背景に自分を重ねる

あるがままから

本来は我々はあるがままからの景色しか見たことがなかったんです、、あるがまま、、背景が、、現象をそのままに認識する世界に居たんです。。全ては光り輝き、、現象はそのままに美しく輝く世界に住んでいました。ところがこの体が自分だという学習をすることでこの自分をベースにした認識がこの上に重なったのです。その結果この世界が薄汚れてきたのです。

音を音のままに

生まれてきてしばらくは音を音のままに聞いていたんです、、この耳を介在することなく音を音としてそのままに感じていました。ところが「あなたはこの耳でこの音を聞いている」という概念を学習することで、、あるがままの認識の上に、、耳で聴くという認識が重なり音が燻んでいったのです。

あるがままに戻る

この世界は神が神の写し姿を認識する世界です、、ですからこの体を介在しなくても認識は起こせます、、最初はそうやっていたんです。ところがこの体の中の自分が居てその自分がこの認識を起こしているのだという新しい概念を記憶したことでそのままの認識の上に新しい認識が重なったのです。これによって息苦しさ、重苦しさ、居心地の悪さが生じたのです。

これを解消しようと

これを解消しようと、、、この個人が動けば動くほどに、、苦しみが継続されます。新しい認識こそが居心地の悪さの元であるなどとは知らずに、、起こす行動の全ては無駄に終わるのです。そしてクタクタに疲れ果て、、疲労困憊、、もう動けないと諦めたその時、、、個人の活動が終わり、、、真の安らぎに気づきます。

客観的事実

客観的事実とは残酷で、、ここに意識を向ければ向けるほどに苦しくなります。なぜか????それは客観的事実とは、、幻想事実だからです。全部幻想ではこうなってますよ!!!!という情報です。真実は幻想でそのものを生み出し認識する存在こそが我々です。我々は全幻想を生み出し全幻想を認識する存在であって、、幻想の一部では断じてないのです。

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