人生とは雲が連続で起こること

自分は雲だ!!!

この体は私だ!!!これはこの雲は私だ!!!ということと同じ思考です。青空それが本当の私なのですが、、その中に漂う雲、、この雲を私だ、、、という勘違いが起きることがこの人生です。ちなみにその思考も雲です。この雲が漂いますと、、、本当の自分が分からない、、、という思考が必ず起こります、、なぜならば「この体は私だ」は真実ではないので自動的にそれが起こるのです。すると、、今度はこの不快感を消すために、、あれをしよう、これをしようが湧きます、、これも雲です、、、雲が雲を新たに生み出すような仕組みができます。

しばらくすると

エンドレスに思考感情の雲が発生することから、、これが私の人生だ、、という思考も湧きます、、これも雲です。私の人生、あなたの人生、、という発想が生まれるのです。これも雲です。この雲をつなぎ合わせることで、、過去があり現在がある、、という錯覚が生まれます、、この錯覚も雲です。雲の特徴は現れた瞬間消えるということです、思考も感情も現れては直ぐに消えていきます。これを過去にこんなことを思ったという思考が今現れるのですがこれも雲です。

雲が空を覆う

雲が連続して生み出されている状態は苦しい状態です。空は全くのノーダメージですが、、苦しい、、という感情の雲が湧き続けています。そしてそれを解決するための思考という雲もまた連発します。空自体は全くのノーダメージですが、、苦しいという感情が湧くのは事実です。悟りとはもう一度空として雲を観察しましょう、、というメッセージです。あなたは本当は空なんです、、、雲の一部を私と勘違いするのをやめましょう、、ということです。

悟りとは雲をただの雲と気づくこと

悟っていない状態は、、雲(体)を自分と勘違いする雲が起こり、、この雲が消えない状態です。悟りとは全部が雲でしかなく、それは空とは何も関係がない、、私は雲(体)じゃなく空なんだという気づきです。最初から空じゃなかったことは一度もなく、、ただ「この体この思考この感情が私だ」という思考の雲が消えなかったのです。この雲の発生は「憤り」という雲を実は生み出すことからこの雲を消そうとあらたな思考(雲)が湧き続けていたのです。

雲の動きがどんなに激しくても

空には何も影響がない

雲とは空に漂う一過性の存在です。雲がいかに厚くまた広大に広がろうとも空自体が雲によって影響を受けることは全くありません。全雲が消え去ればまた青空に戻ります。台風のような雲であっても消えればまた青空です。雲の動きによって青空が影響を受けることは未来永劫ないのです。我々の本質とはこの青空です。青空が我々の本質です。雲とはこの現象界のことです、、現象界は青空の中でただ現れては消えていきます。鳥も花も全ては雲の動きです。そしてこの体も雲です、この体を自分とする思考も雲です。この体を自分だという感覚も雲です。全部が全部雲なんです。

雲の中の体

この体も雲の一部であり、、この雲は私という思考が起きました、これも雲です。この体は私だという思考が起こることで、、、寂しい、苦しい、孤独だ、、という思考も起きます、これも雲です。この体を私だという思考が起こることで、、、本当の自分は誰か分からない、、、という思考も起きますが、、これも雲でです。この体は私で、、あの体はあなた、、という思考も湧きますがこれも雲です。

全ての動きは空に気づかれる

全現象は雲です、、全思考も雲です、、全感情も雲です、、、その全ての雲の動きに、、空が気づきます。。気づかれない雲の動きはないのです。そして雲の動きが空に影響を与えることも絶対にありません。私には人生があって私は絶対にこうなる、、という思考も雲です。本当の私とはこの空であり、、、この雲の動きの全ても私です、私の中で起こる雲の動きも私です。空と雲を合わせて本当の私のです。

このことに気づくと

このことに気づくと、、「この体、この思考、この感情が私」という感覚が戻っても、、あ、、、それも雲の動きだ、、とイメージが湧きます。何か人から嫌なことをされても、、雲から雲に何かが起きただけだ、、という気づきが起きます。するとムカつく!!という思考が起こっても、、それも雲だ、、という気づきが起きるのです。そして常にこの私は空だった、、、という気づきに戻ります。

情報を得れば得るほどに

TVの垂れ流し

我々はネガティブなニュースを観れば観るほどにそれが真実であるという錯覚を起こすので、、観念を書き換えていきます。このまま行くと大変なことになる、、、この恐怖感が消えないわけです。ですからなんとかこの恐怖から脱げるためにそれを回避するための行動を取るようになるのです。ですがこの行動が楽しいわけがないのでその道には常に苦悩が続きます。

世の中の情報に真実は一つもない

この世界に流れる情報に真実はありません、経済危機、国家財政問題、国際紛争問題、、、あらゆる恐ろしいニュースが流れますが、、これらは全て現象に過ぎません、、現象というのは現れて消えていくものであり、、それを真実であると取ることしかできないのです。本当の真実は、、、全部私の中で起きている、、ということだけです。この開放性の中でただ現象が起きては消えてを繰り返しているのです。

三億円の宝くじ

もしもあなたが三億円の宝くじに当たり、、、全くもって経済的な問題を気にする必要がなくなったとしても、、、実はこの苦しみは消えることはありません。それまでお金の心配をして生きてきましたが、、それが無くなった時に、、、ハッピーな人生が始まるかといえば全然そうではないのです。次の日から苦しみが始まっているのに気づくはずです。それが本当の私は誰だ????という憤りです、違和感です、そこからの孤独感、分離感です。この体の中の「私」をやっている限り苦しみから脱却することはできないのです。

非連続的な全て

心も体も

心はいつも存在しないですよね、何かに夢中になっている時、、姿を消しています。「わたし」もいつもいないはずです、、転んだ瞬間、私なんて忘れ去られています。体も実は姿を消します。画面でPCに向かっている時、、、、足の姿は消えます。この現象界において常に必ず存在する何かってないんです。現象は常にあったりなかったり非連続性なのです。こころは絶対ある、私はぜったいある、、体は絶対にある、、、それは記憶をつなぎ止めて、、あるはずだ、、、と思っているのです。

一方

一方意識は確実に常にあります、朝起きて寝るまで意識はあります、、、意織、、、、この連続する存在、、決してなくならない存在が私たちの本質です。この意識の中でたまに「私」が現れ、、たまに体が現れ、、たまに思考が現れ、、たまに感情が現れるのです。意識以外は、、、たまにこの世界に現れる現象に過ぎないのです。つまり幻です。

幻を実在すると思い込む

この世界に苦しみが沸き起こるのは、、、「私」というたまにしか現れない存在を、、確実に実在する何かと捉えたからです。現象の一つでしかない「私」という概念、感覚を常に存在している絶対的なもににしてしまったことで、、、「苦しい」が湧き続けるのです。

あ、そうだ!

それでも雪崩れ込んでくる思考

何か機嫌が悪くなると、、そういえば、、あいつ今頃裏でこんなことを、、あの時本当は裏でこんな風に俺を貶めていたんでは、、表ではあんなこと言ってたけど本当は。。。。みたいに人を疑う思考が湧いてきたりします。気になっていた何かが表面化するんですね。。。ですがですが、、気にしないでください。その気にしている裏での行動は間違いなく一つも起きていません。今ここにしか何かが起こる場所はないのです。

実際に調べてみたら当たってましたよ!!!

ある人の裏の行動を予想してイメージしてイメージして、、が最終的に現象化したのです。もしかしたらそうじゃないかもしれませんがどちらにしても、、、今それが現象化したんです。裏でやっぱり悪口言ってた、、という証拠が今現象化したんです。今までは何も起きていなかったのです。この場所でしか全ての現象は起きることができないのです。

物騒な世の中???

震災があって航空機事故があって、、、本当におかしな世の中に、、、、違います。全く違います。今この場所でしか全ての現象は現象化できないんです。今ここで災害がない、今ここで航空機事故もない、、つまり何も起きていなんです。殺人も強盗も、窃盗も、今この場所でしか起き得ないんです。すると何も起きてなかった一日がほとんどです。

起きたことを淡々と処理する

ニュースでやっている事件の99.9999999%は今ここでは起きずTVの画面の中で起きているはずです。その事件だけを淡々と処理してください。今ここに集中すればいいのです。そうすると事件はほぼ無いですから自身が楽しいことをやればいのです、毎日。「今努力しとかないと将来食えなくなるよ!!!」、、、本当に食えなくなったら本気出せばいいんです。

救うべき人は誰もいない

全ては開放性の表現

この世界は開放性による開放性のための開放性のドラマです。このドラマに個人というのが居るように見えるのは非開放性という自我を見かけの上で作ることに成功したからです。ですが実際には開放性の中で起きるドラマですから真の非開放性は存在できないのです。そしてそのドラマに出てくる見かけ上(非開放性)の人々は開放性の上に立つ見かけ上非開放性の人々です。このドラマでは見かけ上非開放性に映る人物しか出演はなくよってその本質は全員が開放性の中に居るのです。

私(非開放性)を含め最終的な運命は全員が決まっている

この舞台は開放性の舞台です、、その舞台の中で非開放に見える存在が現れました、それが私あなた、、その他大勢の人々です。私そして彼らは見かけ上非開放性ですがこの開放性の世界の中に真の非開放性は存在できません。よってこれは全て見かけ上、錯覚に過ぎません。ですから救うべき人は実際におらず、、何も問題がないのがこの開放性の世界の特徴です。勿論ドラマ上は救うべき姿に一見見えますが、それはそう見えるだけ、そう感じるだけです。

かといって

かといって目の前に車に轢かれそうな子供が居れば助けるでしょう、、それで勿論問題はありません。ですが不幸にして助けることができなくても、、それはこの開放性の中のドラマでしかないことに気づかなくてはなりません。非解放に見える全てのキャラクターは実は開放性でしかなくつまり最初から救われているのです。

自我に関心が向かないと

概念であっても

概念であっても知識であっても、、自我は幻、思い込みであることを頭で理解できますと、、自我の欲求を叶えることに関心は向かなくなります。そして今まで自我の欲求達成に向いていたエネルギーが真理探求に向かうのです。事実上自我に関心が向かない、、という状況になっていきます。すると、、自我は痩せ細っていき活力を失い、、益々真理の探求に意識が向くようになるのです。自我の欲求をいかに達成しても成就しても意味がないことは既に分かっているからです。

観葉植物

自我は観葉植物のようなものです、そこに関心が行けば行くほどに大きく成長しそのため欲求も大きくなる。ところが関心を向けなければ痩せこけていき、最終的には枯れて大地に再吸収されるのです。我々は自我を観葉植物として大切に大切に育て上げてきたのです。あらゆる敵から守り箔を付け最重要アイテムとしてこれまで扱ってきました。ですがその方法ですとほとほと疲れ果てたわけです。もう関心を自我に向けなくていいのです。

観察観照者になる

心の声が上がればこれまではその声を最大級大きく扱ってその声を満たすように動いてきましたが、、これからはその声をただ観察者、観照者として見ます。今思考が起きたな、、という感覚です。この声をしかり聞いて欲求を満たしたところで植物としての自我がより大きくなるだけなのです。大きな植物としての自我は多くの水を求めますから飢餓状態に突入します。

願いが叶ったその瞬間

何も得る必要がない状態

受験勉強に成功し志望校に受かった瞬間、就活に成功し志望企業に受かった瞬間、最良のパートナーを得た瞬間、、これらの瞬間人は、、、もう何もいらない、、という満足感を得ます。お腹がいっぱいという感覚よりも真の安らぎをその瞬間に垣間見るのです。その感覚が忘れられないがために人は次の目標に進むわけです。ですが実はこの手に入れた瞬間の苦しみから開放された感覚こそが開放性、真の自己の感覚なのです。

何も心配ない

多くの人は次々と目標を叶えていくことでこの真の開放性に出会う経験を実はしているのです。その経験は絶対に忘れることができない経験なので人は中毒になり次を追いかけるわけです。ですがそれは対象を手に入れるというやり方では常に一瞬、一過性のものであることも徐々に気づいていきます。すると人は対象ではなく真の自由、真の安らぎ、真の平和はどこにあるのか????という疑問を持つのです。

未来ではなく

未来に常にその対象を求めてきたのですが、、そのやり方では当然一過性の幸福を追いかけるだけであり、、そこに答えがないことに気づきます。すると初めて「悟り」という言葉を思い出すのです。そういえばそのような言葉があったなーです。関心が手に入れるではなく手放すに行くようになります。するとこのドラマ上でそれらに関する情報が集まり始め真の探求が始まるのです。

開放性が私(非開放性)を再吸収する

質問が消えるまで

この世界は開放性の中で繰り広げられる閉鎖性(自我)ゲームです。この舞台は間違いなく開放性でありですが自分とは閉鎖性、非開放性の存在です。開放性の中で非開放性(自我)が活動するのは矛盾しています、そのため非開放性(自我)は常に常に異分子扱いを受けるのです、この開放性の中で。つまり存在をイメージした瞬間に(お前は誰だ???)が湧いてきてそれがこの体に反応し違和感、憤りとなって発生します。その憤り、違和感を非開放性(自我)はこのストーリーの中で何を手に入れることで解消するという旅にでるのです。これが開放性が作り出した非開放性ストーリーです。

開放性が開放性に目覚めると

このカラクリが溶けて非開放性である自我が開放性の中に溶けてなくなった場合(開放された)、、質問が出なくなります。それまではなぜ?????がお前は誰だ????がエンドレスいに開放性の中で起こり続けるわけですが、、これがもう起きないのです。開放性が非開放性(自我)を認識できないからです。すると小さい子供のように真の安らぎの中でただ遊ぶが始まるのです。

開放性はいつ私(非開放性)を再吸収するのか????

私はこの開放性の中で存在する自体が苦しいのですから、、開放性を探しまくるわけです、、どこにあるのか???です。そしてどうやらこの世界(非開放性のドラマ)には存在しないことに気づきます、この気づきは開放性の中から起きます。すると関心が開放性に向かいます、、このドラマは関心が投影された世界ですから、開放性に関する情報が出現し始めるのです。そして開放性が開放性に関する情報を読み込み続け、、非開放性の自我の存在に関心が行かなくなることで非開放性の自我は感覚が薄れていき最終的には忘れ去られます。

開放性として、、

そこからは開放性の中でこの見かけ上の体が、、真の安らぎの中で活動します。そこにはかつての非開放性はこの体の中には存在せず周囲の非開放性に見える人間関係の中で生きていくのです。真の安らぎ真の平和の中で子供が遊ぶような活動が始まります。

なぜ子供の遊びには目的が必要ないのか?

勝敗の要らないゴルフ

子供が外で遊ぶ時に勝敗とか目的とか結果とかを聞くのは無駄でしょう、、子供が外で遊ぶのは「今真の安らぎの中」に居るからです。真の安らぎの中に居るから「遊ぼう!!」が起こるのです。今苦しみの中に居る時「遊ぼう!!」が起きない、、遊んでもいいですよ、、その場合はメリット、目的を教えてください、、です。ゴルフをする時に大人はハンディをつけてでも勝敗を付けて遊びますね、、そしてゴルフは人間関係の潤滑油だったり、商談だったり、、何かその後の目的があったりします。

自我が形成されてから

我々は自我の形成と一緒に目的、メリット、結果がないと動けなくなったのです。なぜならば今苦しいから、、何か嘘でもいいから見える結果が欲しいのです。何か見える結果を見せてくれないと動けない、なぜならば私は「今苦しい」からです。

これって変だよね

小さい子供が何のメリットも求めずに遊べるにも関わらず大人は何かメリットがないと遊べないって完全に退化です。実際にはこの体を守るための必要悪がこの自我ですから退化ではないんですが、、幸福度でいえば完全に退化です。この体を守ることには成功した、ですが幸福度は確実に下がっている、、というのが一般的な大人の惨状です。

自己形成から自己超越へ

子供とはまだ自我が形成されていない状態、自我未形成期、大人は自我が形成された自我完成期、そしてここからは自己超越期です。自己超越期とは自我の動き働きを完全に理解し、、、自我との同一を脱出し、、自我を観察する大いなる存在に自己を戻す時期です。自己超越しても勿論この自分というのは便宜上残りますがそれは便宜上です。もう「苦しい」という感情の湧き上がりが抜け落ち、、ただ全体、大いなる存在としての自分劇場を演じます。