レアカード

突然

家の中に放っておいた一枚のカードがあります。ポケモンカードです、、親戚のおじちゃんがお土産でくれたポケモンカード、、全く興味がない私はテーブルの上にほったらかしにして置いてありました。ある日友人が訪ねてきてそれを発見「これ1億円価値あるレアだぞ!!!!」それまで放っておいたカードが「1億円カード」に変わりました。それからはそれを金庫に入れて大事に大事に保管します。

何が起きたのか?????

この世界は分離が100%存在しません。よってそのカードも100%存在しない、、、ただの景色の一部です。そしてそれまではまさに景色の一部でした、私にとって。ですが友人の「1億円レアカード」という「言葉」この言葉によって魔法がかかりそれが「1億円カード」に変わったのです。起こったことはこの友人の言葉のみです。記憶です、この言葉が記憶されそれを見た瞬間「1億円カード」として浮かび上がるのです。そのカードがそうなったのではないのです、記憶からその意味が上乗せされて「切り抜く」のです。

私には

私にとってはそのカードは紛れもなく実在する「1億円カード」です。ですが実際には記憶が景色を切り抜き「1億円カード」に仕立て上げています。記憶が喪失すればまた景色に戻ります。記憶がこの「1億円カード」を作り上げ「実在」と信じ込ませるのです。だからカードを見るだけで高揚感爆上がりです。友人の言葉「これ1億円のレアカードだぞ」が記憶されその記憶がこのファンタジーを継続させているのです。

だから??????

全て記憶がこの「分離のない世界」を切り刻み価値を「勝手」につけてその中で「切り刻まれた私」が生きています。それがこの現実と呼ばれる世界です。本当は分離は100%ないのですから我々は今記憶の中を生きていると言っていいでしょう。だって見ればあらゆる分離物体が既に存在しているように見えてますよね????記憶が作り出した「作品」を実在と信じて今生きていますよね????この新しい認識を獲得しますと何かが変わりますよ。

認識できるもの全て

山があって鳥がいて、太陽があって

認識とは何でしょうか?????認識とは言葉が記憶され、、その言葉が分離が一切ないこの世界を切り刻み「山」「海」「テーブル」「椅子」がこの世界に現れでます。山が山としてこの世界に生み出された?????なわけないんです。なぜならばここには分離が100%ないのですから。椅子が椅子としてこの世界に現れる?????あるわけがないのです。ですから人間とはこの100%分離がない世界に言葉による新しい認識を生み出すのです。

私もあなた

私という存在もあなたという存在もこの世界に独立した「何か」として現れ出ることは100%ありません。分離がないのですから。つまり現れ出た分離の世界を「今」記憶でぶった切って「私」「あなた」を生み出します。「このコップは誰のもの????私の物です。」いやいやこの世界には分離が一切存在しないので「コップ」も「私」も記憶でぶった切った後付けです。本当は私もコップも存在しません。ファンタジーとしてここに100%存在します。

過去世

あるけどない

過去世の記憶を持った子供は実際に居ます。ダライラマなどはまさにその方法で見つけ出され新ダライラマになります。ですから過去世という記憶は100%存在します。ですがここ最重要なこと「記憶」であるということです。「過去世」は記憶から今まさに生み出されるということです。「わたし」も記憶からしか起こりません。「私」というものが根源からそのまま生み出されることは100%ありません、なぜならばここは分離が100%ないからです。よって「過去世の人生」も100%ないのです。ですが「記憶」としてならば100%存在します。つまり思考記憶が作り出した「物語」として。

来世

どこかにこの記憶が残りこの記憶を所有する体が生まれる可能性はあるでしょう。そうすると今この人生は「過去世」として扱われます。ですが何度も説明しますがそれは記憶の中だけだって実際には存在しません。空想、ファンタジーです。そのファンタージーは記憶の中に残るのです。と同時にこれがファンタジーと見抜かれた瞬間、そこへの関心は減っていきます。所詮はファンタジー幻想、妄想ですから。

言葉

言葉はこの世界を切り刻み「世界とは独立した何か」という認識を作り出します。ですが実際には100%分離は存在しないのでこれは嘘、ファンタジーです。ファンタジーとしてこの世界にあらゆる独立物体を生み出せるのです。それが言葉です。その一つが「私」です。ファンタジーとして「私」を言葉が生み出したのです。その「私」の物語が過去世であり今世であり来世です。多くの方はこのメカニズムに「無知」であるためファンタジーを「実在」と信じて生きているのです。結果「違和感」が根源から起こり続け、、「苦しみの人生」となります。

絶望の後の清々しさ

どこかで分かっていた

どうしても手放せないこと「学歴」「社歴」「パートナー」「家柄」「地位」手放したくない、、だけど苦しい、、、ここに挟まれた時、、、地獄を見ます。いったいいつまでこの苦しみに耐えなくてはならないのか?????でも絶対に手放したくない。。。なぜならば凄い苦労して手に入れたものだから。これを手放す=人生を手放すようなものだ。。ですがこの苦しみって実は「人生」にしがみ付くことで現れる「違和感」が起こしています。手放したくない「何か」ではなく「人生」に価値を置くからこそ起こる「違和感」です。そしてどこかでそれに気づいているんです。

人生

人生を大切にすればするほど、、時間とお金をかけた努力に価値を置けば置くほどに「苦しみ」は増していきます、。え??????人生を大切にして何が問題あるのか?????努力したことに価値を置かないって開き直りですか???????残念ながらそうなんです「人生」というものはこの分離が絶対に絶対に存在しない世界には「無い」のです。「無い」ものを「有る」と信じて生きれば「違和感」が起こります。この「違和感」が爆増するのです。

本当は「ない」

本当は「ない」ものを本当に「ある」と信じて生きていけば「違和感」と常に生きていくことになるのです。何かを手放したくない「学歴」があるということは「私の学歴」が存在すると信じているのです。ですが100パーセントないんです、分離がないから。そこから出続ける「違和感」が上がり続け増え続け爆発する時「手放せ」ます。その時これまで増え続けた「違和感」が消え去り清々しさが残ります。

主体

怒りの犯人

怒りの対象には主体の存在が居ます。政治家が許せない、、その時国家権力を好きなように振り回す悪名高き「誰か」の姿をイメージします。親のことを許せない、、その時私利私欲のために「私」を利用しようとした親をイメージします。怒りの矛先には悪意を持った「主体の存在」が必ず居るわけです。そしてこの「主体」VS「被害者私」という構図をイメージ化し、、、私物語を強固にしているのです。この苦しみを作ったのはあいつだ、、です。

ですが

その主体だと思っていた相手には自由意志がありません。この世界は絶対に絶対に分離できないので「相手」は全体を無視して自由に何かをする能力がないのです。悪名高き政治家も自由意志という能力を全く持ち合わせていないのです。分離が不可能なのですから。「自由意志が全くない悪名高き政治家」のことを怒り続けるって難しくないですか???????「自由意志が全くない私利私欲に動く親」を恨み続けるって難しですよね?????

構造上不可能

この世界には分離は絶対にありません。ですから自由意思VS自由意思というのは構造上不可能です。世の中の怒りの構図は「自由意思VS自由意思」になっていますが、、これ「ありえない」のです。構造上「ありえない」にも関わらずそうイメージして生きているのが我々です。なぜこのような勘違いが続くのか????それは自我、マイストーリーを維持しようとする動きです。

自然現象

分離

分離がこの世界には100パーセントない以上、、ここに現れ出る全ては根源からの自然現象です。この視界が概念を映し出された世界であったとしてもそれも自然現象です。根源から分離した活動は皆無ですから何が起こっていてもそれは根源の活動です。自我を強く強く意織した活動も根源の活動であり自然現象です。

ありえない

多くの方にとっては自我の利益になるような思考、行動しか起こったことがないため、、悟への関心は起こりません。ですから悟りとは全く理解をしてもらえない分野になります。主体客体の世界の中に居ますと、、この主体にとってメリットがあるか否かしか関心が生まれないのです。それが自然現象として起こるのです。自然現象として悟りに関心が向くということはその関心が根源から現れたといことです。この現れは記憶を媒介しておらず直接に起こるのです。

白か黒か

大好き

決断力がある人は人気があります。カリスマ経営者=決断力みたいな。決めるって実は難しいんですよね。自我とは分別です、、、分ける作業なんです。本当は分離など一切ない世界に分離した存在があるという前提の思考が起こった時、、、はっきりとした分別を求める動きが起こります。苦しいから、、分別を求めるのです。本当はどちらの道を選んでも苦しみが消えないことは分かっているんです、、だからこそ分別を求めます。

ですが

本当は本当はこの分離分別こそが苦しみの原因です。私がこの世界とは完全に分離して存在するんだ、、、という思考こそが苦しみを生み出し、、その苦しみをなんとかして解消したいから「私」はハッキリとした判断をしたくなるのです。ですがその私による判断こそが「苦しみ」を生み出すのです。

無限の現れが時間空間に拘束されるわけがない

ここ

ここは「空」「無限」「絶対」の影です。無限の影が、、、時間空間の中に拘束されている????あるわけがないのです。時間空間とは無限が作り出す幻想の一つでしかありません。だから時間を幻想として感じることができるし空間を幻想として感じることができるのです。無限の影ですからその中に「時間、空間という幻想」も含まれるのです。

ない

「時間も空間もない」と言われる原因は、、時間も空間も幻想として現れない限り存在しないということです。「空」も「無限」も「絶対」もその影である「ここ」も時間空間を必要としません、、、時間空間が出現するには「ここ」が必要だということです。

「本当の私」を認識はできないが「苦しみ」は認識できる

りんご自体

りんご自体がリンゴを認識できないように、、波が波を認識できないように、、、海が海と認識できないように「本当の自分」が「本当の自分」を認識することはできません。ですから我々は、我々(本当の自分)が本当の自分であると認識できません。ですが本当の自分は「本当ではない自分」を認識できます、、それが違和感です。

そうです

この体の中の「わたし」は本当の自分ではないから「違和感」が起こっているのです。本当の自分でない何かを自分と信じたから「違和感」が起こるのです。つまりこれまで「違和感」「苦しみ」を感じてきていたという事実こそが体の中の「私」が本当の自分ではない絶対的証拠なのです。

妄想癖不安障害

人類

人類とはいつしか「妄想癖不安障害」になってしまいました。目に映る視界を現実と呼んでいますが本当は記憶から現れでた概念を見ています。記憶障害になって記憶が全部飛べば目の前の「テーブル」「時計」「PC」「私」「あなた」「人生」の全てが消えます。いやいや見てる世界は変わらないでしょう!!!!!違うんです、見た瞬間それらの認識が起こるのです。現れでた景色から「テーブル」「グラス」「私」「あなた」が現れ出るのです。原始人にはこの認識は起こらないのです。

切り抜き

言葉で切り取られたあらゆる対象物が現れ出て、、そしてそれを「見た」「私」も現れでます。これらは完全に妄想です。なぜならばこの世界には分離は絶対に絶対に存在しないのですから。「私」は「テーブル」を「見た」というのは事実ではなく、、100%妄想です。この時点で「違和感」が起こりこの違和感をまさかの「私」が「思考」「行動」を使って解消しようとする動きが記憶から湧き出てきます。この現象こそがさらなる「違和感」を起こし続けるのです。

不安不安不安

私が何を思い何もやっても全く「違和感」が消えないのですから絶望的なわけです、、意味がわからないわけです、混乱なわけです、パニックなわけです。だから人は常に不安不安不安です。パニックの中でこの体を死ぬまで面倒みなくてはならない、、、地獄です。これが妄想癖不安症です。