別次元の何か

ここには別次元の何かがある

いまここ、、ここには別次元の「何か」が確実にあって、、、だから今この様々な現象に気づき続ける、、、という現象が起き続けています。鳥の声、光、バイクの音、鳥という思考、バイクという思考、今日は晴れかな???という思考、、気分が良いという感情、、、眠いという感情、、、、全部に気づきが起こるのは「全現象」とは異なる次元の「何か」があるからこそです。それを見かけ上の覚者は「空、絶対。ONE」などと表現したのです。

手で脇腹を掻く

体のどこかが痒くてそこを手で掻きむしります、、その時の感覚、、、この感覚「気持ちが良い」は非「気持ちが良い」でなくては気づけないのです。別次元の何かにしかそれはできない芸当なのです。この体がそれを察知したんだ、、、、そうです、、「何か」から生まれた「気持ちが良い」をこの体が所有したんです。こうやって我々はとんでもない神秘を概念の中に押し込むということをしています。

大人が教える常識

クラスに一人は居ましたよね、、増せガキタイプ、、、、その増せガキタイプって、、、なんか冷静で冷ややか、、ドライなイメージないですか?????つまり大人が教え込んだ嘘の事実を早く習得して退屈なせかいに一足早く入った子なんです、、被害者みたいなものです。ここ超重要です。大人になるって嘘の真実を信じることなんです。

別次元の何か、、

本当は「別次元の何か」が我々の本性、本質で、、、それがあるから全現象に気づくが起きています、、じゃあ全現象は何なのか???それは『別次元の何か』の鏡に写った姿みたいなものです、全く捉え所がない、思考では絶対に解明できない、、、何かの鏡に写った姿です。その中にこの体と呼ばれる現象が起こりその中に自分という感覚が起こりこの自分ストーリーが起きています。

分かったところで

分かったところでだからなんなんですか?????それで私の生活が楽になるってことですか?????そうです楽になります、、、だって普段の苦しみは、、、???????これです。本当の自分って何なんだ????です。これが起こり続けるのですから。。。。だって「この私は〇〇○男」って嘘ですから、、そのままこれが体に反応を起こすのです。ストレスって反応が。「私は〇〇」って感覚が起こる瞬間に別次元の何かから反応が起こるんです。

思考が湧くと体が反応する

私の財布が取られた

さっきまで置いてあった私の財布が無くなった!!!この思考が湧いた瞬間に汗は出るは鼓動は早くなる、ストレスマックス状態に陥ります。つまり「財布が取られた」という思考が、、全ての感情の引き金になっているのです。そんなことは分かっている、、当たり前のことですよね。。。では我々が顕在化できていないところでもしも思考が湧き続けていたらどうなるでしょうか????ひたすらに体が反応を続けます。

本当の自分は誰だ????

この思考が実は生まれ続けています、、、本当のところ私って誰なんだ???です。よくわかんないけど生きているってまあまあしんどいし、自殺者も多いし、老後も心配だし、、、この私って「誰」????です。この思考が湧き続けることで??????という体の反応が起き続けているのです。つまり苦しみが。。。。これが溜まっているから、、、あらゆることにストレス反応が起きるのです。

苦しいから

この?????が苦しいから、、、その苦しみを忘れるために、、ギャンブルがありお酒があり料理があり友人付き合いがあり、、、と人間活動が起こるわけです。どんなに崇高な活動を見かけ上している人もギャンブルにハマっている人も実は、、同じ動機なのです。清原元野球選手があれだけ競技に打ち込んだのちにドラッグ中毒になるのも実は動機は同じなのです。この??????という疑問緊張から抜け出たいということです。

音でもなく光でもなく空間でもなく時間でもない

それ

それとは何か????それがもしも音だったら、、音に気づくことはありません。それがもしも光だったら光に気づくことができません。それが自己意識だったら自己意識に気づくことはありません。それが思考ならば思考に気づくことはありません。それが感情ならば感情に気づくことはありません。それが経験ならば経験に気づくことができません。それが触れることが出来るものならば触れるに気づくことができません。この現象界で起こること以外、、それがそれです。

言葉で指し示せるものではない

それがもしも言葉で指し示せる「何か」ならば、、、この現象界で言葉に気づくことはできません。それは言葉で指し示せる「何か」でないからこそこの現象界では言葉で指し示せる「何か」で溢れそれらが気づかれています。そしてそれは気づかれる対象でもありません。なぜならばそれが気づかれてしまう対象ならば、、今この現象界で気づきは起きえないからです。

私の完全敗北

私には発見できない

全体を私が発見するのは不可能です、なぜか????私が全体から飛び出た時点でもう全体はそこにはないからです。もしも私が全体を発見すととしたら「私が抜け出た全体」です。それは私が抜け出ちゃっていますから全体ではありません。全体➖私です。私が発見したのは「全体➖私」です。だから私は全体を絶対に絶対に発見できないのです。私が悟るはありえない理由です。

私が完全敗北した時に

もう無理だ、、私には絶対に発見できないぞ!!!この気づきが全体から起こった時に、、私が消え去ります、だって「私には絶対に全体を発見できない」という気づきが全体から起こったのですから。その瞬間「私が全体を発見しよう」は起きないじゃないですか。私が見つけるという動きが起きえないのです。だからいいんです、、、この気づきが全体から起きるまでは徹底的に私が全体を探せばいいんです。

私という自己が起きることができない

私には絶対に絶対に悟りを見つけることはできないんだ、悟りを私が開くのはありえないんだ、、、、この気づきが全体から起きた時、、、、私の探求が起きなくなります。それまでは何度でもこの「私」が発見するんだ!!悟るんだ!!!が起きるでしょう。ですが俯瞰した気づきが起きると、、無理じゃん!!!という気づきが起きます。どう考えても「私」が全体を発見するのは無理だし、「私」が悟るのも無理じゃん!!!です。

全体だった

全体だった、、、という気づきは、、、「私」とは全然関係ないところで起きるんです、、「私」の不在時に起きるんです。「私」の在中は、、、、見えるのは全て「全体➖私」です。私を意識しながら見える全体はそれが限界なんです。だから悟りに「私」が関わっちゃだめなんです。逆に言えば「私」が抜け落ちちゃえば、、全体しかありません。

無限が作り出した有限風ストーリー

無限MAKE有限風ストーリー

この世界って本当に凄いと思います、さすが無限が作り出した有限のエンターテインメント、無限は無限ゆえに有限を知らない、、これは無限の影で、、、影の中で有限の体験が無限に起きるシステム。有限とはこの自己意識、、自己意識が有限という錯覚であるもの。有限であるという錯覚を持った自己意識が、、、さらに有限に見えるこの物理空間でドラマを無限に繰り広げていきます。この自己意識にはやはり有限に感じれる寿命がありと、、、まさに無限による有限の有限体験(寿命まで)です。寿命があるという意味では有限ですが、、この先どうなるかについては無限の可能性を秘めています。なぜならば自由意思(有限)があるようでいて実はまったくないからです。

無限は有限を作り出せるわけがない

主語は無限ですから、、残念ならが、、有限を作ることは絶対に絶対にできないのです。そうなると出来ることは有限と感じることだけです、、これならできます、、無限に。つまりこの世界で起きることの全てはどこまでいっても有限に感じることができる世界ということです。私が居るように感じる、猫が居るように感じる、、コーヒーを飲んだように感じる、、です。「私が〇〇○吉です」は嘘なんです、、、言い切ると嘘になっちゃいます。すると本当は誰?????が必ず起こるんです。だって「私が〇〇○吉です」を読み込んだのは無限ですから、、、、無限から「本当の私は誰????」が湧いちゃうんです、、絶対に。だからこの無限作有限風ストーリーは、、、、エンドレスに疑問が起き続けるのです。終わらないんです。

働いていたら急に思考が全く湧かなくなりまして、、、、

あんまり聞いたことないですよね?????こんなストーリー、、、なぜ?????なぜならば「私」という主語を使っているだけで「本当は誰????」が起きているんです。憤りが起きているんです。だって読み取っているのは全て無限ですから。「私」っていうイメージが浮かんだ瞬間に、、、??????が起こるんです。私は仕事で社長賞を取りました!と発言した瞬間から、、??????が起こっているんです。無限から。。。

充実

面白い漢字

充実って面白い漢字です。実が充ちるって書いて充実。。。。。充実した毎日って、、、どういう時に使います????何か新しい体験とかやりがいを感じる日々だったり、、とにかく今している活動に対して満足度が高い時を言いますよね????その時に実が充ちると表現する。この世界は実ではなくて虚なんです、、この現れては消えていく現象は虚です。消えちゃうんですから。その虚をただ眺める、、、例えば公園で空をずっと眺めてたんですよ。。。。。と友人に話して「充実してるじゃん!!」とはならないんですね、、なぜかと言えば、、、実がないんです。。。虚を眺めるだけって、、、、この虚の世界では、、、経験だけが実なんです。だけど逆に言えば毎日全員経験しかしてないから、、実しかないとも言えます。

結論

この体の中に自分という感覚があって、、その自分があらゆる経験をするって、、、、実は妄想、空想です。全くもって虚の世界です。ただ暇つぶしに何かするって、、、ずっとずっとこの自分って感覚(虚)が抜けないんです。ずっと虚の世界なんです。。自我の世界ってひたすらに幻想なんです。ところが無我夢中って言って、、、自分がないほどに何かに夢中になると、、、、自分を忘れます、自我を忘れます、自分って感覚が消えるんです。その時経験だけがあるんです、、経験は実なんです。自分が歩むストーリーという幻想が抜け落ちて、、経験という実しかなくなります。

無我夢中になって

無我夢中になって充実した毎日を送っていますと、、、実は自我ではなく大我、、、大いなる存在、、そのもので生きているんです。自分を忘れてますから。。。そしてその感覚、、本当のゆらぎ本当の安心本当の癒しが、、、自己意識を薄めていきます、、自己という感覚にエネルギーを注がなくなります。そうするともっともっと無我、大我、大いなる存在の状態に入りやすくなります。

我に返る???

一喝されて我に返る???

調子が悪い時期に先輩から一括されて我に返りました。。。ほわっとしていたら電信柱に当たりそうになり割れに返ったんですよ、、、、我に返るって、、、自我意織、自己意識を取り戻す時に使う言葉ですよね。この自己意識ってやつが実は大きな曲者でして、、、自己があると意識することです。その自己はどこに在るかって言われてはっきりとココだって言える人は存在しないんです。つまり本当はないんです、ないんですがあると想定し感覚を作り上げていくわけです。だから自己意識ってどこにあるか???と問われれば分かりません!!!となるんです。

無いものをあると思い作り込む

この練習を散々散々やらされて、、、徹底的に作り込むわけです。そして目の奥あたりに自分って感覚を徐々に徐々に作りあげていくのです。そうするととにかく居心地が悪いんです、憤りを感じるんです、本当の私って誰だ???という疑問が常に湧くんです、実は。それを解消するために意識を目標ってやつに委託します。目標があれば「本当は誰だ???」を感じずに済みますから。だから自我が完成してくるとみんな受験や部活動、色々チャレンジし始めるんです。

受験があって就職があって出世競争があって、、、イベント尽くし

だから人生は常に何かチャレンジが必要なんです、受験、就職、出世、子育て、子供の受験、、なんか変ですよね、、、常に自分からチャレンジを作ってる気しませんか?????何かにチャレンジしてないと何か苦しいような。。。。です。それって全部これなんです、無いものを在ると信じ込んで生きている、、その憤り、その憤りを感じないで済むように前に前にチャレンジして、、何かを得ることに向けて意識を集中してるんです。何にもしなくていいですよ!!!なんて言われちゃったら困っちゃうんです。

暇が一番辛い

暇って辛いんです、暇って苦しいんです。。。。それって変じゃないですか???????動物が何もせずに一日中日向ぼっこしてますよね!!!辛そうですか??????辛いわけないんです、、、自己意識がないですから。何もしていないと辛い、、、、みんな知っていますよね。なぜ辛いんでしょうか????本当の私って誰???これを無視しているから辛いんです。

ひろゆき氏を論破する方法

これしかない

ひろゆきさん、、論破王などと呼ばれていますが、、なぜ彼は論破できるのか?????人を。一番印象的なのは「彼は事実ベースで議論を進めていく」ということではないでしょうか。。。あなたの理想や感情の話はいいんですよ、、事実を教えてもらえますか????この展開ですよね!!残念ながらこの展開、、、私には絶対に勝てないんです。それを説明しましょう。

事実はこの世界にはない

ひろゆきさんが話しているその事実ですが、、、事実とは、、、思考や感情ではなくデータですよね、、要は動かすことが出来ない数字や科学のことです。信念や理想、思考ではなく、、数字です。ところがこの数字は、、見ている人の観念が反映されたものです。つまりひろゆきさんの観念が反映されたものなのです。例えば数学は女より男の方が得意だよね!!!これが観念ならば、、そういうデータが今ひろゆきさんの前に出現するのです。私たちが言っている事実とは観念が投影された数字、データなのです。だから数字をどんなに持ってきても、、意味がないのです。

観念が投影された世界であるという証拠を見せてください

こう反論されたならばどう切り返すか?????ならば「この見える世界が観念の投影ではない」という証拠を出せるならばこの議論は決着します。これが不可能なのです、、、我々が住む世界は実は宇宙空間に在るっていう仮説以外が何もないのです、、、長紐理論、、何とか理論、、各種理論はたくさんあるんですが、、、誰も分かっていません。我々がどこに居るかも分からないのですから、、、事実を前提にした議論(自称)って無茶苦茶なんです。

寸分違わず孤独を感じるためには

非孤独にしかこの芸はできない

私はこのぐらい孤独だ、、、私こそうつ病になるほど孤独だ、、私なんて死にたくなるぐらいですよ、、、、どちらがどのぐらいに孤独かは、、誰にも分かりません。。なぜならば比較のしようがないし、、全ては自分にしか感じることができないからです。ですがそれと同時に、、自分の孤独感は言葉では表現できませんが寸分違わずに感じているはずです。今日は孤独感をいまいち感じづらい、、本当はもっとあるはずなんだけど、、、とかないですよね。なぜか??????孤独を感じているのはこの私という感覚ではなく「非孤独」だからです。

「非孤独」が寸分違わず今「孤独感」を 感じているのだ。

孤独感を寸分違わずに感じるには全く孤独でない「何か」でしかできません。混ざり物なしの「何か」です。それは非孤独です、、、孤独が全くない存在、、、つまり神とか大いなる存在とですよね。。。。そうです私の本質はこの「非孤独」であり大いなる存在であり、神です。孤独で本当に死にたいぐらいですよ!!!!を感じているのが非孤独、神、大いなる存在です。孤独感が全くない存在でしか孤独感を寸分違わず感じることはできないのです。

世界中の全ての不幸を背負って

世界中の全ての不幸を背負ったような顔をして、、、、ですがそれを寸分違わずに感じることができているのは「神」「非不幸」だからです。不幸混じりっけゼロの存在でしか世界中の不幸を寸分違わず感じることはできないのです。え???????じゃあ私は今神なのですか?????そうです。間違いなくそうです。神が「私が居る」という感覚を作り出しその私が「世界中の不幸を背負っている」という感覚を作り出し、、全感情を味わっているのです。混じりっけゼロの神です。

神ならさっさとこの自分という感覚を消してよ!!!!

無理です、、神には「ああしよう、こうしよう、こっちにしよう、やっぱやめよう」なんて意思はないんです。神は全部ですから全可能性が起こるんです、、全くの未知、全可能性、だけしかありません。何が起きるか全くわからない、、これだけが真実です。もしかしたら今日それが起きるかもしれない、明日かもすれない、、、

苦しみを直視すると苦しみが消える

この苦しみは自分という感覚が作っている

最も分かりやすい感覚、、孤独感、、、この感覚はいったいどっから来ているのでしょうか????この感覚はこの世界でたった一人である、、という状況が起こす感情ではないんです。この感情はこの世界にたった一人だという感覚が起こす感情です。感覚は真実ではありません、、感覚とはそう思い込むことで生まれるものです。つまりこの体の中には自分という存在が居るとそう何度も思い込むことでその感覚が生じてくるのです。その感覚こそが、、、苦しみとなり、、孤独感という苦しみが変容した感情になります。この事実を無視して、、いつも誰かと一緒に居よう!を継続しても、、この苦しみが消えたのではなく、、、蓋をしただけですから決して孤独感が消えることはないのです。その証拠にこれは毎日のように襲ってくるでしょう。

全感情は「自分」という感覚が作る

全感情は自分という感覚こそが作っているという事実に向き合いますと、、憤りが大きくなることなくむしろ小さくなっていきます。なぜならば感情を生み出す根本原因を直視するということは、、、問題が作り出される状況を俯瞰することであり、、俯瞰とはまさに本当の自分に戻ることだからです。俯瞰するとは高い位置から「何か」がこの現象を見ることであり、、その何かとはまさに本質の自分のことなのです。

苦しみの出所を直視する

多くの方は今「孤独だ」今「怒っている」今「ムカついている」だから、、、こうこうしようと、、、、インスタントにこれを片付けます。。。ですが本当の本当の苦しみの根源はどこから出ているのか????に関心を持てません。これには自我の巧妙なトリックが働き外に外に関心が行くようになっています。そして外ではなく中では???と気づいた者には、、、人格向上、霊格向上、霊的進化、、、と自我以外に原因があることに誘うのです。ですが本当の本当は「私が居る」というこの感覚です。これが全苦しみの原料になっているのです。