議論

問題

会社でも家族でも議論って必ず起こりますよね。二人の人間が一緒にいれば議論をして問題を解決していく必要性に迫られます。「で、この議論って何の意味があるんでしょうか?????大有りですよ、だって問題を問題のままに残すのは問題じゃないですか、、だから問題解決のために議論は必要なんです。」そうですよね、、問題は当然起こるし、、起こったら議論して解決するしかないんです。

そもそも

では問題とは何でしょうか????問題とは当事者同士にとって不利益な状況でしょう、つまり都合が悪い状況です。例えば「家の屋根が壊れた」これは家族にとって不利益な問題であってよって議論が必要になります。ここで「家の屋根が壊れた」この被害にあったのは誰でしょうか??????「私」ですよ、、、「私」や「家族」に決まっているじゃないですか!!!!!そうです、、間違いなくそうなんです、、、、ですがその「私」が幻想だってこと自覚あります???????家族が幻想だってこと自覚ありますか????????

深刻

「私」が完全に完全に幻想であるという自覚がある時、、、、そこには深刻さが全くありません。ですが「私」が実在であると信じる時、、、そこにが深刻さが生まれます。「私」を幻想と思うことにする?????全く意味がありません。私という正体これが露わにされた時、、、気楽さが起こるのです。多くの方は「私」は実在と信じています、、だからそこからドミノが倒れ全現象が深刻化されるのです。

私には死についての恐怖があります。ですがこれも本当に面白いのですが「死を体験できる私」は存在しません、、、、死ぬようなショックが起こった時、それがなんであれ、、、死を体験する際には意識は失われています。だから私は大前提として死を体験できないのです。さらに本当は本当は私は記憶が起こす幻想ですから、、記憶が起こらない時「私」は既に居ないのです。

あいつ変わっちゃたよな

友人の一言

あいつはもう変わっちゃったから。。。。これどちらかと言えばネガティブな発言として使われますよね。。。あいつは結婚してから全く付き合いが悪くなっちゃって、、、人が変わっちゃったよ。。。あいつ会社が順調に伸び出したら一切こっちの誘い断るようになっちゃって、、、人が変わったよな。。。。ありますよね。。。こんな状況、、、、、ですがこれ勘違いです。

状況が自我を作る

変わるも何も、、自我とは状況が作り出す「最適解」でしかなくそれしか起こり得ないのです。ですから「自我をコントロールできる誰か」は絶対に絶対に存在しないので、、、、それがただ起こったのです。その「今のあいつの自我」が「私という自我」にとって都合が良くない自我になった、、、ただそれだけです。そもそもが何もコントロールができず、、ただ起こるように起こっているのが自我なのです。

状況がまるで変わらない時

状況がまるで変わらない時、、、、そこから生まれ出す自我は変わっていないように見えるかもしれません。ですが厳密には記憶が変われば自我も変わりますから実は変わっています。本当の意味で、、、長期の友人関係を築くには「自我が所詮は幻想である」この気づき以外にありません。その時、、、相手の自我が変ろうともこちらの自我が変ろうとも、、、それでいいのだ、、、、というお気楽な関係は生まれます。その時それは自我と自我の関係ではなく、、、根源の上での「自我という幻想同士」の関係が生まれます。

宝くじ3億円

気を使う上司

宝くじ3億円に当たってしまいました、、その時、、、その時、、これまで一生懸命気を使ってきた会社の上司に「気を使えない」が起こります。その上司に会ったら自然とでてきた「気を使わなければならない自分」という幻想がもう現れてこないのです。「3億円宝くじに当たった」という記憶が、、、「気を使わなくてもいい自分」という幻想の自我を立ち上げてしまい、、、気を使うことができなくなるのです。

やり辛い

上司からは不穏な空気が現れ出ます、、、「こいつ最近全く気を使わないなー」です。。。ですがこちらの記憶が書き変わってしまった以上「気を使わなくてはならないお金のない自分」という幻想の自我を起こせるわけがないのです。だから「気を使わなくてもいいお金がある自分」が上司の前でも現れ出し、、、上司は「やり辛い」となるのです。

演技

それまでは「気を使わないといけないお金がない自分」が現れ出ていました、、次に「気を使わなくていいお金がある自分」これが現れでました。。。もしももしも会社員を続けるならばこのままでは駄目です、難しいでしょう。そのことに気づくと「本来気は全く使わなくてはいいがとはいえ演技としては気を使うことをしないといけない自分」というのが記憶から湧き出てきます。これが記憶から湧き出てくれば会社員が続き、、それが出なければ辞めることになるでしょう。

重要なこと

最も重要なことは、、自分とは記憶が作り出す幻想であるということです。その幻想は記憶から「最適解」として現れ出ます。その状況に応じて最も利益のあるだろう自我が幻想として湧き上がるのです。ここに一切の例外がありません。自我とは完全完璧な記憶が作り出す最適解なのです。そしてそのことが本当に本当に理解できますと、、、最適解の自我が現れでる様子を楽しめるようになります。まるで他人事のように最適解の自我を楽しめるようになるのです。そして笑ってしまうのが本当に他人事なのです。

あの人今頃何やってんだろう????

あの人??????

急に地元の友人のことを思い出します、、、、あいつ最近何やってんだろう????????その「あいつ」その「あいつ」とはこの記憶が作り出した幻想です。その「あいつ」は世界でたった一人、、、この体から現れ出る幻想なのです。この記憶は完全完全オリジナルですから現れでる「あいつ」も世界でたった一つのオリジナルなのです。「あいつ」という「原型、実在」があってそこの私なりの解釈が合わさるのではありません。完全独自の記憶から現れ出る完全オリジナルな幻想、それが「あいつ」です。

電話

電話します、、、10年振りに「声」がします。。。その声を聞いた瞬間「フラッシュバック」のように記憶が蘇り「あいつ」がここに現れ出るのです。そして記憶からその「あいつ」に向かって言葉が出てくるのです。そして電話口から言葉が返ってくると「幻想のあいつ」から言葉が返ってきたと「思考」するのです。そしてこちらには「あいつ」バージョンの「私」が幻想として立ち現れ、、、会話が続くのです。全部記憶が為せる技です。

幻想VS幻想

本当に本当に笑ってしまうのは、、、、こちらには『「あいつ」バージョンの私』が立ち現れ、、、ここに「あいつ」が立ち現れますがそれは全て記憶が作り出した幻想だということです。電話口からは声がしますが、、その声は記憶が作り出した幻想の「あいつ」から発せられていると想像します。ここに幻想の「私」幻想の「あいつ」が今まさに立ち現れて会話が行われます。そしてこれをこれを「現実」と我々は呼ぶのです。

見慣れない人

子供

子供は普段見慣れない人の目の前に立つと、、急に静かになったりします。子供の記憶の中に「ない存在」を目の前にすると適切な対応が湧かなくなるのです。もっと積極的に話なさい!!!!とお母さんが話しても、、「不可能です」なぜならばそのコミュニケーションを行なっているのは記憶であり、、その記憶に「相手人物」のデータが全くないからです。全くないデータに対してこちらのデータから言葉が湧かないのです。

カテゴライズ

大人になれば大抵の人と会話が出来るようになるのは相手をカテゴライズして「住み分け」を行います、、そしてだいたい「このタイプだろう」という推測を元に会話が勝手に出てくるのです。話しながらも相手の観察は継続し、、カテゴライズ分けがより詳細になっていきます。そして全くカテゴライズできない相手であることが分かると「分かり合えない」と決めつけ、、終わります。

全自動

最も重要なこと、、それが上記の動きが完全全自動で行われているということです。相手のカテゴライズに伴ってそれに合わせた最も適切な自我が瞬時に現れ出し、、相手との会話が行われます。そして会話が終わった後、、、「自分が相手に合わせた」という勘違いの思考が生まれます。ですが実際は違います、、その相手に合わせた自我がその瞬間に現れたのです。演技をしたんではありません、、その相手に合わせた自我が立ち現れたのです。だから自我は幻想と言えるのです。

凄腕営業マン

何をしてる?????

凄腕営業マンって居ます、、何を売らせても売ってしまう、、、なぜ??????彼らは何をしているのでしょうか?????悟りの観点、非二元の観点から説明します。簡単に簡単に説明すれば営業先(体)の中に全く新しい自我を作り上げてしまうということです。例えば高級車を販売するならば、、相手の体に向かってさも成功者であるかのような話しかけをします。成功者の鈴木さんでればこの車が似合います、、、、車の良さをそこまで理解できている鈴木さんであればこの車は不釣り合いではないでしょう。。。こんな調子です。自我とは記憶から作り出されるその場限りのものなのです、、、営業マンに誘導によって記憶から全く新しい自我が立ち現れる可能性があるのです。そして自我が勝手に現れるならば相手には「購入を決める権利」が存在しないのです。

とんでもない事実

決める権利がない?????そうです、、相手には購入の是非を決める権利がないんです。なぜならばそこで立ち現れる幻想の自我は勝手に起こるからです。超美人営業マン相手ならば、、良いカッコしい自我が芽生えるかもしれませんし、、柔和な老人営業マンであれば、、無警戒な自我が芽生えるかもしれない、、、どちらにしても実は何もコントロール権がないのです。

私たちは買わされているだけ

実を言えば実を言えば、、、私たちはただ買わされているだけなのです。。。自我とは記憶から現れ出す幻想であり、、スタバの看板を見る、吉野家の看板を見る、その度に記憶が蘇り、、勝手に勝手に「食べたい」「欲しい」という思考が起こり買っています。つまり何も決めていないのです。凄腕営業マンとは、、、そのシステムを理解し、、、買ってもらう相手に仕立て上げていくだけです。どの話ならば記憶から何かが起動するかを表情を読み込んで行うのです。最後の種明かし、、ですがそに凄腕営業マンのトークも本人の体から勝手に勝手に記憶から起こっています。そういう意味では本当にこの世界には誰も居ないのです。

人類80億人

環境

朝目が覚めれば、、、、、先ずは視界から「何か」が入ります、、、その何ものでもない「何か」は、、、記憶を蘇らせる引き金になり、、、、置かれた状況が徐々に徐々に蘇ってくるのです。あれ????俺何やってる人間だっけ????そうだ、、俺歯医者だ、、、、そして俺には妻がいて、子供が居て、、、、実家は熊本で、、、今日も10時には開業しなきゃ、、あれ?????今日は何人患者さん居たっけ??????

確かめる

部屋に行けば「妻」が当然居ます、、、やっぱり居るよなー、、、、、子供も居る、、、、今日も当然「私の生活」始まるよね、、、、が起こるのです。スマホをチェックし、、、そうそう、、、あいつに昨日LINE送ってたけな、、、が起こります。「私」起動の流れ、、、この流れに自覚的になっていきます。すると「私」が現れ出る前と現れ出る後、、、幻想出現以前と以後の違いにハッキリと気づくはずです。この重さ、気怠さ、息苦しさの発動に自覚的になってください。

自覚できると

なんだよこれ、、、記憶から勝手に勝手に自分が蘇るだけ、、これ幻想じゃねーか!!!!記憶がなければ立ち現れることができない「私」って完全に幻想じゃん。。。が起こります。すると置かれた状況が何であろうと、、、周囲が忙しなく活動していようと、、、笑えてきます。みんなこれが幻想って気づかずにこうやって「自分」という幻想に取り込まれているんだな、、、という気づきが起こります。

重くない

この重い重い重い現実を、、、軽くするには、、、、、これぞ幻想!!!!!!という見抜きが重要になるのです。記憶が蘇らせる、、あらゆるデータ起動、、、この立ち上がりに注目します。「自分もいない、時間もない、空間もない」というスローガンを1万回叫ぶより、この起動の流れに自覚的になるのです。幻想としての私の立ち上がりこそが「放火魔」発見以上の価値があります。

立ち現れる状況

記憶

この部屋の景色を認識します、、、その瞬間に、、、この部屋の住人「私」が現れ出るのに気づきますか???????皆当たり前だと思っています、、朝起きたら全く同じ部屋があって、、、だからだから、、、この私が「記憶」から蘇ることができているのです。この対象としての「部屋」が無ければ「私」も現れ出ることができません。ホテルに泊まった時は「あれ??????見慣れない部屋だ、、、そうだ、、、、昨日私が泊まった部屋だ、、、、、、」という記憶が蘇るはずです。

居ないに辿り着く前に

「私」とは幻想であり、、間違いなく居ないわけですが、、、ですが同時に朝目覚めた瞬間にしっかりとその幻想が立ち上がることに気づかなくては、、、ラットレースです。なぜならば居ないというのが事実でも幻想としての「私」は100%存在するのですから。するとこの朝幻想の私が起動するその瞬間に自覚的である以外に「私」出現を発見するチャンスはないのです。

大人

大人の目覚めが非常に重いのは、、、「私」を取り巻く起動データが重いからです。大量の記憶データが蘇り、、、起きた瞬間から重くなります。重いのはダメなんですか?????駄目では全くありません、、そうではなく、、なぜ重いのか??????記憶にデータがガッツリと溜まっているということに自覚的になります。大人の方がデータ蓄積が多い分、、この「私」起動に自覚的になりやすいのです。

私物語再開

熟睡から目覚めた時、、その瞬間、、視界に何か物が現れ出たその瞬間、、私物語が再開します。監督の「スタート」が聞こえます。これが自動的に起こります、、よし今日も「私やるぞ!!!!!」ではない。。そうじゃない。。。そうじゃなくて、、、、記憶から自動的に立ち現れるのです。そのメカニズムに自覚的になります。

朝起きた瞬間

記憶

朝、目を覚まします。目を覚ました瞬間、この視界が入ってきます、部屋の視界です。その瞬間、、、記憶から「私」が蘇り、、、、「私」がこの体の中に現れでます。そうだ、「私」とはこの体の主人であり、、昨日はこんなことやってたな、、、、。そして今日はこれやんなきゃ、あれやんなきゃ、、、、と「私」が始動します。この感覚「私」がまさに始動するこの感覚に自覚的になってみてください。

「私」が立ち上がっていい

PCが立ち上がる感覚、、、視界を見た瞬間に記憶からこれは「あれ」これは「それ」と立ち上がっていきます。そしてその先には必ず「私」という感覚が立ち上がり、、昨日「私」は何やってたっけ?????が起こるのです。「私」が置かれた状況が記憶から徐々に蘇っていきます。そして「私」が安心する活動が始まります。

見抜く

「私」という存在は当たり前過ぎて「本当は居ない」という見かけ上の覚者の発言に最初は面食らいます。ですが理屈では「確かに私って居てはおかしいよな!!!」が起こるのです。そしてだとすればこの今感じている「私」とは何だ?????が起こり、、、これは記憶から蘇る幻想だ、、という気づきが徐々に徐々に起こるのです。するともう「私」が出現してもパニックが起こらなくなります。

実は

本当は本当はこの記憶から自動的に蘇る「私」の出現はパニックを起こします。誰しもが、、朝目が覚めた瞬間同時に起こる「不快感」に気づくはずです。全開で「最高」とは絶対に思わないはず、、瞬時に何か重い重い感覚が起こりませんか?????このことに気づきます、、「私」が現れ、、どこかでパニックが起こっているという事実に目覚めるのです。そうです居ましたね、、パニックを引き起こす真犯人の登場が。

頭で考える「私が居ない」

非二元のメッセージに触れ続け、、どんなに「私が居ない」と言う言葉を浴び続けようが、、記憶から自動で起こる「私」に目覚めなければ、、私たちは思考の中の「私が居ない」を掴み続けるだけです。これは暗記のようなもの、、ただのスローガンです。そうではなく「私」が記憶から現れ出る現場を捕まえなくてはダメなんです、、その時、、、、無かった所から現れでた瞬間を捕まえるのです。

飛び出す

大好きだったクラスメイト

地元で大好きだったクラスメイトと、、突然東京でバッタリ会います、、、、その瞬間「見たことない自分」が現れでます、、、、瞬間芸です。この瞬間芸、、、、誰がやりました????????自分が「見たことない自分」を作ったんですか????????違いますよ。記憶が「見たことない自分」をでっちあげたのです。今の自分が突然消え去り、、、「過去の大好きなクラスメイト前バージョンの自分」が記憶から湧き出たのです。瞬間芸です。こんな瞬間芸が出来るは自分とは記憶が作り出す幻想に過ぎないからです。

バイト先

その帰り道、、バイト先に行きます。。。そしてバイト先に行ったその瞬間「バイト先バージョンの自分」が現れでます。過去の記憶から、、そのバージョンの自分が飛び出し、、さっきまでのワクワクウキウキの自分が消えるのです。つまり1日で3人の自分が飛び出したのです。

親からの電話

バイトが終わり自宅に帰ると「親からの電話」、、、、その瞬間「親の前バージョンの自分」が記憶から飛び出ます。瞬間芸です。ここに意図は全く全くありません。記憶が勝手に作り出すのです。急に太々しい自分が現れでました。「何か用?????用がないなら電話要らないんだけど。。。。」本日四人目の自分です。

さて誰が本当の自分?????

さて、、、、、この四人の自分誰が本当の自分ですか?????????全部記憶から湧き出るならば、、、全部自分ですよ!!!!自分の要素が変わっただけでしょ!!!!!違うんです、、、全く違うんです、、、、自分とは記憶毎によって全く別人格が現れ出るのです。だからどれもこれも違うということです。本当の自分とは記憶でもなく、、、、よって全ての現れの根源です。その根源から記憶が現れ、、各バージョンのあらゆる幻想の自分が現れ出るのです。