非二元は信じる対象ではない

信じるとは

非二元を私は信じています、、、はい、これ分かっていません。私も存在せず、「信じる」という分離動詞も思考です。分離が絶対に存在しないここで「私」が「信じる」は構造上不可能なのです。だから非二元は信じてもらうものではないのです。非二元とは「私も居ないし、信じるも不可能であることに気づく」ことです。

真実は一つ

真実は一つです、、100人100様ではありません。ピカソの絵を見て「これ何が描かれているのでしょうか?????」の問いに「猿」「人間」「女性」「ゴリラ」「宇宙人」と100人の個別回答があってもそれは全部違います。真実とは一つなんです。

五感

五感を疑うって不可能です。外を見た時に入ってく「景色」これをどう捉えるって本当は不可能なのです。見た瞬間の「絵」、視界に入った瞬間の「絵」は操作不能です。。。これが唯一の真実です。ラーメンを食べた瞬間の「味覚」これを操作するのは不可能です。これが真実です。そしてそこから湧いてくる「これってあの店より味が劣るよね」という思考は真実ではありません。思考そのものが湧くのは真実です。ですが思考が指し示す内容は真実ではないのです。非二元=変えようのない真実です。

人参を垂らしてくれ

動けない

動けないのです、、全く、、「したいからする」これがもう出来ません。人参がないと、人参を垂らしてくれないと動けない。。。。この体の中に自分が居るという主体客体の世界、、思考の世界に入り込みますと、、、常に違和感に襲われるため、、、その違和感を解消してくれるだろう「何か」を垂らしてくれないと動けなくなります。ただナチュラルに散歩する??????いやいや、、何のメリット、利益があるか教えてください!!!!!そうしないと動けません、、、です。だってこっちは違和感に襲われて今も苦しいんですから。

妄想の世界の住人

全く分離のない世界で、、、私という分離した存在に成りすまし、、対象の中で生きていますと、、、苦しいが先行して動けなくなります。もしも私が動くとすれば「メリット」です。何か変化を起こしてくれるだろう「メリット」が必要なのです。だって今苦しいのに、、ただ散歩する、、ただ会話する、、無理無理無理!!!です。

名前を言われた瞬間

違和感

我々は名前を呼ばれた瞬間「違和感」が湧いていることに実は気づいています。我々はその名前が指し示す「何か」では絶対に絶対にないため「違和感」が湧くのです。真実では我々は「認識」「感覚」そのものです。非二元的経験こそが我々の本質です。ですから名前を呼ばれてそれを認識する時「違和感」が起こるのです。この「違和感」は一切の分離がなく、、この違和感の根源こそがまさに根源です、我々の本質です。

この体がなくては、、この世界は誕生していませんからこの体に向かって「名前」が呼ばれるのは至極当然と言えば当然です。ですが我々はこの体がなくては存在はできませんがこの体ではありません。この体が認識する「認識」の方です。だからこの体に向かって「名前」が呼ばれそれを認識した瞬間「違和感」が起こるのです。「名前」を呼ばれ反応するのも根源から起こり、、違和感も同時に根源から起こります。

思考そのものが湧く源

思考の内容ではなく

我々は思考の内容ばかりに意識が向きますが、、重要なのは思考の内容ではなく、、思考がどこから湧いたか?????です。思考はどこから湧くのか??????それこそが最重要です。全思考は内容は様々ですが、、どこかから湧いているのです。そしてこの世界には分離はありませんから思考もまたそのどこかの一部なのです。

思考=記憶

記憶がなければ思考も存在できないですから思考とは記憶のことです。思考という名の記憶が根源から湧き出てきます。認識が起こった時、、その認識は記憶され、、思考という名の記憶が湧き起こるのです。「その認識をしたのは私だ」という思考が自然と湧き起こります。「この認識は過去にも私が経験したことあるのと似ている」などの思考という名の記憶が湧きます。これこそが根源の現れです。

苦悩

苦悩とは『この根源から湧く「記憶」が真実とは異なっているため孤独感、分離感、違和感』となって起こることです。根源から湧く「思考という名の記憶」が真実とは異なっているのはどこかで気づかれます、、、その気づきから違和感が起こるのです。ではその気づきは誰が起こしたのか??????根源から起こります、苦しみとは、、根源から現れ出る根源の表現です。思考が指し示す内容が真実とは異なる時、真実はそれに気づき、、その気づきが「違和感」となって現れでます。苦しみとは、、、思考の内容が間違っていることを示す方向指示器です。

人間卒業

分離

この世界には分離が100%ない以上、、、人間としての人生は100%ありません。つまり我々とはこの体ではないのです。では一体我々は何なのか??????この見える世界なのか?????そうです、、ですがこの見える世界とは空間のことではありません。空間が常に在り続ける世界は存在せず「空間」とは認識した瞬間のみ現れでます。認識した瞬間のみ我々は「空間」です。そして認識した瞬間のみ我々は音であり、認識した瞬間のみ我々は味であり、、認識した瞬間のみ我々は思考であり、認識した瞬間のみ我々は感情です。

過去

過去とは認識の記憶です。記憶化された認識です。多く場合記憶された認識には「この私」が含まれていて、、認識には「私」が存在します、、その認識はさも「私」が行ったかのような主体者が存在します。ですが認識は認識そのものであってこの私とは後付けされた「思考」に過ぎません。つまり過去の記憶とは捏造です。

将来

そして将来にも当然この私が存在し、、そこには空間があり、、空間に囲まれた私を想像します。ですが本当の我々とは「認識」そのものですからこのイメージもやはり捏造なのです。過去も捏造、未来も捏造です。在るのは不断の「認識」のみです。我々は「不断の認識」ですから時間や空間に属する何かではないのです。

その人の世界

ない

究極的な話をすれば「その人」の人生は存在しません。「その人」が存在するのならば「その人の人生」はあるかもしれませんが、、、分離が100%ないのですから「その人」は100%存在せずゆえに「その人の人生」も100%存在しないのです。この世界はただ五感+感情+思考が起こる世界、、、それのみです。この世界に現れ出るあらゆる「人」は画像としては現れでますがそれは「分離した誰か」では絶対に絶対にないのでその人の人生も同時に存在しないのです。

考慮しなくていい

その人にはその人の人生があるのだからそこを尊重しなくてはならない、、、、これ完全誤解、完全勘違いです。「その人」は100%存在しないので「その人の人生」も100パーセント存在しません。全員に全員の人生がある、、これは素晴らしいアイデア、概念、空想、妄想です。真実では誰の人生も存在しないのです。私の人生すら存在しないのですから「誰か他の人の人生」も存在しないに決まっています。

笑ってしまう

Yahooニュースを見てみてください。。。。。そこにはとんでもない人数の人生があるかのように描かれていますよ。ですが無いんです、100%ないんです、、、その人の人生は。。。。分離個別した個人が存在しない以上、、その人の人生もまた存在しません。騙されますよね、引っかかりまよね、、、そこを見抜くのは無理ゲーです。

フィルム

一瞬一瞬

外を見ます、、その瞬間外の景色が広がります。。この景色がフィルムになります。このフィルム、、このフィルムこそが「私」です。部屋を見ます、、、部屋が広がります「パシャリ」このフィルム、、、このフィルムが本当の私です。コーヒーの香りがします、、その瞬間「パシャリ」このフィルムが本当の私です。

あの時

そういえば三年前にこんなことしたなー「フィルムの映像が記憶から現れます」、、、、記憶からフィルムの映像が現れ出ることで「時間が経つのは早いよね!!!!」という思考が湧きます、その瞬間「パシャリ」その認識のフィルムが起こります。一枚一枚はフィルムですから「時間」は存在しません。過去のフィルムの映像が現れでた時「時間を意織した思考」が現れ出て「パシャリ」と音がします、、フィルムが現れでます。

空間はありますよね?????

フィルムは「視界」の時もあれば「味」の時もあるし「思考」の時もある「香り」の時もある、、、、さて空間はありますか???????「思考」というフィルムに空間はありますか???????時間もない空間もない、、あるのはフィルム(五感or感情or思考)です。あれ??????私ってこのフィルムだとして実際にはフィルムじゃなくてその「経験」だとしたら??????時間もなく空間もなく、、「経験」だけとしたらあれ??????存在してるの??????だって経験って物質じゃないよね?????経験って集めに集めても、、、「無」では??????そうです、、、私たちは経験という「無」です。あるけどない存在です。

思考とは記憶である

記憶喪失

事故で記憶喪失になってしまえば思考することが出来なくなります。先ず第一に思考のための言語が存在しません、言語がなくなってしまった瞬間、、、思考は構造上不可能です。つまり思考とは記憶のことであり記憶から自動発生的に現れ出る現象です。記憶から自然発生的に現れ出るこの自然現象を「思考」と呼びます。記憶は大脳が司りますが、、この大脳から自然現象的に現れでます。

あいつはこういう奴だ

記憶から自然現象として現れ出る思考を他人は認識し「あいつってこんな奴だよね!」というイメージを持ちます。その認識では「発言をコントロールできる自我」のことを称しますが、、実際には記憶から自然現象として現れ出ているだけです。それをコントロールできる誰かは絶対に絶対に存在しません。

注意

失礼な発言をした人間に対して注意をすれば発言が変わりますよ!それってしっかり自我が発言をコントロールしていますよね??????違います、、その注意内容が記憶され、、その記憶から次の発言が現れ出るために、、「変わった」と感じるのです。そこには誰も介在していないのです。

自己紹介

なぜできる??????

誰もこのことに気づきません。なぜ人間は「自己紹介」という「客観者にならなければ出来ないこと」を出来るのでしょうか??????私は波であるという自覚は海でしかできませんよね。海だけが「波」になることが出来るし「波」の紹介をできます。なぜ波が自身を波と気づけるのか?????です。

自己紹介できている時点で

自己紹介できている時点でその自己は本当の自己ではなく全体が「この偽りの自己」を認識し紹介が起こっているのです。「この偽りの自己」ありきから現れ出る思考感情を全体が認識し、、それを相手に伝えるということが起こっています。そういう意味ではこれは全体による他己紹介です。

非二元的経験

その後に

ここでは非二元的経験しか起こりません。非二元的感覚でもあります。分離が一切ないのですから主体客体という関係はあるわけがないのです。音楽が聞こえる時、、その音だけが起こり、、それを聞く者も聞かれる音楽も存在しません。音だけです。ですがその後に全体から全く分離していない思考が現れ出て「私が音楽を聞いた」が起こるのです。非二元的経験が二元的経験に置き換わった瞬間です、ですがそれは真実ではないので思考の中でだけです。