簡単だけど難しい

理屈は簡単

理屈は至って簡単なんです、、簡単過ぎるかもしれません。ですが「私」という固定観念は強力で強力過ぎるので、、、、、出来事が起こった瞬間に記憶からダイレクトに、、物語が湧き上がります。そのこと、これは何も問題がないのですが、、、その湧き上がったという事実に無自覚であると、、、、孤独感、無力感、分離感が湧き上がるのです。なぜ湧き上がるのか???????「私」=孤独、無力、分離であるというイメージだからです。イメージをイメージと見抜いていないその時、、これが起こるのです。

私というイメージが、、、

私というイメージが、、今コーラを飲みたがっています。私というイメージがあなたと付き合いたいと思っています。私というイメージが今週旅行に行きたいと思っています。私というイメージが運動をしたいと思っています。私というイメージが今晩お酒を飲みたいと思っています。私というイメージが今年フルマラソンに挑戦したいと思っています。

おかしい

分かりますか?????????変ですよね????????????イメージが主語になるって違和感感じませんか?????????そうです、、、そうなんです。構造上、、ありえないのです。あり得ないにも関わらず、、、、人間業界ではこれを大真面目に採用しています。だからこの世界には争いが絶えず、イザコザが絶えず、事件が絶えないのです。この構造的欠陥を見抜く、完全に見抜くことが悟りです。

ストーリーが無かったら

怒り

この「私」が存在してこの「相手」が存在しているから「怒る」という出来事が起こります。ところが「私」も「相手」も幻想として存在しているのであって実在はしないのです。だからこの大幻想を思い描くことで起こるのが「怒る」ということです。ですがこの「怒り」は今幻想として、、それが起こっていること、ストーリーがまさに展開されたことを露わにします。いかに全部幻想でしょ!!!!って高みの見物を気取ってもしっかりとしっかりと、、怒りという感情が「物語の再生」を証明するのです。

だから

怒りが出たら気づくこと「しっかりと物語が再生された」です。このことに気づくのです、、「痛い」ということはそこに「物語」があるのです。幻想として物語が再生されたこと、、、そしてそれも幻想と思ってはいても気づいてはいないことに気づきます。つまり、、、、痛み、怒り、悲しみ、悲壮感、、などは、、、、私物語上映中の「サイン」なのです。これを無いことにするのではなく、、、、しっかりとしっかりと物語の存在に気づくのです。

まだある

世の中の人々は絶賛物語上映中、、、大前提で、、、動いているように「見えます」。だからついつい無自覚でいると、、、私物語が上映されます。そのことに気づきます。しっかりと私物語が今起こっているぞ、、、ここに気づくのです。悲しい時、、、、ほら、、、今私物語が上映されたから、、、「悲しい」が起こったのだと。そこに気づきます、、悟りを学んでいるのだから「痛み」なんて感じるわけがない、、、ではなく、、「痛み」からその事実に気づくのです。

自我というデータ

そのままに起動する

あなたが今無力感を感じ、孤独感を感じ、分離感を感じ、悲壮感を感じているならば、、「あなたというデータ」にはその情報がハッキリと残っているのです。だから「わ・た・し」と発したその瞬間にデータが読み込まれ、、「無力感、孤独感、分離感、悲壮感」が起こります。この感情が要らなくて要らなくて余計で余計で目障りで目障りで邪魔でしかないから「仕方なく」美味しい焼肉を食べよう、美味しいピザを食べよう、スポーツ観戦しよう、デートをしよう、車を買おう、転職しよう!!!!が起こるのです。ですが真犯人と、、この行動は全く関係がなく、、、、、結果これをやり続けて人は死ぬのです。

事実じゃないですか!!!!!!!!

そんなこと言ったって、、、私は80億分の1であり中肉中背であり偏差値も50前後であり収入も平均周辺であり顔もそんなもんであり、、、、、、、、、事実だからしょうがないですよね!!!!!!!!違います、事実では全くありません、、、、それ全部幻想妄想です。「わ・た・し」とはこの体ではないのです、この体は「わ・た・し」の中に現れる登場人物Aに過ぎないのです。だから「わ・た・し」は80億分の1などでは全くありあせん。

登場人物A

登場人物Aは仮に総理大臣にまで上り詰めようと「文春砲」一発で崩壊するような柔で柔で柔で柔すぎる存在であり「わ・た・し」をこの登場人物Aと勘違いした時点で一生文春砲に憶えながら生きていくしかない、、というのが運命付けられているのです。国民の中で一番人気者だった芸人「松○人志さん」ですら、、、文春砲2発で「メディア」から消えました。だからいち早くこの登場人物Aは「わ・た・し」ではないとデータを書き換えてください。

脳内プログラム

あなたはこの日本、東京都、〇〇区、、、の太郎よ。

こう脳内にプログラムされます。。。すると太郎から??????なんで大人は働くの????なんで学校にいくの???なんで結婚するの?????なんで車に乗るの????なんで??????なんで???????が滝のように出てきます、、、なんでなんでお化けです。するとこの「太郎」は何をしてどうやって生きていかないといけない存在かが、、、、インプットされていくのです。「私」と発信した瞬間にその私にはとんでもない「意味」が追加されているのです。だから「わ・た・し」という言葉には実はとんでもないデータが山のように付加されているのです。

私というデータを

そして皆、、この私というデータを「格好良い」「おしゃれ」「性格良い」「真面目」「お茶目」「綺麗」というデータとして保存したいので、、、、、努力します。だから言って欲しい、評価してほしい、聞かせて欲しい、、ので、、、、客観的事実として。あの人に会えば恐らく褒めてくれるだろう、、、そう思い、、会います。

見ぬいちゃえば、、、

そこを見抜いちゃえば、、見抜けちゃえば、、、、、「私というデータ」の更新にパワーを注ぐということに興味がなくなります。「私というデータ」がいかに素晴らしく、半端なく高貴で、、半端なく華麗で、半端なく素晴らしくても、、、所詮は私というデータに過ぎないのです。だから「私」というデータが起動するたびに「分離感」が半端なく、、、、この分離感を解消するためにさらに「私というデータ」の更新に努めるのです。

私→自我(脳内プログラム)

認識

ある時、、ある日、、、突然、、、、私が、、、、自我であることに気づきます。それまで私は私だったんです、、、ですが急に、、、あれ、、、、私って自我って呼ばれてるけど、、、、そうだ自我だ、、、、、、私という実在じゃなくて、、、自我という思い込み、プログラム、、、、、脳内プログラムだ!!!!!という気づきが起こります。

記憶が飛べば

記憶が事故で飛んだ瞬間、、、私は消えます、、、、消えてしまう私、、、、消えてしまう私ならば、、、私は完全完璧に作り物であり、、、、、ならば最初から存在していなかったのは明白です。ですが人類80億人が「私は居る」と盲信しているので、、、、、誰もそのことを言い出せないのです。だから今「私」が声を大にして大にして発信しているのです。

自我と見抜かれる

自我が脳内プログラムであることが完全に完璧に見抜かれた時、、、、、何かが変わります、、、脳内プログラムのために「何かしなくては!!!!!!」が起こらないのです。頑張って頑張ってこの脳内プログラム「自我」のための結果を出さなくては!!!!!!!ってしんどいです。やる気ゼロです。努力して、磨いて、研磨して、、もっと素敵な「脳内プログラム私」を羽ばたかせたい!!!!!!!!、、、、、、しんど!!!!!です。無理ゲーです。いい加減にしてくれ、、、、です。

思考

立体映像

信じられないかもしれませんが、、、今ここが立体空間であると認識しているのは、、、脳の機能です。平面でしからないここを脳が立体映像に切り替えています。平面の画像が、、ここに広がり、、それを脳が立体構造にし仕立て上げているのです。どうやって??????目の前に現れ出る、、画像を記憶で切り抜き、これがある、あれがある、そこにこれが、、、とあらゆる物質が存在するかのように、、認識し、、よってここは空間であると、、、予想しているのです。

本当は

平面でしかありません、、というよりも、、画像のみ、、、画像のみが、、ここにあるのです。「見」という経験のみがただエンドレスに続くのです。これは経験ですから、、、、実在ではなく、、、、ただそこには「見」という経験だけが続くのです。考えてみれば当たり前の話で、、、ここに物質が存在するというのは完全なデタラメです。なぜか???????物質が存在してしまったら、、その外、その外、、とエンドレスに物質が広がらないといけなくなります。理屈として破綻しているのです。

あの山にはお化けがでるから近寄るな

本当は

本当は本当はあの山は危ない崖が多く、、子供には危険であると判断した大人が「あの山はお化けが出る」そう大人の嘘をつきました。。。これよくある話、、方便です。「この体には自分が居てこの自分はこの広い世界で一生懸命勉強して働いて生きないとだめよ」これが大人の嘘です、、、これが方便です。だから子供は毎日毎日雨の日も雪の日も風の日も学校に行きやがて会社に行き、、人生を全うします。

ですが

本当は私なんて居ません、、本当は山にお化けが居ないように、、本当はこの私とはこの体の中には居ないのです。この体の中に居る私は、、「この広い広い世界とは分離した小さい小さい孤独な私で、、無力で非力で、、だから毎日毎日学校に行って社会から評価してもらって食べさせてもらわないといけない存在なのよ」そう教わったから、、、、そう感じ「孤独感、分離感、無力感、非力感」を味わっていますよね???????今まさに。これってお化けを信じて今も今も怖がっていることと何も違いはないですよ!!!!!!

この体も

この体もあの体も、、あの人もこの人も、、、、見える対象は全部、、、、本当の私ではなく、、、、本当の私以外です。。。。。ですから見えるし、聞こえるし、触れるのです。。。。そしてこの見える対象ではない「本当の私」は見えないし、聞こえないし、触れない非対象「非二元」です。と同時に、、、、この見える聞こえる触れる嗅げる味わえる対象の全ては、、、、非対称の影であり非対称と対象は二つで一つなんです。この体の中に「私」が居るという嘘も、、、、大きな流れの中で起こった、、生命現象です。

嘘コレクター大人

大人とは

大人とは嘘コレクターです。嘘を本当だと信じて嘘をかき集めていきました。本当と信じる嘘をかき集める理由は何か???????今が居心地が悪いからです、、今が居心地悪いから、、、、、、なんとか改善しようと真実と呼ばれる嘘をかき集めるのです。ですがそれは全部嘘なんで、、、、益々居心地が悪くなるのです。

「個人が居る」を前提にした嘘

結婚すると幸せになれるぞ!安定した仕事に就くと幸せになれるぞ!!マイホーム手に入れると幸せになれるぞ!!!友達100人作ると幸せになれるぞ!!!!!全部嘘です、、、嘘なんです、、、だって手に入れる存在「私」こそが今まさにここに居心地の悪さを作っているのですから!!!!!!!

この嘘は優しい

ですがこの嘘を憎んではいけません、、、なぜならばこの嘘があるから、、、、この小さい体は安全に生き延びてこれたのですから。ミルクの代わりに嘘を大人は子供に与え(無自覚)、、、、「あなたはこの世界でたった一人食べて生き延びていくのです」と教え込み、、、それを信じる動きが起こることで、、、衣食住を求めた活動がスタートします。ですがこれは嘘なんです、、、だからどうしても居心地の悪さが消えず、、よって衣食住が満ちようとも苦しみ続けるという「大人」が誕生します。

お葬式

子供

お葬式の重い重い雰囲気の中で小さい子供が「キャッキャ」と遊びます、、、泣き叫ぶ大人を尻目に、、、、「キャッキャ」と遊びます。。。。。。子供は無知だからでしょうか?????勿論無知です、、、、ですが泣き叫ぶ大人の存在は、、、、影響を与えないのでしょうか????????子供にとって泣き叫ぶ大人も「面白い」のです。雰囲気ありげな「坊さん」も「面白い」なんです。。。そしてキャッキャと笑うこの体も「面白い」なんです。

やがて

人は死んだよ、、、人は突然いなくなっちゃうんだよ、、、、そうしたら今見てるこの世界に居られなくなっちゃうんだよ、、、、と言われそれを鵜呑みにすることで「恐怖心」が芽生え、、、笑えなくなっていきます。これはこれが学習した概念ですが、、、その概念をイメージできるようになると急に重くなるのです。そうです子供は大人に教わった概念(イメージ)を概念化(イメージ化)できるようになって重い人種にシフトします。

突然この体が「見える対象」ではなく、、、この「体が私」と教わり、、、、この「体である私」が死んだら、、ここにはもう居られない、、、と教わり、、、、恐怖心を植え付けられ、、、、重い重い人生ストーリーが始まります。ですがこれは悪いことではなくこの外部環境の中で食を確保していくために教わる嘘です。

重いデータが起動しなくなるという事実

経絡

経絡マッサージをしてますと、、重い重いデータが起動しなくなります。やれば分かります、、、、落ち込めないのです、落ち込むような「思考」が湧いてこないのです。恐らくその経絡上はが「重いデータ」湧き上がると関係があるのは事実です。見かけ上の経絡と呼ばれる場所が重いデータ起動と密接に繋がりがあります。見かけ上の経絡に沿ってマッサージをしますと、、重い記憶が起こらなくなるのです。

何もないのに??????

この世界に何もないんですよね???????違います、、在るんです100%、、、在るのですが、、、それが在るように見える、、ということです。経絡という物質も体という物質も全くありません、、、ですが触れば「触」があります。「触」という経験が起こり、、、、「重くない」という経験が起こるのです。

ペインボディ

エックハルトトールはこの重いデータと体の関係をペインボディと言い現しました。スポーツ選手はみんな知っています、、、運動しないと体が重くなり、性格も悪くなり、、人生が陰転することを。このペインボディを能動的に小さくする方法が経絡マッサージです。多くの方はペインボディを自分自身と考えてそれを消すという概念がないのです、、それが私だから、、、、です。分かっている方は分かっているのです、、それは自分ではないと。