許すとは見抜くこと

子供同士の喧嘩

子供同士がお菓子の取りあいで喧嘩をしたりします。自分のお菓子だ、相手のお菓子だ、、お菓子の所有権で争うわけです。大人はそれを見てお菓子ごときで競い合って可愛いねーとなります。大人にとってはお菓子が些細なものであると見抜いているのです。ところが大人も金銭トラブルでは争うのです。10万円という金額で争いますね。これを高い視点で見れるようになると10万円という金額で争うということがなくなります、先ず解決できないようでしたら警察、弁護士に相談して法廷で争えばいいとなります。このように相手に対して許せない、、という感情がでるのは見抜けていないからです。

大人同士が争う時

大人同士の争いはエゴが絡みます。先ず自我というものを形成すると「苦しい」が常にあります、ストレスを常に抱えている状態です。この状態でミスを犯しますと、、、そのミスに腹を立てるという状況になるのです。大人は基本「苦しい」に侵されていますから、、それを前提に争いが起きるのです。そのことを理解しますと実は相手には非はなくとも争いは常に起こり得ることが分かるのです。

争いの原因が自我

争いの原因が自我であると、そして自我は実は存在しないと。つまり人間は全く存在していない存在を存在していると思いこみそしてそのことで苦しみを抱えトラブルを起こしているのです。相手の行動は実はきっかけでしかなく本質的には偽りの自分が作り出した毒を食らっているだけなのです。これが分かってきますと人を恨むのは無駄であり何の解決にもならないことから許せるということになります。

善悪がないのならば人殺しは???

起きることが起きるならば

この現象界ではニュースなどで人殺し、殺人事件などがあったという現象が起きます。全ては起こるのだけなのだから人殺しもただ起こるのか???ということです。分離感覚を持った社会では基本人々は苦しいので、、、その苦しさゆえにトラブルが起こり、、最終的に人を殺めるという展開まで起こることはあるでしょう、現象として。ですがそれは分離意識がそうさせるのであって分離感覚が削ぎ落とされた場合には「苦しみ」がないのですから人を殺そうという動機が起きにくいのです。三億円の宝くじが当たった後に人の悪口を飲み屋で朝までした、、がありえないのと同じです。

世の中の悲劇は

世の中の悲劇は自我が起こした分離感覚が大きな原因です。先ず最初にここなのです、分離感覚がなく苦しみはない状態で人を責めようとか、攻撃しようとか発想が起きない。お腹いっぱいのライオンがシマウマを殺さないように必要がまったくないのです。だから我々は何も恐れず自我を俯瞰し自我を解体することにすればいいのです。この苦しみを終わらせたという衝動が今あるならばその衝動の根源に向かえばいいのです。

何でも起きうるのは確か

この世界は完全なノーコントロールですから勿論自我抜け落ちた後に犯罪に走るということは見かけ上起こるかもしれません。それをコントロールする誰かが居ないのですから。ただし自我が形成されていたとしてもノーコントロールは同じなのです、、、ですからやはり何でも起き得るのです。苦しみのない状態でも何でも起きえますし苦しみがあっても何でも起き得るのです。

「異次元の何か」から自由自在に起こる

それを切り取ってストーリーにする

この世界の絶対のルール、、それは全現象は、「異次元の何か」「空、絶対」から勝手に湧き上がるということ、、ここにはルールが全くないということです。ここのルールがあるとしたら、、「異次元の何か」はルールに縛られていることになり無限の存在ではなくなってしまうということです。ですから今ここで起こる現象が、、いかに因果関係があるように見えてもそれはそう見えるだけということです。

私は一生懸命勉強したから試験に受かりました

このストーリーは誰もが信じやすい因果関係です、、、勉強を一秒もしなかったからテストが0点、いっぱいしたからテストが100点、、、、、ですがこの勉強をどのぐらいするか、、ここが自動現象なのです、、その結果としてテストの点数がされるのは事実です。次の日は全く勉強をしたくないが起きるかもしれない、、だから多くの人が思っているこのストーリーの因果とは違うということです。自由意思が全くない状態で因果という言葉は意味が変わりますよね。

大人が家族を大切にする理由

家族のために

人間は大人になるにつれて責任感という言葉を口にするようになります。子供の行動は「ただ楽しいから」ですが大人は「責任感」という言葉で動きます。大人はもう「楽しいから」では動けないんです。大人はなぜそれをやったの????と問われれば、、しないといけないから、、それが責任だから、、、となります。家族をなぜ養うのか?????その責任があるから、、、となるのです。ここで「ただ楽しいから」にはならないんです。

分離感

大人になりますと自我が形成されることで分離感が強烈に芽生えるので「苦しい」「憤り」が基本感情になりなす。常に「苦しい」なのです、すると、、何かを楽しいという理由では動けないんですね、、、もう既に。だから子供を育てるのは仕事だ、責任だ、、と義務化していくわけです。そして子供は育てあげれば今度は自身の保護者になる可能性もありますからそれに期待をしているのです。そのためなら頑張れるのです。

いいとか悪とかじゃない

自我が形成されるとそうなりますよ、、、という話であって、、こうした方が良いという話ではありません。そもそも自我を形成したのは自分ではないのです、自我は勝手に形成されたのです。だからこそ今後も自我は勝手に解体されるのです。形成も解体もする自我が本当は存在しないからです。この事実を俯瞰しますと、自我の解体が進む可能性があります。なぜならば自我を俯瞰している存在とは、、自我ではなく「本当の私」だからです。本当の自分が「自我」を観察し始め、、自我に意識が向かなくなった時に自我が解体し始めます。

欲望とは分離感覚で起きる

楽しみは「在る」から起きる

子供時代、何かをして遊ぶ時に欲望を発散しているという感覚はありませんでした。ただ面白いから遊ぶ、、それだけです。ところが大人になってくると、、、「欲望の発散」動機の大元になります。ただ集まって食事しよう!では人は集まらず、、、出会いを求めて、、仕事を求めて、、人脈を求めて、、と何か欲を満たす要因がないと集まらないのです。子供時代の楽しいから、、、じゃない、、もっと重い感情に支配されているのです。

大人になるにつれて

大人になるにつれて、、、体の中に自我が形成され、、そのれによって分離意識が形成されます。これはそのまま孤独、分離感を生み出し、、苦しいがわき起こるのです。「苦しい「」がデフォルトになるのですから、、楽しいからおいでよ!!!では集まらないわけです、、苦しいを取らないと楽しくないことは分かっていますから。ということで何のために???という欲望を満たす要因でなければ楽しくないのです。

欲望を満たせば

結局のところ欲望を満たすのは「分離感」の一時の解消なのです。自分は分離しているという錯覚を、、、何かを手に入れることで一時的に解消しているのです。ですからこれは楽しいではなく「一瞬の楽」になることです。楽しむとは、その行為自体が面白いということであり、これには目的がないのです。

子供はなぜ欲望ではないのか???

子供はなぜ欲望ではなく純粋楽しいをできるのか???それは分離感覚がまだ薄いからです。この体の中に自分という存在が育っていないからです。だから行為そのものを楽しめるのです。では大人はどうしたらいいのか???育て上げた自我、自己意識を再び解体するのです。自我自己意識を俯瞰してそこにエネルギーを注がない、、自我、自己を観察し、、現象の一部に戻するのです。すると観察する存在、、大いなる存在、気づきの意識に戻ります。まだ自我が形成されていなかった子供のようにただ楽しい、、が起き始めます。

分離の感覚なしに食べていけるんですか?

今まではどうやって生きてきたんですか???

働かなきゃ、良い大学に行かないと、ちゃんと面接受けないと、毎日仕事に行かなくちゃ、、、こういった発想、思考がなぜ今まで「あなた」の中に起きてきたんでしょうか????「あなた」がその発想を作り出したんでしょうか????違うんです、、全部勝手に湧いてきていたんです。その現象を「私」がやっているという感覚が起こることで、、、私は良い大学に行くことを決めたという大勘違い思考が起きたんです。

だから分離感覚なしでも大丈夫

全ては起こるだけんで将来何が起きるかは全く分かりません、ですが過去を振り返れば全自動でそれが起きていたことだけが分かります。つまり過去はそういう理由で食べてこれたということです。だから将来分離感覚がなくても食べていけるという保証は勿論ありません。そうはいっても「私」という分離感覚なしに本当に生きていけるか心配です。

なぜ心配が起きるか????

なぜ「この体の行く末」に心配が起きるかと言えば、、、この体の中にやっぱり「自分」が居るからなんです。。それが抜け落ちた時に逆に言えば心配できないはずです。だから分離感がなくなっても食べていけるか???という質問自体が矛盾しているんです。その時にはそのような心配が起きえないのです。3歳児になぜ将来のことを心配しないのか????怒っても本人には意味が分からないのと一緒です。

ここには十分が存在しない

私はまだ十分じゃない

私はいつも十分じゃないんです、これまでの人生振り返ってあの一年は十分しか感じていなかったなーってないんです、過去を振り返ってそんな経験したことないはずなんです。なぜか????「私」という存在感覚こそが分離の存在だからです。分離しているから十分を探すのです、、ですが探す場所が私以外の場所なんです、、そこもすでに分離していますから十分はここでは見つからないんです。

このトリックを見破る

このトリックを見破らない限り、、「私」は飢餓状態餓鬼畜生状態から全く抜け出れないんです。常に次次次の連続です。。じゃあこの理屈は分かった、、で十分は手に入るのか??????入りません、、なぜならば思考はこの事実を理解できないからです。脳はこの事実を理解できません。私という感覚が実はフェイクでただの思い込みであることに気づくのは「十分という存在」です。でました「十分という存在」

私が十分を探すのは???

私が常に十分を探し求めるのは、、、本当の私自身が十分だからです。え????????そうなんです、、体の中の私を演じているのが「十分過ぎる自分」なのです。だから「私」を演じると不足感が湧くんです、、そしてこの不足感を埋めてくれる何かを探し続けるのです。あるわけがないのですが、、、。そしてそしてこの真実に気づいた時に、、ずっこけちゃうんです、、何のこっちゃです。そうなるともこの中の私に関心がいかなくなり、、関心が行かない「私」は存在感が薄れていき、、、もう私が立ち上がらない、、になります。すると真の安らぎ、真の平和、、真の安心感が芽生えてきます。

大人が子供を可愛がるように

何も知らないは可愛い

子供の質問って可愛いんです、知らないことをそのまま直球で投げてくるわけですが全く予想だにしない質問は可愛らしくあります。そしてそれは真実に触れた際に、、全くそれに気付いていない人々に会った際にも全く同じような感覚を覚えます。なぜ苦しいのか???全くの見当違いを見かけ上している人々(ほぼ全員)に会うのは面白いし可愛らしいのです

一生懸命会社の愚痴を言う人

会社の愚痴が始まると止まらない、、二時間三時間全職員の批評が始まるのです。本人はなぜ止まらないかが分からない。実は「この体の中に自分が居る」という感覚こそが作り出した「本当は誰???」に基づく不快感、憤りが、、会社の愚痴になって表面化しているのです。だらかどんなにこれを話しても、、放れないのです、、違和感が。「私」が話せば話すほどに、、「本当は誰??」が強化されていくのです。なぜ苦しいのか全く分からず見当違いの行動をし続けるって可愛いんです。

悟りの話

悟りの話を外でしてもほぼ99%興味すら持たれないでしょう、、なぜか?????「私」として何十年間も生きてきたのに、、「私」が居ないって話、、、勘弁してほしいのです。今更もう遅いでしょ!!って話です。今だってこの私には母親としての顔、仕事人としての顔、ママ友の中の一人の顔、サッカースクールの役員、、、何個役をやってんだ、、って話です。実は私は居ないって、、、、遅すぎるんです、、タイミングが。

違うんです

遅過ぎるからいいんです、、もう一人の体で何重層もの役をやっているからこそ、、、この重さを手放したいんじゃないですか?????そうです、、手放すには、、重さが必要なんですよ。。。。。アイデンティティのパラダイムシフトは、、一気にドカンがいいんです。そのためには「自分」に疲れている時が最高なんです。この体の中に自分が居るって感覚に疲れ果てた時に、、ドカンがきやすい。

アイデンティティのシフト

渋谷のスクランブル交差点

渋谷のスクランブル交差点で、、何千人もの人々が目の前を歩いています。そこに田舎からでてきた「私」が一人歩きます、、たった一人、、、孤独感、寂しさ、虚しさ、無力感あらゆる感情が湧き出します。これが私をやるということです。一方事業で成功し仲間を引き連れて渋谷で飲み明かしている人が居ます、、、、恍惚感、達成感、自信あらゆる感情が湧くでしょう、、これも私の人生です。多くの人々はこの両極の中を行ったり来たりしているわけです。

真の安らぎの中に

その中で孤独も感じず、恍惚感も感じない、不幸も感じることなく達成感も感じていない人が居ます。それがもうこの体の中には自分が居ないことに気付いた人です。気づきとはこの体の中で起こるのではなく、、本当の自分から直接くることに気付いた人です。全現象、見える世界を作り出し、それに気づく存在、、それが本当の私です。「別次元の何か」からこの現象が湧き出し同時に気づかれる、、この体もこの思考もこの感情も然り、、、、この気づきが起きますと、、、人間としての感情から解放され、、、ただ真の安らぎの中に居れます。

人間脱出が素晴らしいのではない

この体の中に「自分」が居て、、、という思い込みが悪いのではありません、、、全ての現象は「別次元の何か」から起きることでありその現象に優劣などありえないのです。ですから悪いとか良いとかは一切ないのです。ですが今ある苦しみ、今ある憤り、本当は誰だ????という真の疑問がもう湧いてこなくなるのは真実です。本当に我々が求めていたのは「これ」だったという気づきが起きます。

完璧の描写

隕石の落下

今目の前で隕石の落下が起こったとしましょう、これは人類にとってはとんでもないことです。地球史上最悪の事態かもしれません、、、、ですが、、、冷静にこれを分析すると全く違う真実がわかってきます。今ここで起きている現象は「別次元の完全完璧」の投影です。別次元の完全完璧から現象が起き上がり、、それに気づくという現象が起き上がり、、故に「我あり」という現象が起こっています。別次元の完全完璧の投影において悲惨とか最高とか恩恵とか罰とか、、、あるわけがないんです。それらの発想は「この体の中に(我あり)が存在している」という思考感覚が起こしたストーリーです。

壮大な映画を見ている

隕石が落ちれば世界中で大災害が起きるかもしれない、、そしてそれはこの体にとってはもしかしたら大変かもしれない、、、ですが、、、そういう現象が起きているだけです。だから不幸、惨め、孤独、、、、という感情が起こって当然といのは嘘です。真実ベースでは、、、何が起きようと、、、真の安心が壊れることはないのです。「この体の中に(我あり)が存在する」という感覚こそが惨め、不幸、孤独を作り出すのです。そして本当に大惨事になればそのような発想は抜け落ちます避難に専念しますから、、常に真の安心が消えることもないのです。

真の安心の中で

もしもこうなったら、、もしもああなたら、、、、と思考することで、、今悲惨、不安、苦しみを作り出しています。今もしも大惨事が今ここで起きていないのならば、、それらの感情は無駄です。重要なことは「この体の中に(我あり)が存在する」が嘘だということを見抜くこと、、そして真の安心を今ここで得ることです。本当に大惨事が起きた時には「この体の中の私」に構っている場合ではないので実は真の安心の中で行動が起きます。