自我半端ねー

どうしても注目されたい

本当にダメなんです!!!目立ちたくて目立ちたくて、、ついつい余計なことを言っちゃうんです!!!!何でなんですか????なんとかしてこの性格を治したいんです!!!!!!無理です、、、目立とうとする理由を理解しないと。表面上大人しくしても無駄です。それは何の効果もありません。目立ちたい理由は「あなた」が「私」を強烈に気付いているからです。「あなた」と「私」が既に分離していて目の前の「私」を認識しちゃっているからです。「大いなる存在」が自動的に「自我」に気付いちゃっているのです。悟りのプロセスが進んでしまっています。この流れに「引き戻す」という文字はありません。

もっと引き離す

強烈に強烈に「自我」を認識できるということは強烈に「今」にあって自我の動きを認識しちゃってんです。だからこの自我の動きをどうするか??????にフォーカスするのではなく選手交代です。。。自我を認識するこの本当の自分こそが本当の自分なんだ、、だからもう自我は選手終了である、、、と気づくのです。無理です、、自我に気付いちゃっておいて自我を忘れるって、、、、、、。もっともっと自我の動きに敏感になって、、だから私は自我ではない、、、という気づきに至るんです。

矢沢永吉

彼の自我は最強に最強に大きいでしょう。ですが同時にファンの動きにも鋭敏で鋭敏、、ファン心理を心得ています。なぜ??????なぜ??????両立する????????なぜ自分のこと大好き大好き星人が、、なぜファンの心理に敏感に敏感になれるのか??????逆ベクトルがなぜ両立する????????ベクトルに矛盾は一切ありませんよ!!!!!!!自我に強烈に気づき、、、、ファンにも強烈に気づく、、、両対象は、、、「本当の自分」からは同ベクトルです。

自信を持っていい

自我の動きに、周囲の動きに気付けちゃうんです。それは大いなる存在の自覚がそうさせます。無我の自覚が自我、他我の動きに鋭敏に気づくのです。つまり多くの時間を無我で過ごせるからこそ、、、気づくのです。もっと無我になってもっと自我の動きに気づいてください、、その先に、、いやいや、、、これ自我はあるけど、、、、これ俺じゃないし、、、が起こります。自我が無我に再吸収されます。

半端なく感じるならば

ダメです、、滅茶苦茶自我が強くて。。。。。

本当に滅茶苦茶自我が強過ぎて、、、、人生上手くいかなんです。社会で立ち回るには自我が強過ぎて、、、やっていけません。。。。どうしたらいいのでしょうか????????え????????自我を認識してるんですか????????そうです、半端なく自我が強いのを認識しています。え???????誰がその自我を認識しているんですか???????自我は自我を認識できませんよ!!!!!!!

つまり

「自我が半端ないと思っているならば」、、、、、「あなたはその自我を認識できる大いなる存在」であるという証拠です。そしてそれだけ強く強く自我を認識できるといことは半端なく「大いなる存在」であることを認識できているのです。自我を対象としてガッツリと認識しているんですよ!!!!!!だから自我が強いと認識してますよ!!!!!!!!!

一歩前

要は自我が強いという認識が起こった時点で、、、もう悟りは直近だったんです。友人の存在を半端なく認識できるのは、、、友人は「本当の私」ではないからです。だからその友人の存在に気付けるのです。そしてその延長線上で「私、自我」を強く強く強く意織したんです、認識したんです。なぜならば「本当の私」が「本当の私」で在るからです。自我が強いから苦しい??????????冗談は辞めてください、、、、もうあなたは、、、既に自我ではないんです。自我を強烈に認識できる「存在」になっちゃってます。

認識できちゃう????

対象は「本当の私」ではない

空を見ます、、鳥が居ます、、、鳥を確認できます、、、、この鳥は「本当の私」ではありません。雲が見えます、、この雲は「本当の私」ではありません。コーヒーを呑みます、、味がします、、このコーヒーは「本当の私」ではありません。友人の姿があります、、それを認識します、、これは「本当の私」ではありません。鏡を見ます、、鏡に「私」の姿が写りますが、、、これは「本当の私」ではありません。

では???

つまり対象となるモノ、認識できるモノ、、、これは本当の私ではありません。「本当の私」ではないから「認識」できるのです。当たり前ですよね、、認識とは「本当の私」が「本当の私ではない対象」に対して起こるのです。ここ最重要ですよ。。。。。。。ではこの体は??????この体は認識できますよね???????つまりこの体は「本当の私」ではないのです。そしてこの体の中の「私」これ認識できますよね????だから「私」「俺」「自分」って認識してますよね??????つまりこれは「本当の私」ではないんです。

本当の私

この世界の全てを「本当の私」は認識しています。。。外を見る、何かを食べる、、音楽を聞く、、、一日中認識しっぱなしです。。。これら全ては「本当の私」ではありません。では「本当の私」とは何なのか??????ここで「認識できる全て」以外です。本当の私=「認識できる全て以外」です。これを仏教では「空」と呼びます。では「認識できる全て以外」が「空、本当の私」ならば、、認識できる対象は一体全体何なんでしょうか????????それは認識できる「本当の私」です。これを仏教では「色」と呼びます。

鏡に映った姿

認識できる対象とは、、、「空、本当の自分」の鏡に映った姿です。だから認識できるのです。コーヒーも、空も鳥も、犬も、猫も、、、認識できるならば、、それは「本当の私、空」の鏡に映った姿なんです。そして、、、この体もこの体の中の「私」も認識してきましたよね????????「私」やってましたよね????だからこれは「本当の私、空」の鏡に映った姿です。これを色と呼びます。では鏡に映った「本当の私」はどこに存在するのでしょうか??????どこ??????「本当の私」の一部です。

貪る

なぜ??????

なぜ全部欲しくなるのか????ポケモンカード、バッグ、洋服、アクセ、レアシューズ、車、、、人の趣味にはキリがありません。欲しい欲しい全部欲しい、、、集め出したら止まらない、、、誰しもそんな分野持っています。でもその欲しがっている顔に生気がないのです、目は血走っていますが生気がない。この世界を物質であると「思考」し有限の世界と「思考」しているから、、集めときたい、、、今あるモノすべて、、、となるのです。

物質じゃない

ここには物質と呼ばれるような「実在」は何も存在しません。五感を使ってどこまでもそう「思う」ことはできますが、、、どこまでいってもそう「思う」のが限界です。そう「感じる」ことはできても、、、だからといって「物質として存在する」には至らないのです。残念ながらあなたが集めたすべての車は、、物質ではなく、、ただの画像です。。。そしてそのことをどこかで知っているから「虚しい」が残ります。

所有したい

年に数回しか乗らないのならば、、、「車屋」さんに行ってたまに見ればそれで同じです。ですが所有したい所有したい、、が湧いてくる。。。誰が所有するのか?????この体です、、、この体が所有したいのです。ですが残念ながらこの体も物質ではなく画像です、、、、この体という画像がこの車という画像の所有者になりました。「契約書」にはハッキリと「名前」が明記されています、、、、ところがその契約書も「画像」です。この画像が欲しくて買ったのです。

見抜く

子供は見抜くんです、、、高級マンション、高級バー、高級バッグ、、これを貪る大人の顔が貧しいことを。「私の物」と書いてある画像が欲しくて「よだれ」を垂らしているだけなことを知っています。大人も実は知っています、、だから内心では不安でしょうがいないのです。心の底では満足できていないことをよーくよーく知っているのですから。

自然豊か

豊かな住人

海があって、山があって、花が咲き、空気が美味しく、、、そのような環境に恵まれた状況で「結果にコミットして事業を興そう」ってなります??????「結果がすべて、結果を着実に出せる起業家になる!!!」ってなりますか??????なりません、、、、、なぜ??????だって今、ここに既に大満足だからです。いまここ、、という結果に満足に浸り切っているからです。

変えなくちゃいけない??????

日本経済は元気がなくて、若者も夢もない、、、もっと若者が夢を語れる国にしたんです!!!!世の中が活気をうしなっているように見えるのは、、、そう見えるような概念に埋め尽くされているからです。本当はここには一切の物質が存在せず、、ただ景色だけがあります。その景色が、、そう見えるようになるまで概念が積み上げられたのです。脳も物質としては100%ありません、、その概念だけが増えていったのです。

これは物質ではない

これは物質でも空間でもありません、、ですから変えると言ってもそれはその景色、画角のみです。画像が変わるのです。その画像の変化を見て、、いやー本当に変わってよかった!!!!!って思えるのはやっぱりこれが物質を「思える」時だけでしょう。これがただの画角であることに気付いて本当に喜べますか?????変化じゃなくて、、ここにこの多彩で多様な絵が在る、、そのことが凄いのです。ただの画角、映像だと気付いた時、、もうそこにそれがあるのが凄いと感じてしまいます。

100%幸福になれる思考?????

終わりがない

数学の証明では、、、学者がある方程式を発見したら、、その学者の名前がその法則に付けられたりします。要はその法則は証明済だという「記録」が残るのです。すると学者はその法則を使って次の法則を発見しようと努めます。つまり証明済みの法則はもう誰も再証明しようとはしないのです。「幸福の法則」これに証明がなされたことはありますか??????ないんです。。。つまり誰もこれを証明できていないのです。ということは全ツール、全法則は、、、未完であるということです。

残念

本屋に行って購入するすべての本は「私が幸福になる法則」です。主語に私ががっつり入っています。だから誰もその法則を証明できていないのです。釈迦、キリスト、老子などの見かけ上の覚者は何に気づいたのか???????「私も存在せず誰も存在せず、、ただこれだけがある」ということです。その時「真の安らぎ」だけが「ここ」にあります。真理はそれを伝えるべき相手が居ないのです。

これだけ毎年書籍が売られる理由

毎年書籍は何千冊と新たに新書が出ます、、、、なぜそこまで出るのか???????簡単です、、、、誰もそれで真の幸福を手に入れていないからです。もう二度と本は読まない、、、、こうならないのです。なぜか???????誰も幸福になれないからに決まっています。真実「あなたは幸福にはなれません」という書籍が売れるわけもなく、、、、ここはゆえに最終章なのです。

あれ????本当だ。。。。

急に気づく

ノンデュアリティの勉強をしていても、、勉強中はなんとなく分かってはくるんですが日常生活に戻ると、、直ぐに自分が出てきて普通の生活に戻っちゃうんです。当たり前です!!!!!!自我ありきでここまで生き抜いてきたんです、、簡単に自我を忘れてとか無理に決まっている、、、逆にヤバイですよ!!!!!本を読んで簡単に「私」を忘れるようじゃ!!!!!何十年間私やってんだ!!!!って話です。

ところが

いつの間にか、、急に気づくんです!!!!!!あれ?????本当だ!!!!!!!!私なんて存在しないで感覚だけがあんじゃん!!!!五感という経験だけがあんじゃん!!!!!って。。気づくと静寂が「シーン」とあって、、、あれ??????全然不快じゃない・・・・・・・・が起こります。

何かが変わっている

着実に着実に何かが変わっていきます、、、言葉にできない何かが変わっているんです・・・・だから何も心配せずただ楽しんで楽しんで非二元の勉強を続けてください。面白い!!!と感じている時点でもう準備はできています。苦しくて手に入れたい方は、、、速攻効果を求めます。そこには面白い!!!はありません、、ですが準備ができている方は、、、、、面白い!!!が起こります。これが準備完了の証拠です。

虚無感

急にふと、、、誰も居ないって怖い!!!!!となります。非二元の勉強を進めていきますと「怖い!!!!」が時折起こるのです。ですが、、、、ですが、、、、これ「自我」を強烈に意織していますよ!!!!「怖い」という「感情」の主語には「私」が存在しています。空想の中で「一人ぼっちの私」が思考され「怖い!!!!!」が現れでたのです。嘘嘘嘘です。

幼稚園児

幼稚園児が「母親が居ない時」ワンワン泣くのは、、、、本能的反応です。。母親が子供のことを忘れないための反応に過ぎません。孤独感、、、とかではないんです。非二元を学んでいきますと、、、お気楽、、はあっても孤独はないんです、、、なぜならば孤独になるには自分が強烈に必要だからです。自分という存在は思考が作り出す「幻想」「妄想」「空想」であることに本当に本当に気づけたら、、孤独感、虚無感は起こりません。

感情

この見かけ上の体には感情がたっぷりと溜まっていきます。これは物質ではありません、、ですがこの見かけ上の体の硬直はそのまま感情が含まれています。この身かけ上の体から感情が溢れてきて「自我」の存在を意織させます。寂しい、苦しい、悲しい、辛い、あらゆる感情がこの見かけ上の体から溢れてきて、、「原因」を探そうと思考が起こるのです。この反応は自動で起こるため、、、悟りを学んでいる時は意識的に体を解すことをお勧めします。

背負えない

経験

経験しか起こらないし、これからも起こらない、、経験以外を経験しようがない、、経験の主体が存在せず、、起こるのは思考のみ。。そのような中で一体何を背負えるというのでしょうか?????この画角の中の登場人物はあたかも「あなたには責任がある」という口調で話しかけてきますが、、注意深く注意深く観察してください、、その人物はここに居ない時「世界から消えています」。

誰もどうせ存在しないのだから

究極を言ってしまえば本当に誰も誰も存在しないのです。この画角の中では存在しているように見えてもこの画角の外には誰も居ない。。この画角は空間ではなく、、画角です。つまりこの画角の中に現れでたところで、、それも画像です。人間という物体を持ってこの画角には存在できないのです。

この体も

この体もこの画角に入ったところで物体としては存在できません。この画角の中は画角のみです。変化する画角以外のモノは存在しません。だから一枚画角のみ、、音があって触があって味があって臭はありますが、、それ以上の何かを探しても全く全くでてこないのです。探してみてください、、、どれほど頑張ってもその「五感」以外が現れない、、、現れない現れない、、、という思考だけが現れます。俺はどこに居る??????という思考だけが激しく現れます。その時、、「背負う何か」も「背負える誰か」も本当に存在しないことに気づきます。

空間

空間がない??????

何を言うてんねん??????ていう話ですが空間ってありません。。。。私たちが想像する空間って一切ないんです。部屋がありますね、、、奥行きがあると思っていますが、、ありません。本当はこの視界という絵これだけです。その絵の中の何か花瓶らしきもの、、を取りたい時、、手を伸ばします、、、手が伸びるのではなく、、その絵に手が現れ、、絵が変わり続け、、手が花瓶に触れるという絵が起こるのです。その時花瓶の感覚があるから「花瓶」に触れたと「思う」のです。奥行きがあると「思う」のです。

花瓶

空間の中をこの体が歩き手を伸ばし花瓶に触れるから「この体」も存在すると「思う」のです。ですが実際には視界だけが変わり続けます。だからこの体も存在しません、、この体が存在しないのだから「この私」も幻想、思い込み、想念です。この体は実在はしませんが画像としてはガンガン現れます、そしてこの画像が消えればこの世界も消えますからこの画像は大切なのです。だからこの体と呼ばれる画像の中に「私」は居ていいんです。。ですがこれは画像ですからこの体の中の私は幻想として存在する自覚(自ら覚る)が必要です。

本当は「これ」

本当は本当は「これ」しかありませんが「これ」の中の人間画像からは、、中心に向かって声をかけてきます。「鈴木さん」と、、、、鈴木さんという個別存在はいませんがこの中心には名前があってそこに話しかけてきます。そしてその体という画像に話しかけると「反応」があるのです。それだけが事実です。この画像に映り込んだ体という画像は話しかけると「反応」する、、これだけが事実です。

「寂しい」も消える

本当は誰も居ないことが分かってきますと虚無感みたいなものが起こりはしますが、、それはこの体に「私」が居ると信じる動きが起こす技です。本当の意味で何もない、、が分かればもうお気楽過ぎて、、寂しんでなんていられません。今までの重い重い「重り」が取れて完全解放されます。自分なんてものは本当に居なかったんじゃん、、、でもまー分かっていたよね。。。。というなんとも不思議な思考が起こります。