会いたくない

昔の友人

絶不調時、、全てが上手くいっていない時、、、、同窓会に行けますか???????全てが上手く行っている時同窓会に行けますよね??????なぜ、、、なぜ今の調子と級友に会うか会わないかとが関係があるのでしょうか???????答えをお伝えしましょう、、、、今の「自分」と過去の「自分」が同じ自分だと思っているからです。同じ自分が今調子が悪いからそんな自分を旧友に披露したくないのです。こんなに落ちぶれてしまった今の自分を見せたくないわけです。

実は

過去の自分と、、、今の自分は完全完璧に別人です。中学校時代の「自分」と社会人になってからの「自分」は全くもって別人なんです。いやいや、、、、この体は同じですよ、、だから当然自分も一緒ですよ。。。。違います、、、まるっきり、、、1ミリも被っていないのです。なぜか????????自分とは記憶が作り出す幻想でしかないからです。環境が変われば、、、全く違う幻想を記憶が作り上げるのです。記憶が作り出す幻想でしかないから、、、一瞬一瞬変わってしまうということです。

つまり

友人Aの前の自分、友人Bの前の自分、友人Cの前の自分、、、、全て別バージョンの自分です。それぞれの友人との記憶が作り出す各友人バージョンの自分が幻想として、亡霊として、、現れ出るわけです。全てが全て亡霊、幻想、妄想の自分ですから、、、、本当は何が出ても良いのです。ですが記憶は相手に会った瞬間に問答無用でそのバージョンの自分を作り出します。

大切なこと

最も大切なことをお伝えします。自分とは記憶が作り出した幻想であり、、、ゆえに会う相手によってそれぞれの記憶から別バージョンの幻想が現れます。。そのことが本当に本当に理解できますと、、、、その自分が好きであろうと嫌いであろうと、、、どうでもいい、、、という楽観が生まれます。だって本当の自分は記憶とはまるで関係のない、、、土台であって、、、その土台の上に記憶+幻想の自分が現れ出ていることが分かるからです。

太鼓持ちであろうとゴマ擦りであろうとも

上司の前の太鼓持ちの自分、クライアントの前のゴマ擦りの自分、親の前の太々しい自分、友人の前のファンキーな自分、、、、全部記憶から生まれる幻想です。。。。だからなんでもいいのです、、、、、何が本当の自分か分からなくなる????????安心してください、、、全部違います。全部全く本当の自分とはまるで関係がないのです。

あのチャレンジは意味があった????

負けはしたが

「負けはしました、、、ですがこのチャレンジがあったから次に勝利に繋がるはずです。完全に今回は大失敗でした、、ですが上手くいかない方法が分かったという点で今回のチャレンジは意味がありました」俗に言うポジティブシンキングです。心からそう信じれる時、、その認識が起こります。だから全てはポジティブにポジティブに捉えるのだ、、、そうすれば常にポジティブを感じて生きていける。ですがですが、、、どっか苦しいですよね?????どこかで無理してませんか??????

意味など何もない

ポジティブにもネガティブにも捉えることができるならばその出来事には本当の意味で「意味がない」ことは分かりますか????????捉え方で意味が生まれるのならば、、、意味など最初からないのです。そうです、、、「出来事には意味がない」これが真実です。。意味がある出来事など皆無なんです。ただそれがあった、、、以上です。

意味が現れるのは

さらなる結論を言えば出来事に意味が生まれるのは「私」にとってのみです。「私」がもしも存在しないならば出来事は、、、、出来事、、、それで終わりです。「私」が存在していることになっているから、、、「出来事」と「私」の相関図が生まれ、、、、この出来事は「私」にとってどういう意味か???????という思考が湧き上がるのです。そしてそこにどういう意味が立ち現れようとも、、、、私物語が上映されている以上は、、、「苦しい」のです。ですからその出来事から無理に意味を作り出すのではなく、、、そもそも「私」が幻想の存在であることに気づくことが本当の解決方法になります。

所詮は私物語

最高の会社

「社長の会社に入社してからというもの、、、今までの退屈な日々が嘘のようで毎日が刺激的で映画のようです。人生って楽しいんだって心から思います、有難うございます」こんな夢のような話もそうはないですが、、ある可能性はありますよね。。。ですがですが、、、これってまあ危険なんです、、、、、多くの方にとっての楽しいって刺激のことです。。。刺激には特徴があって、、同じ刺激には耐性がつくということです。だから、、、いずれは楽しくなくなるのです。もっと刺激をもっと刺激を、、、にこの現実は耐えられません。

刺激中毒

社長は社員がますます楽しめるように事業展開を進めていきますが、、、社員はその勢い以上の勢いで刺激に慣れていきます。全く間に合わないわけです。。。。途中で社長は諦めます、、、社員を楽しませ続けていくのは不可能であると。そこでもうそんな無理は辞めて健全経営に戻そう、、、という動きが起こるのです。社員は日々平凡な生活に戻ります。

私物語

結論を言えば「社員の私物語」を満足させ続けるのは不可能なのです。どんなにそれが刺激的でも、、刺激は慣れるのです。。。だから重要なこと、、、、私物語を私物語と気づく、、、これしか真の解決方法はないのです。私物語は、、所詮は思考が作り出したファンタジーである、、、このことに心底気づく以外に、、、この刺激中毒から逃れる方法はありません。

なぜイメージの方が楽しいのか?????

現実

お金を払ってでも散歩に行こう!!!お金を払ってでも働きに行こう!!!お金を払ってでも友人の家に遊びに行こう!!!!ないですよね??????そんなこと、、、「働かせてください!!!!お金を払いますから!!!!」って言葉まず聞かないです。なぜ?????なぜですか???????映画を観るにはお金を払い、、我々の日常では払わない。。。。。

つまり日常は面白くない

映画は面白いのです、、、、、ですが友人とただ会話するにはお金を友人には払いません。なぜ???????当たり前ですよ、映画のストーリーは最高に刺激的だからです。一方友人の話はそれに比べれば刺激的ではないのです。そうです、、、、刺激の強さなんです、、、刺激が強い=面白い、、、刺激が弱い=面白くない、、、ということです。

なぜ退屈なのか???????

なぜ日常生活とはそのそも退屈なんでしょうか?????なぜ?????日常生活=退屈って誰が決めたんですか??????誰も決めていません、、、誰も、、、、でも退屈なんです、、事実として。ではでは答えをお伝えしますね!!!!!!!簡単です、簡単過ぎます、、、「私」という映画をまさに今上映しているからです。「私」という映画では全く何も起こらず平々凡々な毎日が起こるので、、だから退屈なんです。私物語は退屈過ぎて、、、、だからキムタクの映画にお金を払って観るのです。

私映画上映辞めちゃえば!!!!

多くの方は今まさに私物語が絶賛放映中であり、、しかも鬼のようにストーリーが退屈なのです。だからだから映画にお金を払って観るのです。ですがもしも私物語の上映が終われば、、この退屈極まりない映画が終わるわけなんです、、、もう映画を観て退屈を凌ぐ必要がありません。そうです、、もう観なくていいのです。私物語という映画は、、、それが思考が作り出した私物語であるという自覚がない時、、、上映されます。思考が作り出したファンタジーであるという自覚がある時、、もうそれを無理して観ようとは思わないわけです。ただの一つの退屈な映画に成り下がるのです。

その時

私物語という映画の上映が終わった時、、、、そこには生命の活動だけが残ります。生命によるただの五感です、、、、私の五感ではないんです、、、、ただ五感だけがそこにあるんです。。。本当の生、生命、躍動です。その時、、、、退屈な私物語は消え去り、、キムタクの映画を観ようも消え去り、、、ただ生命の中に委ねる、、が起こるのです。

すべらない話

笑える

すべらない話ってありますよね?????芸人が渾身の話を披露するアレです。喋るだけ、、たった喋るだけで、、日本中で何百万人がTVの前で大笑いします。何が起こっているんでしょうか?????悟りの観点から解説します。芸人さんは話し方、話す順番、テンポあらゆる角度からあれをやるわけですが、、、素人が同じようになっても笑いが起こりません。全く同じ話であっても芸人さんでないとあれ無理なんです、、何をしているか??????話した瞬間にそれぞれの人間の頭にそのイメージを起こせるかどうか、、、ここが最重要なんです。

後輩のキクチ

後輩のキクチ、、、のエピソードを話す際に全員の頭の中にその映像を起こせるかどうかここが鍵になります。喋りが下手な素人がこれをやると、、イメージが浮かばないんです。プロはイメージを起こさせます、、、誰もがしっかりとイメージできる言葉をチョイスし、、、頭の中に映画の映像が流れるように導くのです。だから相手の表情を読んでしっかりとそれがイメージ出来ているか否かを判断するのです。そして完全な映像がその人の中に流れたその瞬間を狙って落とすのです、オチを放ちます。

言葉

言葉とは瞬時に映像化され、、映画のように頭の中で流されるのです。我々の会話とはまさに映画を作り出す道具なのです。言葉のチョイスが上手いということは相手の頭の中に映画を作るのが得意だということです。言葉とは映像作成ツールなのです。その言葉で「我々はこの体の中に存在する」という映像をまさに今作り出しています。「私」と発したその瞬間、、この体の中の「私」が映像として現れ出るのです。その瞬間、、、、この世界とは全く別の存在であり、、生き抜かなくてはならない、、食べていかなくてはならない、、誰も信用は出来ない、、、存在が現れ、、、そのままに認識されるため、、、「苦しい」のです。

理解する

悟りとは、、この事実を完全に理解する、、以上です。この事実を完全に理解した時、、「私」と発したその瞬間、、、それはあくまで作り物である、、、、という真実が立ち現れます。もうこの時、、、世界を孤独に生き延び、誰の力も借りず、、孤独に生きていく存在「私」ではないのです。。。だから「私」と発しても、、、苦しくないわけです。それは全て全て言葉が作り出した「映像」である、、、この完全な理解が本当の癒しを起こします。

この人何の思考も信じてない

私は昨日こんな災難がありまして、、、

昨日昼間帰ったら嫁さんが浮気してたんですよ!!!!!どうしたらいいですか??????やばいですよね?????その時、、、、相談者は相手に対し「言葉通りの認識」を期待します。言葉は事実を事実そのままに言い表しているのですから、、、そのまま認識してもらうことを「期待」します。ところが見かけ上の覚者は「それあなたの想像です」と言い放つのです。。。え????????何をいうてんねん、、、という話です。

真実

「あなた」にとっての「あなたの奥さん」が存在していて「あなたの奥さんの浮気相手」も存在している、、、、これは空想としては100パーセント真実です。空想として。思考が作り出した物語としては100%真実なんです。だから相手に慰謝料を払わせて丸く収める、、、離婚して新しい相手を探す、、、奥さんがしっかりと反省して関係性が良くなる、、、、、なんでも起こります物語としては。ですが物語がどうなろうと「本当の幸せ」とは何も関係がない、、、だから、、、、「それあなたの想像です」という回答が見かけ上の覚者から起こるのです。

本当の幸せを求めるか見かけ上の幸せを求めるか

多くの方は「本当の幸せ」ではなく「見かけ上の幸せ」を追い求めそのまま死にます。それが悪いということではありません、、、それも「空」のアートですから。ですがですがそれが「見かけ上の幸福」であると見抜いてしまったら「本当の幸せ」を手に入れずにはいれません。「見かけ上の幸せ」を追い求めることができるのはそれが「見かけ上の幸せ」と気づいていない時だけです。

武道の達人

不敵な笑み

武道の達人が道場破りと対峙した時にみせるあれ「不敵な笑み」あれってなでしょうか????????10秒間道場破りの動きをみただけで「ニヤっと」笑います。その笑いで、、、、、、道場破りは負けを確信します。「ヤバい、俺多分負ける」です。見切った時人は「不敵な笑み」を出します。あーそれね!ここでこういうパンチを出すということは「こう考えているのね」です。全部わかっちゃってるんです、、そして対峙した道場破りも、、その笑顔で見切られたことを悟ります。

思考回路

相手が考えていることが手に取るように分かる、悟る、、、、相手の攻撃が手に取るように分かる、悟る、、、、全く同じことなんです。これって「どの思考を今相手が信じているか」に気づくことです。「脇腹がスキだらけだからそこを狙おう」という道場破りの思考が起こり、、、達人はその思考が「道場破り」に起こったことを悟ります。この攻撃からすると恐らく「脇腹を狙っている」と。。。。道場破りは見切られた瞬間「参りました」が起こります。

思考を信じる動き

ある人は「学歴が一番重要だ」と信じています。ある人は見た目が一番重要だと信じています。ある人は愛嬌が一番重要だと信じています。ある人はYESMANであることが一番重要だと信じています。そのことを対峙者から一瞬で見抜かれた時「参りました」が起こるのです。そして多くの方は「この体の中には私が居る」と信じています。だから見かけ上の覚者から「その動き」が見えない時「参りました」が起こります。あれ????この人、、自我を信じる動きがない、、、となります。

人間関係を作らないという人間関係

執拗な拒絶

「私は悟りの勉強を始めてから人間関係を完全に断捨離しています。過去の人間関係の全てを遮断することに決めました、、だって悟りには無駄ですし、、、そもそも画像に過ぎないなら、、、、付き合う意味ってありませんよね??????」そんな意見は探求者には多いでしょう。ですがですが、、、これ完全に拘りですからね!!!!完全なる執着です、、、関係を作らないという執着です。そのことを分かってやっているならば大丈夫です、、執着という自覚の元それをやっているならば問題ありません。

マリオカート

マリオカートに熱中している時、、、目の前のヨッシー、ルイージを避けようと思いますか?????目の前のヨッシー、ルイージうぜー、、、ってなりますか????なりません、絶対になりません。むしろゲームには絶対に絶対に必要な仲間ですよね?????だから愛おしいんです、、自然と感謝が湧くんです。。。いまここに居てくれて有難うという感謝が起こります。

だから

目の前が画像に過ぎないと、、、本当の意味で分かった時、、、有難いわけです、、、この世界を彩ってくれて、、この世界に刺激を入れてくれて、、、。。だから拒絶しよう、、とか拒絶したい、、、という思考が湧いている本当の理由は「今が苦しい」からです。今が苦しいから、、拒絶も起こります。その拒絶を、、、、「分かっちゃったから」と思うのは新しい思い込みです。ですがですがその流れも勝手に勝手に起こっていますから、、そういう意味では何も問題はありません。

プレイ

変態プレイ

変態プレイってあります、、、そして多くの方は「その変態プレイに入っていることを」気づいています。だから俺ってこういう変態プレイがあって、、、、、て言ったりします。変態プレイというぐらいですから、、それが不健全であることも分かっています。本当の病気とは、、それをプレイとは気づいていない状態です。では本当の変態行為から変態プレイに切り替わった瞬間はなんなんでしょうか????あれ????俺ってこんなことやってんぞ!!!!そこに気づいた瞬間からそれはプレイに変わるのです。不健全であることは分かっているが辞められない、、、に。

実は実は

不健全な行為にどっぷり浸かっている時も、、、そのことに少し気づいています。。ですがそれを打ち消す思考が起こることで、、「俺はこのためにこれをやっているのだ!!!」という認識に変わるのです。だから子供に執拗に過剰に干渉する時「大義名分」の思考がガツッと現れ、、その認識が起こるのです。ですが同時にそのことにも気づいていますから周囲から「あなたの子供への教育は変態レベルだよ」と言われた時「ドキ」っとするのです。

この私

「この私が実在している」というのは完全に思考です、、その思考が現れ出るから「私」は存在するのですが、、そのことに分かっています、、実は。。。「私」とは思考が作り出した産物に過ぎないことを実はよーくよーく知っているのです。だからだからそんなことを言いそうな人には近づかないのです。だって分かっているんですから、そのことを。。「私が実在する」というのは実は変態プレイなんです、、それが変態プレイだから苦しいんです、不健全なんです。。そしてそのことをどこかで分かっています。

だから行きたくない

ドラゴン桜

ドラゴン桜、、という東大受験を目指させるカリスマ講師が主役の漫画があります。東大受験、、そこには勉強が苦手な生徒が集まり、、その講師の指揮の元、、受験に励むのです。もしもそんな講師が近くにいたら受験生のあなたはそこに通いたいですか???????「ドキッ」としました?????「ヤバ」って思いませんでした?????

本当は分かっている

ドキっとする動き、ヤバってする動き、、これってなんでしょうか?????東大には受かりたい、、ですがスパルタ先生の指揮は受けたくない、、、なぜ??????なぜですか???????簡単です、超簡単です、、言われることが実は分かっているからです。私を勉強させない言い訳の全てが、、、その言い訳の全てが、、思考による誘導であることを分かっているからです。結果が出ないように動く思考の全てが誘導に過ぎないことを知っているからです。知っているけれど、、その思考に乗っている、、、そのことに気づいています。

だから

ドラゴン桜の恐ろしいほど事実に基づいた指導を受けた瞬間「ついにバレた」が起こります。ついに「言い訳作戦終了」が起こるのです。なぜか?????分かっているから、、分かっているから、、その通りのことを言われても「気付ける」のです。ではなぜ分かっているのでしょうか???????なぜ??????なぜ分かっているのですか?????だって東大に受かったことないんですよ!!!!!!!!!なぜ受かった実績がない人間が、、、そのことを既に分かっているんでしょうか???????

人間じゃないから

私が人間ならば「東大に受かっていない」時点で、、東大に受かる方法は分かっていないわけです。経験がないのだから、、、ところが、、、ドラゴン桜に言われた内容の全てに「それが正解」と気付けるのです。おかしいんです、明らかにおかしなことが起こっています。理由はなんですか??????既に分かっちゃてる理由はなんですか???????それは根源だからです、、我々の正体は根源そのものだからです。だから思考が生み出す全トリックに既に気づいているんです。既に気づきながら、、「思考を信じるというプレイ」に入っているんです。だから真実をドラゴン桜に言われた時「思考を信じるプレイ」が終わるのです。