全てが分かっている???

覚者

覚者とはもう迷いがない存在です。起こる出来事で苦しむことができません。ですが今政治状況、経済状況が慌ただしく混乱しています。この混乱を全て分かるって可能なんでしょうか???経済学者でもないし政治学者でもない、、なのになぜですか???回答します。この物理次元で何が起ころうとも「気にならない」という状況が悟りです。何が起こってもいいのです。何が起こっても全く自分自身が傷つかないことを分かっている時、何に混乱するのでしょうか???

最新のゲーム

最新のゲームをやります。全くついていけない、全く動きが読めない、、、、直ぐにゲームオーバー。ですがそのことで悩みますか????苦しみますか????全くです。だってゲームですから。プレイヤーの私は何一つ傷つくことがないのです。これが悟りです。目覚めです。ゲームの中での出来事が何一つ「存在」を脅かすことがないことを知っている状態が悟りです。

この世界

この世界に話を戻します。この世界の中にもしも「私」が存在するとしたら大変です。私は常に渦中の人、いつもトラブルに巻き込まれます。ですが実際には「私」はこの世界には存在しません。ましてや物理空間には存在しません。かつての「私」は存在していました。ですがもう物理空間には存在していないことが分かっています。物理空間が存在しないことを知っていますから。存在しない存在、この幻想の物理空間に私は存在せず、、ただこの妄想的物理空間に気づくのが「本当の私」である真我です。

真我=太陽

太陽に照らされた光は太陽ではない

太陽の光が世界に放たれます。その放たれた光があるから地球、月、火星、金星が照らされます。その存在が顕になります。光に照らされることで存在が存在していると分かるのです。ですがそれらの存在は太陽の光ではありますが太陽そのものではありません。真我もこれと同じです。照らされた光は太陽ではないのです。だから今「五感」「思考」が間違いなく存在できるのはその太陽が最初にあってそれらが照らされたからです。

つまり

我々が知覚してきた全てはこの太陽の光によって映し出された光です。地球に太陽の光が照らされ、、地球が現れます。その地球の光を「知覚」と呼びます。その知覚はエンドレスに続きますが、、、それは太陽そのもの、真我そのものでは決してないのです。知覚されるものに太陽は存在しません。知覚される五感、知覚される思考、知覚される感情に「太陽=真我」は絶対に存在しないのです。

だからどうすりゃいい????

それが分かって何になるんですか???それが分かって何かメリットあるんですか????ありますよ。我々はこれまで太陽によって照らされた地球(体)を自分(太陽)と勘違いしてきたのです。あらゆる星々に気づいていた(太陽)が目の前の地球(体)こそが星々に気づいていると勘違いしてきたのです。地球(体)は太陽によって照らされた惑星に過ぎず、、これは自分(真我)ではありません。自分とは勘違いの産物なのです。

因果

時空間

因果という言葉は時空間が存在するという前提の話です。ですが時空間自体がないのですから因果は起こりようがありません。時空間がないのです。とはいえ時空間を感じることはできます。その中で物事が変化しているようにも感じることができます。そしてそこには因果が働いているようにも見えます。ですが「因」という存在、これが存在しないのです。コップが落ちて割れた、落ちていないコップが、、落ちることで「割れる」、、これだけ見れば因果です。ですが最初の落ちるという動きが「独立」した動きでない場合、因果とは言えません。

落ちるにも理由がある

落ちたのは地震があったから、地震があったのは海底火山が爆発したから、海底火山が爆発したのはマグマが膨張したから、マグマが膨張したのは、海底プレートが動いたから、海底プレートが動いたの、、、、とエンドレスに続きます。そしてその動きと動きの境目が存在しません。境目が存在しない以上、、、因果とは思考が作りだすファンタジーです。

撮り終わった映画

何度も何度も説明します。これは撮り終わっている映画です。撮り終わった映画に因果は働くのでしょうか???不可能ですね。主人公があの時ああしなければ結末が変わったのに。。。。。意味不明です。もう既にこの映画は撮り終わっているのです。この事実がハッキリと腑に落ちますと、、、究極の安泰が起こります。急激に静寂に包まれます。だってこの映画は先が決まっていないと思っていつもいつも震えていましたよね。

手放せない

過去

我々は過去に一生懸命頑張って何かを成し遂げてきました。頑張って頑張って念願の会社の就職します。その時、あれ???合っていないかも、、、、そう思っても「手放せない」。。。。だって過去にこんなに頑張ってきたんだから。頑張って頑張って手に入れた結婚相手、、結婚してみて「あれ????合ってないかも」でも手放せない。だってあんなにお金と時間を注いできたのだから。。。こうして「過去の頑張った」が執着として苦しみを増大させるのです。

こんなに親が頑張って育ててくれたのだから

お父さんがあんなに頑張って塾の費用を捻出してくれたのだから、、、諦めれない。。。。辞めたいけど辞めれない。。。これが執着です。過去の頑張りを未来に投影し、、、、その選択だけはできない。。。となるのです。「過去の頑張った」がまさに今ここに苦しみを生み出すのです。手放せないのは実は「会社」でも「学校」でもなく「過去の頑張った」です。

良い意味で

良い意味で過去の頑張りが見事に裏切られる経験を何度も何度もしていきますと「明るい未来」に向かっての「頑張る」が消えます。もう同じ方法はしなくなります。今やりたいことだけをしよう!!!!こうなります。今それをやりたいことをこれからも「今」しよう!!!に変わります。過去の頑張りはどうせ見事に裏切られるのだから。その瞬間「頑張る」が消えて「今楽しむ」に大転換が起こるのです。その気づき、その諦め、その大転換こそが悟り、目覚めです。

目的地

真逆

我々は生まれて直ぐに「太郎くんは将来何になりたいの???」という質問をされます。太郎くんは将来パイロットになりたい、から始まり、、僕は将来会計士になりたいです。になり、、いつか東京の会計事務所で働きたいに変わり、、、入社後は役員を目指すに変わり、、、、と、、、、果てしなく「何か」に向かって生きていくのです。ですが途中で気づくのです。この「成りたい何か」という目的遂行には終わりがあるのか????なんかいつまでも苦しいんだけど。。。。。です。これが自我ゲームの終焉です。最初の悟りです。

自我の目的

ある日悟ります。何かをこの現実世界で達成しても「至福」には至れないと。この旅の最終ゴールはゴールには成り得ないと。そこを悟るのです。そこから旅の目的が内側に変わります。旅の最終ゴールが外側ではなく内側に向くのです。自我もそれを応援します。いや、自我が最終ゴールを悟りに向けるのです。「本当の自分」に向かって自我が走り始めます。何も矛盾がない状態が起こります。全ての出来事は悟ためのヒントに変わります。そこにはもう逆風が存在しません。向かい風が追い風に変わった瞬間です。

自我が悟りを目標にするなんてあり得るのか???

あり得ます。だって自我が何ものかになるという戦略では幸福にはなれないことが分かっているのですから。何者になっても無駄なのです。外部環境で自我が何かになったところでこの苦しみは消えないのです。むしろ大きくすらなります。なぜ????だってこの分離感という苦しみを生み出す思考こそが自我だからです。だからそっちにはもう行きたくないわけです。そっちがダメならばもう簡単です。そっちじゃないよ、こっちだよ、ですね。

生まれてないのだから

生まれるには時空間が必要

我々は実は生まれてきていません。産まれるための時空間が存在しないのです。生まれてきていないのだから死ぬことも不可能です。死ぬための時空間が存在しません。でも幻想としては生まれてきているのですね???そうです。幻想ですから事実では生まれていないのです。でも幻想では死ぬんですよね???そうです。幻想ですから事実では死にもしません。

じゃあ何が起こっているの???

時空間が存在しないのだから「生まれた」というのは生まれたという思考が起こったことです。死んだというのは死んだという思考が起こったことなのです。つまり思考、マインドの中でのみそれが起こったのです。思考、マインドがない動物には生死というファンタジーがないのです。植物には生死というファンタジーがありません。人間にだけ生死というファンタジーが起こります。「人間だけ」という表現も思考です。概念です。

つまり

真実では「意識+意志」だけがありありと存在しそれ以外は何も起こってもいないのです。「意識+意志」が五感になり、意識+意志が思考感情になっているだけです。それ以外は何も存在すらしていません。だから時空間も存在しません。時空間とは「意識+意志」の活動に過ぎないのです。そしてその活動に気づく気づきが我々の本質「真我」です。

横領

やっぱり

「人は裏切る」という固定観念を持つ人が社長になれば「部下の横領」が起こるかもしれない。その時「やっぱり」が起こるのですが真実に触れていればそれは「やっぱり」ではなく「そうか!!!!俺の固定観念が現実化されたぞ!!!」に変わります。その際に「だから部下を責めてはいけない」「これは俺の固定観念こそが犯人なのだから!!!」は危険です。横領されたならば警察に連絡してください。加害者は「俺の固定観念」だから責める相手は存在しないのだ、、、、は危険です。

真実と対処

真実ではここは時空間でありません。だからこの体も存在しません。存在しないのだから「空腹」も嘘でありだから食べるのもやめよう!!!!をやってもただ苦しいだけです。なぜか????頭では理解しても多くの固定観念が自覚できないレベルで生存しそれが現象化されます。だから痩せこけて病気になってしまう可能性が高い。真実の理解と「無理」は一緒にはしてはいけないのです。楽しみながら真実に寄せていくのがコツです。

やっぱり

人は裏切る

この世界に物理空間は存在しません。ですから全てが固定観念が生み出す世界です。固定観念がなかったら世界自体が存在しえないのです。「人は裏切る」という固定観念を抱えれば「やっぱり」人は裏切る現象が起こります。それを経験し「やっぱり」人は裏切る、、が固定観念化します。これ騙されてはいけません。固定観念が「騙す人」を生み出し、「騙す人」がいるから「人は裏切る」という固定観念が強化されます。鏡です。固定観念の鏡が現象化するだけです。意味がないんです。

そう信じているんだな

だから何が起こっても「やっぱり」ではなく「そうか、俺はそんな固定観念を持っているんだ!!」に変えます。事実に寄り添ってください。「やっぱり」ではなく「そうか!!!!」に変えます。何度も言いますが時空間自体が存在しないのです。ですから現象にルールなどあるわけがないのです。時空間がなくしてどうしたらルールが起こりえるのでしょうか。

火は熱い

固定観念

火の上を裸足で歩くというトレーニングがあります。熱いと信じるから熱い、全く問題ないと信じれば全く問題がない。全ては観念です。ここには時空間が存在しません。時空間とは思考が作り出す感覚です。だから火も存在しません。火が存在できるスペースがないのですから。ですから火が熱いのは固定観念が作り出すのです。カードの裏側を読み解くのも同じです。カードを物質と信じた時、裏側は絶対に見えません。ですがカードという物質は存在し得ないことを知った時見える可能性が高まります。

確率

好きな仕事で食べれるなんて「1%」だよね!!!!これ固定観念です。99%は不可能であるという固定観念です。時空間が存在しないのです。ですからその固定観念こそがその時空間を見事に作ります。ないのです、時空間は。現実と呼ばれる世界は「固定観念」の投影です。時空間が存在しないのですから「固定観念」以外に反映のしようがありません。

意味ない

固定観念が見事にこの世界を作り出すだけなら、、この世界を生きるってなんの意味があるんですか????思い込みを生きるだけなら意味ないですよ。。違いますか?????意味があるかないかといえば「ない」のです。ですが逆に言えば「なくてはならない」のです。この固定観念が生み出す見事な世界は「なくてはならない」のです。なぜか????世界は無限に存在しなくてはならず、そのため固定観念が無限ならば世界も無限に生まれます。そして事実、固定観念は無限に立ち現れるため世界も無限に立ち現れます。火が間違いなく熱い世界があって、、場合によっては熱くない世界もある。好きな仕事では食べれない世界もあれば食べれる世界もある、、、まさに無限です。

生きる=意志+意識

誰かじゃない

生きているという実感を感じないようにすることはできますか???不可能ですね。今日という日を「生きている」という実感なしで挑んでみよう、、これは不可能。不可能です。なぜか????なぜならば我々の本性が「意志+意識」だからです。だから事故で五体不満足になろうとも絶対に「生きている」という実感が消えることはないのです。

生きているという実感があるから

生きているという実感が疑いようもなく100%あるから、、、「体」は絶対に存在するし「世界」も絶対に存在すると信じます。この勘違いの土台には絶対にこの「生きている」という実感が外せません。この実感が一瞬たりとも消えないから我々はこの体を失ってはいけない、なぜならば「生きている」という実感が消えてしまうからと怯えるのです。つまり我々を苦しませてしまった正体は「生きている」という実感が起こす思考の勘違いです。

天才

世界中の大天才をもってしても「生きている」という実感の根拠を探します。なぜ生きているという実感があるのか?????そうかこの体があるから生きているという実感が湧くに違いない。すると生きているというこの実感を私というんだ、、、となります。じゃあこの体が死んでしまえば「生きている」という実感者「私」も消えてしまうのだから大切にしよう、、という発想に落ち着くのです。

ですが

本当は「生きている」という実感と世界は同時に生まれます。ですから「生きている」がデフォルトです。その後に思考が生まれこの「生きている」の所有者が「私」だという動きが起こります。この思考の動きも「生きている」です。だからどのような思考が起こっても「生きている」が消えることはありません。死にたいほど苦しくても「生きている」が消えません。