夢というのはリアリティーがあればあるほど醒めない

退屈な夢は醒めやすい、刺激的な夢は醒めにくい

毎晩人間が見る夢は刺激的な夢のう方が長く見ていられる気がします。退屈極まりない夢だったら途中で覚めるかもしくは怖すぎても起きるかもしれません。今我々が居るこの現象界は夢です、そしてこの現象界をストーリ化しているのは自身の観念。どんな夢を見るかは自身の観念が決めています。要は思考ということになります。どのような思考を信じているかでこの夢の内容は変わってくるということです。思考が積み重なり何十層にもなっていけばいくほどにこの夢、ストーリーは複雑怪奇になっていき緻密な夢になります。故に誰もこれを夢とは見破れなくなるのです。

自身の思考でこの夢を複雑にし、複雑故に疲れ果てていく

思考を重ね複雑に考えれば考えるほどにこの夢物語、海物語は複雑さを極めていきます。複雑であればあるほどに誰もこの夢を夢だと見破ることはできなくなります。こんな複雑で緻密な夢があるわけがないと信じ込むようになるのです、というよりも疑わなくなります。生き抜くためにあらゆる思考を手に入れて逆に生き辛くなった人間はこの苦しみから逃れるためにこの世の真実を探すという旅に出かけます。どうやら思考を積み重ねていってもこの現実は楽にはならないと諦めていくわけです。こうして人間を主人公にしたこの全存在の夢は覚めるための夢物語にシフトしていきます。この夢物語の中から覚めるためのヒントを探していくようになるのです。

先ずはこれが夢なのだと自覚することからスタートする

これが夢だということ、この事実を先ずは受け入れることからスタートします。そして明晰夢の状態でこの夢を生きていきます。これが夢だと覚めるために人生を費やしていきます。ですがこの発見のために過剰な努力をしたりムキになったり、思考を重ねてもそれは無駄に終わります。なぜならばその個人の囚われこそがこの夢を永続するシステムだからです。この個人がいないということ、これが夢だということの発見のために個人が頑張れば本末転倒です。なぜこの夢は苦しいのか、なぜこの夢には平和がないのか、なぜこの夢には本当の愛がないのか、、このように夢を観察する、、そして無我に入るとなぜその時だけは平和が訪れるのか、なぜ無心になるとその時だけ歓喜が訪れるのか、、このように夢の傍観者として生きていくことがスタートです。

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