究極の欲求

「私」の不在に気づいて

私という存在は思考の中にしか存在せず実在しないことを100パーセント実感したあとも、、欲望は起こります、、、ですがその欲望は幸せになるための欲望ではない、、、ただ何かをしたいという究極の欲望です。そこには目的が存在しないのです、欲望という結果が起こりただそれをやります。「その行為にはなぜ????」がないのです。ただしたいからやる、、、これだけです。

どんな欲求

全く分かりません、、したいことが毎度毎度現れ出てきます。それを所有する「自分」という存在が存在せず、、、ただ行為が起こるのです。自分の不在に気づいた後に出てくる欲望は究極の欲望です。自分を幸せにするための欲望ではなく、、ただ平和、安堵、愛の中で欲望が起こります。そこには打算や取引などあるわけがなく、、ただ起こるのです。

どうやったら悟れますか????

そもそも

こうやったら悟れますよ!!!!!この回答を聞いて実践するのは誰ですか?????誰も居ないんです。居ないということは悟りの主体、主語が存在しないということです。主語が存在しないということは「悟る」こと自体が起こらないのです。悟るのは誰か???????自然現象としてその理解が「起こる」のです。悟るとは自然現象であり主語が存在しません。

突然の理解

突然理解が起こります、、この世界には分離が本当にない、、、この世界にはここしかない、、この世界には「あらゆる対象物があったが」それは思考の産物に過ぎなかった。その対象物を認識しているはずの「私」も思考の産物でありだから主体客体は思考の中のみで起こっていた。その理解が突然起こるのです。自然現象としてその理解気づきが起こります。

私が突然消えたのではない

私という存在がそもそも存在していたにも関わらず突然消えたのではないんです。「私」という存在は思考の中にだけ存在していたのです。そのことの気づきが突然起こります。私が思考の中に居て、、、対象物の全ても思考の中にだけ存在していました。だから「私」も「グラス」も「TV」、も全部思考の中に存在していたのです。だから目覚めが起こると、、、その真実が露わになるのです。なーんだ、何もなかったじゃん。。。です。

一つしか起こらない

この瞬間

味、香、食感、熱、音、、全てが同時に入ることはなく、、、何か一つです。大木を見た瞬間「ビジュアルが入り」「音が入り」「香りが入り」「触れれば感触が入り」ます。次に「私が触れた」という思考概念が入ります。一瞬一瞬は常にたった一つの経験、感覚であり、、、私を思考しながら感覚が起こらない。。つまり感覚と「私」は一回たりとも交わることがないのです。要は感覚を「私」は感じたことが全くないのです。

それでも

私が味わった、見た、香った、触れた、、、と表現します。その表現時、思考時、全ての感覚が閉じています。思考が湧いていない時「感じる」が起こるのです。私はどこまでいっても感覚とは無縁です。ですが体はこの感覚とは無縁ではなく全感覚は「身体」がなくては存在できないのです。ですが「私」は常に五感とは無縁なのです。

妄想の反射

会話とは

会話とはずばり「妄想の反射」です。主語述語でしか会話は成り立たないわけですが、、、この世界に主語も述語も示す「事実」は存在しないのですからこれは100%妄想です。言葉とはこの世界から何かを切り取りそれについての因果関係を説明していきます。そのようなことは一切事実では起こっていないのですからこれは妄想です。

言葉が指し示す「何か」

言葉が指し示す「何か」は本当はこの世界には存在しないのです。なぜならば分離がないからです。あそこに鳥が見えます、、、「鳥」という独立分離した存在は存在しません、、そのように見えるだけです。鳥が木から木へと移動しました、、、、、、それは事実では起こっていません、妄想です。そのように見えるだけです。

どこまでも

事実はどこまでも事実です。妄想はどこまでも妄想です。ここには大きな大きな境界線があります。見かけ上の覚者とは事実を完全理解し、、、妄想に振り回されたくなった人です。本当は覚者も人も存在しません、分離は100パーセントないのですから。どこまでもそのように見えるだけです。事実が本当の意味で理解できますと、、信じられない安堵感が湧いてきます。

悟りを悟る

勘違いの悟り

悟りを悟る、目覚めに目覚める、解放を解放する、、、そうです、、現存する「悟り」「目覚め」「解放」は思考の産物であり、、これは多くの場合「イメージ」です。このイメージが真実とかけ離れているため気づきが遅くなります。だから一番重要なターニングポイントは悟りとは本当は何か????に気づくことになります。目覚めとは何なのか?????解放とは何なのか????です。

個人が成就するもの????

この世界には分離は存在しないので「個人が悟る」という事実は絶対に絶対に起こりません。これがもしも起こるならば「思考の中」「ストーリーの中」「私物語の中」だけです。悟りとは「個人も含め分離は完全にない」と気づくことです。だから私も、悟るという分離動詞もありえないのです。本当は絶対にありえないにも関わらず起こったならばそれは全部「思考の中で」です。

明確な線引き

悟りとは分離の完全否定です。にも関わらず言葉による悟りの解説は、、分離によって行われます。ここが矛盾点です。言葉自体がこの世界を「切り裂く道具」であり悟りを閉ざす真犯人です。この言葉を使って悟りを解説するという究極の矛盾を抱えている、このことに気づけば、、言葉による混乱を防げます。切り裂く道具を使ってこの世界は切り裂かれていないことを証明するのです。ゾクゾクしますね。

悟りという科学

分離の完全否定

悟りとは分離の完全否定です。「一切の分離はない」これです。ですから「個人が悟る」これも100%ありません。個人の解放、個人の目覚め、、100%ありません。悟りとは「分離が完全完璧になかった」という気づきが個人ではなく全体から起こった、、、それです。そして分離にまつわる全ての認識は「思考の中」のみで起こります。

THIS IS A PEN

これはペンです。これは思考の中で起こります。ここには全体から切り抜かれた何かは絶対に絶対に存在しないのです。ですから「これはペンだ」という認識は思考として起こるのです。「この体の中には私が居る」これも完全に思考です。「あなた、私、家族が存在する」これも完全に思考です、、、科学では、、全体から切り抜かれた「何か」は存在しません。

社会通念

社会の中で生きるには「ペンを取ってください」という言葉は必要です。生きていくためには「切り抜き」をしなくてはならない。ですがこれは全体から切り抜かれた「何か」が存在するのではなく、、便宜上そこにその「名前」をつけただけです。ですが名前はそれが便宜上であろうと方便であろうと「切り抜き」ます。どうしてみ切り抜かれてしまうのです。だからそのことを理解します。ナイフは分かっていようといまいと触れれば切れるのです。そのことを自覚します。

「気づく」すらない

個人が気づくことはできない

スピリチュアル用語「気づき」は誰に起こるのでしょうか????「目から鱗が落ちる」は誰に起こるのでしょうか??????個人ではないですよ、、個人は居ないのですから。気づきは「全体」から起こるのです。「目から鱗が落ちる」は全体から起こります。その認識が突如起こるのです。というよりも「間違った概念」が間違っているという気づきが起こるのです。

科学は優しい

科学はある意味冷酷冷徹です、、一切の「寄り添い」をしないので。ですが同時に科学は単純明快であり、、そういう意味では「迷い」を完全に消します。この苦しみは何か????「迷い」です。科学は根底からこの迷いを排除します。どこかでこのことが分かっている(個人ではない)ので悟りへの興味が起こるのです。悟り、覚醒、解放、目覚めとは一切の「科学的矛盾」を見抜くことにあります。見抜くのは個人ではありません、見抜くが全体から起こるのです。

1ミリも独自の意図がない

根性の恨み

根性の恨みでもって、、あなたが誰かを恨んでいたとしても、、、そこには独自性、分離性は一切存在しません。自然とその恨みが起こっています。その恨みはこの体が独自に生み出したのではなく、、全体から自然と湧くのです。そして恨んでいる相手もその体から独自にその「裏切り」が起こったのではなく、、自然現象的にその体を通じて起こったのです。だからその体の持ち主を恨むことは科学的に間違っています。

ですが

その相手の身体を通じてその裏ぎり行為が再度起こるか起こらないかは誰にも分かりません。その裏ぎり行為という分離行動は実は存在しておらず全体の表現としてそこから起こったのであって、、また火山噴火のように起こるかもしれない。ですからその行為を受け入れようともまた噴火が起こる可能性があります。ただそれだけです。科学では何でもその体から起こり得るのです。

究極の抽象度

悟りとは究極の抽象度でもって科学的に「ここ」で起こることをただ解説します。そこには一切の分離が許されないので、、独自行動、個人、対象の全ては存在しません。これが科学的事実です。その中であらゆる「概念」が生まれ出しこの分離していない「ここ」で起こることにストーリーを加えていく、、ただこれだけが「起こった」のです。加えるという分離行動も起こりえないので、、これはただ起こります。

そこに気づく

そこに「気づく」が分離行動ではなく全体からただ起こった時、、、科学的不成立な「思考」が全体から起こるということが少なくなっていきます。気づきは個人ではなく「全体」から起こったのであってこれが引き戻されることはありません。そこからは科学的不成立な思考は徐々に徐々に減っていきます。

物理的不可能、心理的可能

私がグラスを見る

これは物理的に不可能です、ですが心理的には可能です。「絶対である存在」の影であるここで「私」という分離した存在がやはり分離した「グラス」を分離行動として「見る」のは不可能です。物理的にはただ「景色」がある、、これだけです。『この「景色として在る」を「私」という存在は分離行動として分離した「グラス」を見たんだ』という思考が後付けで起こっただけです。そしてその思考は「分離した私」が分離行動として分離した思考を作り出したのではなく、、ただその思考が起こったのです。

分離行動はない

物理的にここでは分離行動は絶対に不可能なのです。だから私が見る、考える、思考する、見つける、、、全部不可能です。ここでこことは分離した「何か」が独自に活動をするのは不可能なのです。なぜならば分離ができないからです。できるのは全体としての動きのみ、、ただそれを思考で切り取って「独自の行動に仕立てる」ことはできます。「あの全体の動きは実は「個」の動きではないか」という思考が起こることはあります。その思考も「個」が独自に思い描くのは不可能であり、自然現象として全体から起こったのです。

全体の活動を

私が見たのだ、、、私が発見したのだ、、私が考えたのだ、、、と分離活動に仕立て上げることが常に常に起こっています。「私」が「グラス」を「見た」。「私」が「悪口」を「言われた」、、、、全く起こっていない事実の中でそのような「切り抜き」が思考として全体からただ起こるのです。それを止めることができる「個人」は当然存在しないため完全に放置です。放置するという分離活動も存在しないためその言葉すらも不適切です。

レアシューズ

購入

私は今日レアシューズを買いました。レアシューズをレアシューズと認識するのは「記憶」が必要になります。「あ、レアシューズだ!」これに気づくには「記憶」が絶対に絶対に必要ですよね????するとその記憶には必ず「私」がセットで付いてきます。いつその情報を知ったの?????私が先日雑誌で読んだからです。これによって「レアシューズ」を手に入れた「私」が誕生します。レアシューズの存在は私を確固たる存在に仕立て上げるのです。

雑誌の情報

雑誌の情報がなければこの世界に「レアシューズ」は存在しませんでした。。。「あ、レアシューズだ」雑誌の情報が記憶化され、、、まさにそれが目の前に登場して初めて「レアシューズ」はこの世界に誕生します。記憶の中にありありと「レアシューズ」が先ずは創り出され、、それに合致した「何か」が誕生した瞬間「レアシューズ」はこの世界に誕生します。そして「レアシューズ」を所有した「私」という二者が現れ出るのです。

ない

その情報がなければその情報を学習しなければそのレアシューズはこの世界には存在しないのです。ですからそのシューズは記憶が作り出したのです。そして記憶がなければ「私」も存在できない、、よって「私がレアシューズをゲットした」というのは事実ではなく記憶が作り出したのです。記憶が「私がレアシューズをゲットした」という物語を生み出したのです。

記憶

人間の記憶というものがこの世界から消えた瞬間、、「私」も「あなた」も「レアシューズ」も「国」も「人種」も何もかもがこの世界から消えます。「消えるんです」記憶が消えた瞬間、、無くなってしまう存在というのは本当に存在するのでしょうか?????しません。だからここには本当は何もないのです。