全部違う

引き寄せる?????

明るい服を着て明るい言葉を喋って夢を言葉にして夢を写真にして、、、そうやってそうやって人生を宝箱みたいに素敵にしていきましょう!!!!!分かるんです、、、そうです、、そうやってやっていけば変わって行きますよね、、色々。。。。。。でもどこか苦しくないですか??????どこかで何かが違うこと分かってますよね?????子供の頃のあの感じとは何かが違うの知ってますよね?????

視界

なぜ明るい服を着ると気分が良いんですか????素敵な服を着るとテンションが上がるんでしょうか?????我々が視界そのものだからです。その視界にチラチラその素敵な服が映るから気分が良いんです。視界が視界に映った素敵な服に喜んでいるんです。素敵な車が視界にチラチラ入れば気分が良いんです、我々は視界そのものですから。でもそれを私の服、私の車、私の私の、、、になっていく。。。。すると「何か違う」が湧いてくる、、、手に入れると「何か違う」が湧いてくるんです。当たり前です、、我々は視界であって何かを手に入れれる誰かではないからです。

手に入れた物に縛られていく

素敵な服、素敵な車、素敵なパートナー、素敵な仲間、素敵な家族、、素敵な家、、、それでいいんです。。。。それ自体は何も問題がない。。。。ところがその所有者は誰か?????となった瞬間に「何か違う」が起こるのです。だって所有者は本当は存在しないんです、、存在しないのに「私」とした瞬間「何かが違う」が起こります。本当は「視界」なんです、、その「視界」は本当はこの体の中の私は私じゃないことを知っています。だから即答で「何か違う」が湧くのです。

「何か違う」を消したくて

「何か違う」が湧くから、、、え??????これも違うの?????ウッソーン。。。。。が起こります。じゃあ仕方ない、、もう一人彼女を作ろう、、、仕方ない、、、奥さん以外にも彼女作るか、、、仕方ない、、、車もう一台購入しよう、、、仕方ない、、、会社もう一社だ、、、、、となるんです。「何か違う」っていうのはそういう意味の何か違うじゃないんです。。。「主語が違う」の何か違うなんです。

主語が違う

勘違い

私たちはどうやったって幸せにはなれません、、どう転んでも、、、3億円の宝くじに当たろうが、、、とんでもない最愛の人と結婚しようが、、どうやったって幸せにはなれないのです。なぜならば主語を間違えちゃったからです。ある時主語が入れ替わっちゃたんです。ある日突然私が私じゃなくなったんです。ある日突然気づいたらこの体の中の私を私と呼んでいたんです。そこからです、、なんかしんどい、、なんか違う、、、なんか違うけど、、やるしかないのか、、、の日々です。

毎日学校に行くのよ

ちゃんと寝なさい、、明日は学校なんだから。。。この言葉の行き先、向き先、、対象は「私」です。なんかしらないけれどこの体の中の「私」には色々色々やらなきゃいけないことがあって、、どうやらこの先、、死ぬまでやらないことをやっていかなくてはいけないようだ、、、、が起こります。何かが違う、、でも言葉にできない。。。こんなはずじゃないんだけれど、、話す相手が居ない。。。。

強引に

小学校高学年になればもう「この体の中の私」を疑うなどという発想はありません。すっかりとこの私になっています。この私の将来目標、、、、この私のなりたい仕事、、この私の理想の相手ができちゃっているんです。なんか違う、、、は消えてなくなり、、、、人生とは我慢することが当たり前に、、、なります。大人になるってそういうことだよね、、、です。

宇宙空間地球号では幸福にはなれない

諦める

宇宙空間地球号、、この生命体に乗っている期間は我々は幸福にはなれません。この地球という惑星に住んでいる以上は、、、我々は幸福にはなれない、、だからこの地球を脱出しなくてはいけません。今です、、今脱出するのです。。。今???????どうやって????????何千億円払ったって1ヶ月宇宙旅行も出来ませんよ。。。。。1円もかかりません、、、、無料です。無料でこの地球から今脱出できます。

そもそも住んでいなかったことに気づく

簡単です、、簡単過ぎるんです。。。我々はそもそもこの地球に住んですらいないのです。そのことに気づくだけです。え?????????住んでいない???????頭が狂っちゃったんですか???????狂っているのは我々の方です。広大な宇宙の小さな小さな地球号に乗ってとんでもないスピードで自転を繰り返しながら公転もし、、さらに太陽系すらも公転している??????いやいや忙し過ぎますよね????????やってないです、、そんなこと。。。。。。

視界だけがある

我々は実はこの「視界」の中に住んでいるんです。空間があってそれを目が「切り取っている」んじゃないんです。空間はないんです、「視界」だけがあるんです。広大な宇宙のこの目の前のスペースを切り取って見ているんじゃないんです、、「視界」のみあるんです。「視界」以外は存在しないんです。「視界」というのは空間ではありません、、、空間がある、、というのは思考です概念です。。。「視界」だけがあります。奥行きなど一切ありません。

奥行きゼロ

奥行きがあると信じていたから、、空間があると信じ、、、地球があると信じ、、、太陽系があると信じ、、銀河系があると信じ、、〇〇系があると信じ、、、、、宇宙の果てがあると信じてきたんです。。ないんです、、奥行きが、、、、「視界」だけがあります。もちろん、月に旅行に行けば「視界」に地球と呼ばれる星が映りますよ、、、でもそれは空間のことじゃなくて、、映像です。奥行きがないのですから。

ズッコケる

最初から我々はこの地球という星に一度も住んだことがなかったのです。「映像」だけがあったんです、、つまりその映像の中にこの「肉体」もありません、、、「肉体」と呼ばれる映像はあります。。。映像ですからこの「肉体」と肉体以外には境界線がありません、、、映像としてはあるように見えます、、でもないんです。だからこの肉体がこの地球に住むというのは空想です。。。本当はこの肉体の映像と地球と呼ばれる映像のみです。

なんで学校で教えてくれないの??????

学校で教えてくれるはずの先生が「映像」でしかないからです。「先生」という物体が存在しないんです、、「先生」と呼ばれる映像のみです、、その映像が教えてくれなかっただけです、、そこには意味はありません、、、たまたまそうだったという話です。

洒落にならない

この肉体に生を預かり??????この肉体は物体ではなく映像です、、預かりたくても預かる物体が存在しません。だからこの肉体に魂が存在したくても物体がないから入れないのです。私の体には先祖代々のご先祖様がついていて?????いやいやこの体映像ですから映像につくってどうやって??????

私とはこの「視界」

本当の私とはこの「視界」です。「視界」の中に「体」もあらゆる映像として写りはしますが「視界」そのものにはなれません。「視界」があって、、、その中にちょくちょく映るのがこの体です。この私は「視界」ですから物体でもなく、、何ものかではないんです。「視界」と視界を認識する「意織」です。じゃあこの「視界」はどこにあるんですか?????どこにも何も空間が存在しないのですから収まる場所がありません。「意織」はどこにあるんですか????意識も同じです、、、意識が収まる場所がないんです。

どこから生まれたの?????

我々とは「視界」ですから、、「視界」に時間は存在しません。ですからどこから生まれるというのは不可能なんです。視界は今「空」の鏡としてここにあります。視界は「絶対」の鏡としてここにあります。視界は「無限」の鏡としてここにあるのです。今私が「視界」として私を見ています。そして世界には「私」しかいないのですから「私」と「私以外」がありません。だから「空」のことを私とは呼びません。

五感が鈍ると思考に走る

五感が鈍ると食に走る

なぜ思考ばかりを巡らせてしまうのか???????五感では退屈しているからです。ただあるがままが退屈だから思考に走るのです。つまり妄想に耽るのです。ですがこの妄想は刺激的ですが「違和感」を伴います。だから苦しいわけです。苦しいからといってありがままでは退屈なわけです、、、だからこの違和感をさらに思考で解消しようとしますがその動きこそが「違和感」を生み出します。

五感が鈍った理由

この体の中には自分が居てこの私は生き抜くための努力を強いなければならない、、、この思い込みが「楽しい」よりも「やるべきこと」を優先するようになります。我慢して我慢してでもやるべきことをやる、、、これが体を鈍感にしていきます。体が鈍感になっていきますとこのあるがままの生が退屈になるので、、、思考に走るのです。妄想癖になっていくのです。

だから

重要なことは五感を開くのです、、体を整えて五感を開いていきます。体が整えば整うほど、、五感が開けば開くほど、、、ただあるがままの生が楽しくなります。妄想を求めなくなります。あらゆる癖が無くなっていきます、食癖、性癖、嗜好品癖、、、、なぜならばこれらは退屈に対する刺激ですから。なぜ〇〇中毒が解消しないかと言えば、、退屈が原因だからです。そしてその中毒こそがさらに体を鈍感にし退屈にしていくのです。

最初に物があって、、、

違う

最初に物、対象物があってそれが視界に映った、、、、そう人間は「考え」ます。違います、、、視界だけが存在します。物も対象物も存在しません。この世界には分離が100%ないので、、、私にはその対象物がこう映っています、、、というのは空想妄想幻想です。事実では、、そのままの視界だけが起こったのです。視界だけが最初に起こり、、その視界を利用して、、、「私がこのグラスを見た」というストーリーをぶち上げるのです。

GAPに行ってきた

今日GAPに買い物に行ってきたよ、、、違います、、、GAPというお店の映像がただ起こったのです。そこでTシャツを買いました、、、その画像の中で「お金」と「Tシャツ」が交換されて、、今ここにそれがあるのです。Tシャツがこの部屋の中に在るという映像に切り替わったのです。分離が100%存在しないこの世界に、、空間は存在しません。視界、画像の中にギャップと呼ばれる店が映し出され、、今部屋と呼ばれる画像に変わっているのです。

大革命

人類は革命の時を迎えたのです。真実をベースにした思考の中に住むのではなく真実そのものの中で思考が起こす作用を自覚して生きる、、という時代への革命です。思考がどのように真実をこねくり回しても真実が変わることは絶対にないのです。思考は常に真実を利用してああだこうだと騒ぐのです。思考が何をしているのか????そこに明晰に気づく、、これが悟りです。

空間がないのだから

頑張る?????

なぜ頑張らないといけないのでしょうか????だってこの世界で生きていくには頑張って働いて生き延びないといけないじゃないですか!!!この世界?????この世界ってどの世界のことですか?????ここですよ、、この体があってこの私が存在するこの場所です。この場所??????この場所ってのはこの「視界」のことですか????そうです!!!この視界に映るこの場所です!!!!これは視界であって場所ではないんです。「視界」それだけです。

視界

我々は「視界」があるからその視界に映る「場所」があると信じているんです。視界に映し出された「場所」があると信じています。ですがこの世界には分離がないんです。分離が絶対に絶対にないのです、、つまり「視界」と「その場所」の二つがあるのではなく「視界」だけが存在します。つまり視界に映し出された場所は絶対に絶対に存在しないのです。

え??????

友人が存在し、、その友人の姿が視界に現れたのではないんですか?????違います、、視界だけが存在します。「映る」という分離は存在しません。その視界のみが続くのです。何かがあってそれが私にはこう見えている、、ということではなく「視界」だけが存在します。

視界に映った魚

視界に小さな魚らしきものが写りました。人間はここからだとよく見えないから魚をもっと近くで見ようと「考え」ます。近くに行ったから魚がよく見えました、、となりますが、、、、実際には「魚らしきもの」があってそれが魚に変わったのです。え???????そうです、、、視界が全てですから「魚らしきもの」だったんです、、それが魚と呼ばれる何かに変わったのです。「私」が近づいたのではありません、画像がそのままに変わったのです。

信じる動き

お金

お金を得たら幸福になれますよね???????なんでですか?????そう信じているからです。だからお金が欲しいんです。そう信じているから。なぜ家族が欲しいんですか?????だって家族が居れば幸せじゃないですか!!!!そう信じているからです。信じることが信じる通りにいっているから一応安心しているんです。

幸せって信じるもの?????

そうです、、我々はこうなっていれば幸せだろう、、、、、という考え方を信じているから、、、その通りになった時に「だから俺は幸せに違いない」とさらに信じます。え???????幸せって信じることなんですか?????違いますね、、全然違うんです、、、、このことに気づいた順から悟りへの興味が湧き始めます。

信じる、、じゃない

宝くじ3億円に当たった!!!!!その時の至福、、、信じていませんよね?????感じてますよね。。。金メダル取得!!!!!、、、その時の至福、、信じていません、、感じています。。。そうです、、、幸せって信じるんじゃなくて感じるモノです。

見抜く

そのことに気づきますと、、、もう「頭で考えた妄想」を追いかけるよりも「感じる」を追いかけ始めます。何を私は幸福と感じているか?????「あれか」「これか」です。頭で考えた幸福を「信じる」動きから、、、本当の幸福を「感じる」に動きがシフトします。

STOP

何をしたらいいですか?????STOP

いつもいつもいつもいつも次は何をしなきゃ、、次は次は、、、、眠りにつくその瞬間まで次は次は?????それをやっていないと落ち着かない。慌てていないと落ち着かない、、、のです。私は前に前に進んでいないと気が済まない。。だから「真実はこうなっているんです」の回答が「で?????何をしたらいいですか????」になります。

その動きが止まるまで

真実の気づきとは、、「で????何をしたらいいですか????」が止まることです。。その動き、前に前にが止まることが「気づく」ということです。だって「私」が幻想に過ぎないと心から気づいて「何」をするんですか?????それを捕まえて何かをしよう!!!!って思っている時点で、、それまだ幻想と見抜いていませんよ。

先に進むことの終わり

先に進まなくていいんです、もう先を追いかけて追いかけることで安心する必要がないんです。だって追いかけてきた自分って幻想としてしか存在していないのです。その幻想が何かを捕まえてもそれも幻想、、幻想が幻想を捕まえたという幻想を見るだけです。その映画、、なぜ見続けたいのですか??????その映画にはフィナーレが用意されていて「ハッピーエンド」が約束されていますか?????いませんよ、、そしてそのことを本当は分かっていますよね?????

全部最初から分かってた

こうなる

言葉が幻想をそのままに作り出す、、そのことは誰でもみんな分かっているんです。「お父さんは世界で一番強いんだ」この言葉を子供が発する時子供の中では「お父さんは世界で一番強いんです」ですが同時にそれを信じる動きが起こります「だって力持ちだから」「だって相撲で負けないから」「だって仮面ライダーより強いって言ってたらから」この思考の連鎖が起こるのはどこかで「違和感」を感じているからです。よく分かんない違和感を生じています。

100人100様の考え方

100人にインタビューすれば100人の考え方があります。真実は一つなのに100人の考え方がある?????そうです「考え方」は全部勘違いなんです、、だから100人100様が可能なのです。考え方=勘違いです。真実では「考え方」は自然現象の一つです。100人の考え方は100の自然現象が起こっています。真実では『「考え方」が自然現象として起こりそのままに認識される』その全てが「わたし」です。そして全てが「わたし」ならばわたしも存在しません、わたし以外が存在しないのですから。

全体が私なのだから

「私は世界一最強」と信じ切っても、、その認識が「全体」で起こり、、その「全体」が私ですから、、それが違うことに気づきます。真実が「嘘」に気づくのです。だからいつも「違和感」が起こっています、違和感だからです。ですから真実に目覚めた時「分かってた」という不思議な感覚が生まれるのです。最初からこれ「分かってた」が起こります。

思考を信じる動き

認識が起こったから

それが滅茶苦茶な理論であってもその通りに認識されます。「なんで宿題やらないの?????」「明日大地震が来る気するんだ」その言葉を発し瞬間そのように認識されます「明日大地震が来る」この思考が心で起こった時そのままに認識されます。そしてそれを信じる動きが起こる時「だから宿題は辞めよう」が起こります。「親には先生にはなんて言えばいいかなー?????」「聞かれたら正直に言えばいいや」「親はいけても先生は難しい、、、先生には忘れたって言おう」これがエンドレスに起こるのです。妄想???????その通り!!!!!

「私が居る」

なんであなたは存在するんですか????「だって居るから」ですよ。「私は体の中の住人」この言葉の認識が起こればそれはそのままに認識されます。そしてその言葉の後に「私は今年何しよう????」「あれをやろうか」「これをやろうか」「そう言えば貯金貯めなきゃ」とエンドレスに続くのです。。妄想????????その通りです。

時間ってあるよね、空間もあるよね

この思考が起こればそのままに認識だれます、、、だから時間も空間もある、、となります。言葉遊び、思考遊びです。最初からあるものは一切なく、、全ては言葉がその認識を起こすのです。ですがその認識の全ては「幻想」ですからそこに気づく必要があるのです。言葉はあらゆる認識を起こすがそれは全て「幻想」です。そして重要なこと「幻想」に良いも悪いもないのです。幻想は幻想で在ることに気づくだけです。そして幻想を幻想と見抜いていない時「違和感」が起こります。なぜならばどこかでそのことが分かっているからです。