信じる、、ではない

真実を確かめる

真実は概念ではありません、真実とは解釈でもない、、真実は観念でもありません。真実とは疑う余地がない事実これです。だから真実は小学生でも気付けることです。知識が無ければ真実に触れることができない?????嘘です大嘘です。言葉を多く知らなければ真実は理解できない?????真実は思考での理解ではありません、真実とは触れるものです。触れれない真実は真実ではありません。

コーヒーカップ

目の前にコーヒーカップがあります。先ずそう見えるという事実があります。そして「コーヒーカップ」という言葉を知らなければそれがコーヒーカップとは気づけません、、だからそれはその思考認識が現れたのです。それが事実です。コーヒーカップと言う言葉を知らない時、、そこにが「それ」を含む景色だけがあります。それが事実です。奥行きがある?????いやいやそれはそう「思考」したのです。奥行きを感じるならばその「思考認識」が起こったのです。

「見」「聞」「嗅」「触」「味」「思考」「感情」

真実を確認してみてください、、、本当に本当に上記の7つの経験以外が起こっていないのです。この7つがただエンドレスに起こり続けるだけです。確認すればこれは小学生でも分かるのです。世界とはこのことであり、、そこには空間も時間もないのです。だってこれが起こるだけだから。「空間あるよ、時間もあるよ」という思考は起こります、、ですがこれはまさに「思考」です。それ以外は、、ただ上記の7つが起こり続けるだけです。

私はパスタを食べた

魔法

「太郎くんはパスタを食べた」から始まり「僕はパスタを食べた」になり「私はパスタを食べた」になります。大人への階段で表現が変わります。ですが意味が全く変わります。何が変わるのか??????太郎くんの時と僕の時と私の時では、、、その言葉の背景が全くことなるのです。太郎くんの時、、それはただこの体を差して「太郎くん」と呼んでいました。僕の時、、それは家族の中での僕でした、、、ところが「私」と呼ぶ時、、、それは世界80億人とは分離したこの個体としての「私」になります。つまり分離がかなり進んだ「私」なのです。

分離

世の中を知るということは「私」の意味が全く変わってしまうということです。家族の中の私から、、、この村の私、、、次に日本という広大な国に住む私、、、世界80億人の中の私、、、、、私に付随する意味が徐々に徐々に変わっていくのです。。。つまり分離の強度が強く強くなっていくのです。「私はパスタを食べました」これは宇宙に対して、、全く違った意味での宣言になるのです。つまりこの言葉を発する度に強い強い分離感を感じることになるのです。

だから

だからといって、、この世界が、、80億人住んでいる、、というこのことを今更無いことにして、、生きるのは不可能です。社会で生きていく際に共通認識が無ければ生きていくことができません。社会ではどうなっているか?????ここを認識せずして社会生活が送れないのです。ではどするのか???????簡単です、簡単過ぎます、、、「私は」という言葉にはそのような意味が込められていると同時に、、、これは完全の幻想に過ぎないという「分離の全否定」に気づくのです。『「私は80億分の1の存在である」という意味でこれまではを使ってきたが、、本当は分離など存在せず、、そう思ってきただけ。』という新しい認識にシフトした時、、もう分離感は生まれようがないのです。

分離感からの解放

真実は嘘を露わにします、、、、真実に気付いて「嘘を信じ続ける」これはできないのです。つまりこれからは「私」という思考が湧いても、、、その私は80億分の1の「私」ではなく、、、ただの思考、幻想に過ぎない「私」であるという新しい気づきに基づく「私」が生まれます。だから私は私は私はと連呼しても、、今までとは全く湧いてくる感情が変わってしまうのです。

全部を受け入れよう!!ではない

悟りを学びこれからは

悟りを学びこれからは全部を受け入れていこうと思います!!!!、、、残念!!!全く違います。受け入れる受け入れない、、、なんて考えてどうではなく、、、、全てが全自動で受容されています、、という話です。「強烈な皮肉を言われた」その時、、その皮肉も、、その皮肉に対する強烈な怒りも、、、全受容されています。だから皮肉を言われ、、ムカついた!!!!というドラマが作りあげられたんです。この事実に気づいた時、、何かが変わります。

拒否権はない

強烈な皮肉を言われ、、、その認識が起こります。。その認識に対して、、、「流す」「やり返す」「無視する」「三倍返しにする」「落ち込む」全可能性が用意され、、何が起ころうとも受容されます。だからドラマが続くのです。全シナリオが用意され全シナリオが受容されます。今までの人生が完全にそうなってきたことに気付いてください。

この広大なスペースが自分自身

相手の一言に対してどんな反応がここから起ころうとも、、全てが受容される、、この事実この事実に着目した時、、、そしてその受容こそが本当の自分自身であると気づいた時、、、、この世界で起こる全てを受容してきた自分自身の寛大さ、壮大さ、脅威に感動します。「私」を取り巻くあらゆるストーリーがこれまで展開されてきたという事実に驚愕するのです。そしてこれからもそれは続きます。続きはしますが、、これからはどんな反応がここから起ころうとも全く違う視点でこれを見守る何かが生まれます。

全受容

選択できない

起こる全ては完全完璧に受容されます、、、考えちゃいけないこと、、ありません。。どんな卑劣な考えも受容されます。そしてどれほど崇高な考えも受容されます。受容されない考えはありません。そして受容されない感情もありません、全感情が受容されます。そのことを我々は当たり前と思っています。ですがそんなことはありません、それこそがここが無限の表れの場である証拠です。そしてそのことこそが真の癒しなのです。

癒される考え方??????とんでもない

あなたのその考え癒されるわー、、、、とんでもない、、、そんなもんじゃないんです。全考え方が全受容されているそのことが真の癒しなのです。一切弾かれる考えが存在しないのです、、、、何を考えても受容されます。それこそが真の癒しなのです。そして本当の我々とはその受容のことです。全受容する存在こそが我々の本質です。あいつのあの考え方はありえない!!!!その考え方がここに起こりしっかりと受容されているではないですか!!!!その受容こそがわれわれの本質です。

あんな卑劣な考え方の奴に初めて会った

なぜそんな卑劣な考え方を卑劣な考え方と認識できたんですか???????その認識、、その認識こそが我々の本質です。その全受容の認識があるから、、、、全ては成り立っているのです。素晴らしい考え方、卑劣な考え方、、、その振り幅こそが我々の本質なのです。だから我々は最初から救われているのです。

見かけ上の覚者の粗探し

不可能

あの人は実はここが分かっていないんじゃないか、、、エックハルトは本当は空間ってあるとおもってんじゃない????あの人は、、、、この人は、、、、、、、、、粗探し大好きです。。。ですがですが超重要なポイントを忘れています。言語とは、、、この世界を切り裂く道具であり、、この道具でこの世界は「たった一つのエネルギー」であることを証明するのはそもそも不可能です。

説明しながら矛盾を感じる

こブログ自体が完全に矛盾を抱えています。なぜならばこのブログを「読む存在」は存在しないのです。この世界には分離が一切ないので、、このブログを読む個人が存在しません。にも関わらずこのブログは日々更新され、さらに見かけ上日々誰かに読まれているのです。何のために書くのか?????意味不明なんです。

読むという主体が存在しない

ですから、、、何もかもが矛盾しています。見かけ上の覚者の粗探しは見かけ上起こるが、、粗探しをする読者は実は存在していません。全ては見かけ上で起こり続けるのです。そしてどのような言葉を駆使しようとも真理を指し示す言葉は矛盾を孕んでいます。だから大切なこと、、、言葉を繋ぎ合わせて数学の方程式のように答えを出そうとしないことです。その言葉が指し示す「何か」に気づく、、、それだけです。その言葉を振り返って矛盾を探せば、、、矛盾は100%存在しますから。

幼稚性

実は

実は実は人間は自身の中の幼稚性を大事に大事に守っている可能性があります。周囲は比較で幸福を図りますから「何も出来ない私」は周囲からは重宝されます、、、だって周囲は「何もできない私」と「私」を比較して悦に入れるからです。そのことを知ってるから、どこかで知っているから、、「何もできない私」を維持しようとする動きが起こるのです、これが幼稚性の維持です。

ところが

ところがこれは苦しいのです、なぜ????だって幼稚性の維持は誰かに依存し続けることの証拠ですから。依存は依存先に完全に委ねられます、、依存先の意向に完全完璧に従わなくてはならないのです。依存先が消滅すれば新たな依存先を探さなくてはありません。もっともっと言えば人に依存しながら自我を手放すって不可能です。頼らないと生きていけない「自分」を演じ続けるのがマストだからです。

集団VS集団

争いたがる

国が国と戦うのは、、、何のためですか??????戦争が一番損なのを分かっていて、、なぜやるのか?????それは国が一致団結するからです。サポーター同士の争いが無くならないのは、、、、一致団結するためです。だから海外では死人まででるほど争います。なぜ??????なぜ?????一致団結したいのですか???????それはそもそも「国」という実在、「サポーター集団」という実在が存在しないからです。

グループ

グループというのは、、、、元々それがあったのではなく、、、なんとなく気が合う仲間が集まっていつの間にか周囲から「〇〇グループ」と呼ばれるようになります。本当はそんなものはなかったのです、いつの間にか自他共にそう呼ばれるようになっただけです。だから実体がないのです、実在ではないんです、脆いんです。グループであれば中心人物の一人が「俺辞ーめた」ってなればその日に無くなります。そのことをどこかで分かっているから、、、、敵を作って一致団結したいのです。安心するわけです。

自我

自我とはまさにこれです、、、、本当は幻想だから、、、本当は脆いことが分かっているから、、、だから敵を作ってリアリティを出したいのです。だから悩みを作ってリアリティを出したいのです。脆さに気づかせないためには「対象」を作り出し、、、克服しないといけない「自我」「グループ」を作り上げていくのです。そのためだったら周囲からは自暴自棄に映ろうと関係がない、、、だって自暴自棄をしているのは紛れもない自分だからです。実は滅茶苦茶安定しているんです「自我」は。

プンプン

どうしたんですか?????

聞いてくださいよ、昨日スーパー行って半額のお弁当を手に取ろうとしたら「それ私のです、さっきから半額になるの待ってたんです!!」って横取りされたんです。。。。どう思います???????それ酷くないですか???????頭にきちゃって頭にきちゃって今も誰かに言いたくて言いたくて、、、、良かったです、山田さんが気づいてくれて。。。。。

分かってない

ムカつきますよね!!!ムカついていいんです!!!、、、、、、、ですがですがムカつく!!!すら損なのに、、、そのムカつきを24時間保持している方がもっと損です。。。でも人間はこれをやります。。。。ムカつく!!!!を最悪一年間以上保持します、、、恐らくやった相手は何も記憶にすらなく普通に暮らしています。

何が言いたいか

人間とはこうやって「起こった出来事」を記憶し、、その再現VTRを一万回以上上映し、、ムカつく!!!!を何千回も味わうのです。その出来事は実は、、、私物語保持システムに利用されているのです。ムカつく!!!この事件は、、、私物語が私物語であり続ける重要なファクターになっています。この出来事を重宝しているのは「私物語」です、、、、もっともっと正確に言えば「私」です、、、、私がこの物語を重宝しているんです。

こんなショボい作戦を取り続けなくてはならない「私」

なぜこんなショボい作戦を実行し続けるのか???????なぜ?簡単です、、、、、「私」が幻想だからです、、、「私」が幻想だから、、、、、この「私」は被害者になったというエピソードは「感情」を伴うため、、有難いのです。。。「怒り」「妬み」「嫉み」「悲しみ」、、、、これらの感情は「リアル」だから「この私」という幻想をよりリアルに錯覚させてくれるのです。だから人間の歴史には悲惨な事件が盛りだくさんですよね????????あれが必要だったんです。

妄想

お風呂に入って

何も何もやることない時「妄想が始まる」、、、、そういえばあの時「あいつは俺の味方してくれなかったなー」「その時こうやって言ってればどうなってたか」「いやそう言えばあいつはこう返してきただろうな」「そうしたらこっちはこう返してやる」、、、、、と過去を振り返りありもしない妄想をすることってあります。。。。。そうです、、そして妄想の重要ポイント、、感情を伴うということです。

妄想してたら頭きちゃって

何を怒っているの??????「いやいや今頃上司が普通に飲んだくれてると思うと頭きちゃうんですよね!!!!こっちはあと二時間残業ですよ」つまりこうです、、、妄想とはしっかりとしっかりと感情を作れるということです。何の話をしたいか分かってきました??????

私という妄想

では最終回答です、「私がこの体の中に世界とは分離して存在している」というのは思考が作り出した妄想です。その妄想が膨らんだ時点で「分離感」という感情が出ちゃうんです。半端なく出ちゃうんです。だからそのの分離感が苦しいから、、「私がこの体の中に世界とは分離して存在している」という妄想を手放せればいいんですが社会がそれを許してくれないわけです。だから「私がこの体の中に世界とは分離して存在している」という妄想を手放さずにこれを解消しようと苦しんでいるのがこの人間業界です。

既に死んでいる自我

自我

生きるというのはどういう意味でしょうか?????生の体験ですよね???????生きているという実感はこの生の体験以外にないでしょう。そういう意味では自我はこの生の体験を一度も一度も経験したことがないので既に死んでいます。というよりも「生」を経験したことがないのですから生きたことも死んだこともないのです。輪廻転世、、、何度も生まれ変わって生を積む、、というこの言葉は完全な勘違いです。なぜならば自我は一度も生を味わったことがないのですから。

生を味わう

ですがこのブログを読んでいる方は「生」を今まさに味わっていますよね???????味わっていなければこのブログを読んだという「実感」が起きえないわけです。ですから当たり前に生を実感しているのです。「思考」を実感じています。だからブログが読めるのです、、というよりも「あなたブログ読みました?????」と聞かれて何の疑いもなく「はい、読みました」と言い切れるのです。なぜ100%言い切れるのか?????なぜならば「思考」の経験がリアルだからです。

ここで最重要な話

空を見る、、鳥を見る、、、そこには何の疑いもないのです。生の体験です。。。そこにこれを加えます。「この体の中に私が世界とは別に存在する」この思考の体験が加わります。この思考体験が加わるのです。これが半端なく一点の曇りもなく体験された時「自我」の存在に疑いが消えます。つまり「私は居る」と言い切れるのです。思考体験がリアルだから。だからだから私物語は完全勝利します、この「生」しか存在しない「ここ」に「私物語」が100%存在してしまうのです。

悟り

「見」「聞」「嗅」「味」「触」という五つの体験、経験、、、ここには疑いがありません、だからこれは「生」そのものです。。。そこに「思考」「感情」という体験が加わります、これにも100%疑いの余地がないんです。。。この100%疑いようのない体験「思考」体験これがあるから「自我」を100パーセント信じる動きが起こっています。すると気づけます????????自我は幻想であって、、、全体験に参加すらしていないことが。これが分かっちゃうことが悟りです。