです。ですがその人間ドラマはなぜ「気づかれて」いるのでしょうか??なぜその人間ドラマは成立しているのですか???誰にその人間ドラマは見られているのでしょうか???

倒産、闘病、投獄

人生ドラマに何が起ころうと、、、全ては気づかれています。それはこの体の中の私には不可能なことです。同じ次元の存在「私」はこの人間ドラマに巻き込まれることはできますが、、この人間ドラマに気づくことはできません。巻き込まれていることこそがこの次元の中に存在している決定的証拠ですから、この人間ドラマを見ることは不可能です。ですが間違いなくこの人間ドラマを見ています。ということはこの次元には絶対に存在しない存在が、、人間ドラマを見ているうちに「人間」を私だと勘違いしたのです。存在のアバターである人間を「私」と勘違いし今もこの映画を見ています。

悟った人、悟ってない人

あの人は悟ったに違いない、あの人は悟っていない、私はまだまだ悟ってない、、、これ罠です。世界には空間も時間も一切存在しません。どこに悟った人、悟ってない人が存在できますか???不可能です。じゃあ過去に現れたラマナ、釈迦、キリスト、老子などは存在しないのですか???時空間が存在しないのですから実体としては100%存在しません。存在するための時空間がないのですから。

では

ではこの肉体が存在しないとしたらどうしたら悟るんですか???肉体は悟れないのです。時空間が存在しないのですから肉体はないのです。そしてそのことに気づくことが悟り目覚め、解放です。時空間が存在しないとしたら「今ここ」は何ですか???何が起こっているのですか???今ここで起こっていること、それは「今ここ」です。「今ここ」こそが起こり続けている「だけ」なのです。

今ここを利用した思考

今ここが100パーセント存在するから、、そのことが確定的だから、、、ならばそれを経験している経験者(実体)も100%存在するはずだ!!!その存在がこの体だ!!!!と「予想」しました、これまで。ですがこれが大きな大きな勘違いだったのです。この体とは「今ここ」のアバターです。「今ここ=経験」のアバターです。この真実に立ち返った時あらゆる信念、概念、観念が崩壊します。

ある部屋

コップ

ある部屋にコップがあるとしましょう。そのコップはそのコップのオーナーが死んでから誰にも発見されずにその部屋に置かれそのまま10年以上放置されました。その期間そのコップは誰からも見られていません。そのコップは存在していると言えるのでしょうか???あなたは生まれてからあらゆる経験を重ねてきました。何億という経験を日々積み重ねてきました。ですがその経験が何かによって気づかれない時、経験は経験として成り立つのでしょうか???

つまり

我々はこの究極の存在のことをすっかり忘れて生きています。経験が何者かによって気づかれていてその気づきは当然この体の中の「私」だと思っています。ですが違うんです。その気づきは間違いなくこの世界の中には存在できないのです。なぜならば別次元の存在以外に「今ここ」に気づける存在が居るわけがないのです。ですがあまりにも上手くできているので、、この体である私が経験に気づいていることになりました。これが苦しみの大前提です。

日々の経験

このことに気づきますと日々の経験の意味が全く変わってきます。ただの会話であっても間違いなくその経験に気づく存在が今ここにはっきりと存在していることに気づきます。この経験の主体のことを誰もがすっかり忘れていますが実は全てこの気づきの中でこの経験が起こっているのです。なんということでしょうか。

絶対に失うことが出来ないもの

それだけ

体に執着すればいつか必ず体に裏切られます。お金に執着すればいつかお金に裏切られる。友人、親族、地位、名誉、これらは全ていつか消えてなくなります。全てです。目に見える全ては現れては消えていきますからこれらは絶対に信用できないものです。ということでこれらに絶対を求めてはいけません。それは茨の道です。では何を求めればいいのか???それは未だかつで一回たりとも失ったことがないものです。「気づき」それだけは一度の一回も失ったことがないのです。「木が倒れた」「鳥が飛んだ」「昨日は悲しかった」全て経験は「気づき」が存在しなければ存在できません。そうです。我々が探し求めてきたものは最初から今ここに存在したのです。

実感へ

ですがこのことを知識で覚えても恐らく実感には至らないでしょう。何を言っているのか???レベルの話でしょう。そうです。このようなメッセージには触れたことがないかもしれませんし、周囲でこんな話は意味不明です。ですがもうどこにも行かなくていいのです。周囲に変人と思われてもその経験こそも「気づき」に気づかれたから存在するのです。それでもこの体の中にはアイデンティは残ります。ですがその経験こそも「気づき」によって気づかれる経験に過ぎません。