ここ以外の世界

ない

この世界の絶対条件それは分離がないということです。だから「ここ」以外に世界は存在しません、なぜならばここ以外が存在してしまったらそれは「分離」です。よって「ここ」以外には何も起こらず、起こったことは全て認識されます。「あなた」が認識しないことは何も起こっていません。目の前で少女が泣いていようともその心情は「認識」できるものだけです、、もしも「あなた」が認識できない「何か」があればそれは「分離」を意味します。

予測は立てれても

目の前の少女が泣き崩れていても、、そも少女はこの背景とは一切分離しておらずそこからこの少女を通じて泣き崩れるという絵が起こっているのです。心情を察する?????認識できることだけが起こっています。恐らくお母さんを想いながら泣いているのでは??????あらゆる思惑は湧くでしょうが、、、ここ以外では何も起こっていません。さらにその分離した少女すら本当は存在しません。ただ「これ」の中でその絵が動くのです。

自由意思があると信じるから

争いが絶えない

この世界には分離は絶対的に起こりません。ですから「分離した個人」は存在できず、、よって「分離した個人による意志」というのは構造上、科学上不可能なのです。つまりありとあらゆる人類の言動の全ては「自然現象的」に起こっています。ですが人間業界ではその事実はないことになっており、、完全自由意志で全ての活動が起こっている思っています。だからだから争いが絶えないのです。

科学的理解

最も重要なこと、それはこの世界の科学的理解です。分離は100%ない、、この大前提で再びこの世界を観察しますと、、「ここ」以外に世界があるはずがなく、、、「ここ」にも分離した存在は絶対に絶対に存在しないのです。つまりここで起こることの全ては全体から自然現象的に起こるモノであり、、そのままに認識されます。ここでは「コップ」一つ分離する存在は存在しえないのです。つまり「これ」だけが今起こっているのです。

残忍な性格

ある日

ある日ある日気づきます「私の中にとんでもなく残忍な性格が存在する」と。とんでもなく卑劣で残酷な人間性が私の中には存在すると、、、そしてこのままでは絶対に私は幸せになれないと気づくのです。そこで聖人君子を少しでも目指そう、心の浄化を目指すのだと励むのです。ところが人格を磨くという志は時に上手くはいっても時に全く効果がないことが分かります。いつまで経っても「人格」が聖人のようにはならないからです。そこで途方に暮れるか諦めるのです。

ベクトルが違う

目覚めとは自身の中に残虐性、幼稚性を認め、、、聖人君子を目指すこととは全く違います。それらのキャラクターが実は自分とは全く関係ないことに気づくのです。どんな卑劣で極悪で性悪な存在であってもそのことと悟りとは全く何も関係がないことを気づきます。その極悪性に気づいたのは誰ですか???????自身が極悪で在ることに気づいたのは誰でしょうか???????その気づきこそがただ起こったのです。我々の本質とはこのスペースです、気づくスペースこそが本質です。

スペースにはコントロール権がない

我々はこのスペースであり、、、認識する存在です。「私は極悪非道である」という認識を起こすスペースが本質です。このスペースの上であらゆる現象が起こり、、この思考も、、起こります。このブログの認識の全てはこのスペースから起こります。それを「私が読んだ」という思考が立ち上がりそれも当然このスペースによって認識されるのです。その時この残忍な性格を無くさなくては、、清廉潔白にならなくては、、、という思いも消えます。

幸せになるための努力?????

努力が必要ならば

鳥は穏やかさを手に入れるために「努力」をしたことはあるでしょうか????イルカは優雅に泳ぐために「努力」したことはあるでしょうか????あるわけはないのです。ではなぜ人間だけが幸福になるには努力が必要だと信じているのでしょうか??????そう教わったからです。人間だけが幸福とは努力の賜物であると学んでしまったからです。だから勤勉、努力は最も尊敬される要素の一つになりました。ですがもしもそのようなことを運悪く教わることができない者はどうなるか?????幸福にはなれないことになります。

最適な教育を受けた人間だけが幸福になる??????これは差別ですし幸福とは実に実に軟弱な状態であると言わざるをえません。ではその教育によって培われた知識が事故で失われてしまったら最後、、その人は幸福には戻れないことになります。そのような軟弱な幸福は嘘です。そうです我々は架空の幸福、幸福らしきものを求めて生きてきたのです。

夢の存在意義

夢も存在するのだから

本当は本当は夢には存在意義はありません。この世界に意義があることなどないのです。なぜならばここは完全完璧無限の現れであって何か変化を起こすべきことは全く最初からないのです。だから夢には意味はないのです。もしもそれでも意義があるのだとすれば「無限の現れの一つである」ということでしょう。思考は無限に無限に作れることから、、無限であることがここで証明されます。この世界が在るのは空の中に「無限で在るという自覚」が必要だからです。なぜならば空とは可能性の全部だからです。空に「存在しない存在」は存在しないのです。

全思考

全思考とは全夢があるということです。全思考が織りなす全夢がここには存在しえます。だからこそ今まで一度たりとも同じ夢を見たことはないはずです。「Jリーグの試合が去年と全て同じ内容でした」が絶対に絶対に起こらないことを誰も不思議に思いませんが、、それはこれが原因だからです。ここは無限の夢が展開される場所なのです。

だから何でも起こる

来年は犯罪がゼロで殺人も交通事故もゼロになるでしょう、、、そのような予測をする人は居ませんね。そして誰もがそれは不可能であろうと思っています。なぜか?????ここは無限の現れの場所です。だから可能性の全てが起こり得るのです。天才が現れればそうでない人も。人格者が現れれば犯罪者も。人徳者が現れればそうでない人も。台風が現れれば静かな日々も。。。

スクランブル交差点

一瞬

渋谷駅に着いたその瞬間「絵」が入ります。入る????というよりも「絵」が現れでます。この「絵」が全てです。そこから思考が記憶から湧き上がり「スクランブル交差点」という名前が起こります。「スクランブル交差点」という「分離感」が起こりました。何も名前がない「絵」に名前が湧いて浮かんだわけです。そして何千人という「人間」がそこに立ち現れます。記憶が作る「人間」という認識が起こるのです。「絵」から人間が「分離」します夢の中で。実際には分離はないので人間という分離感が起こるのです。そして急に記憶から「私」が現れ、、「何千人の中の一人」という概念が生まれ小さくなった感じがします。

本当は

「絵」だけが起こりました。音だけが起こります。香だけが起こります。そこに次々と思考の渦が立ち現れ切り抜きが始まるのです。「分離感」が起こって行きます。「私」という思考が記憶から起こり孤独感が起こります。本当は五感だけが立ち上がっていたのが記憶からあらゆる思考が起こり切り抜いていきます。その切り抜きが千差万別ゆえに個人個人が夢を見ていると言うのです。

結果

この体という「切り抜き」から湧いてくる思考も千差万別となり独自の夢が続くのです。記憶から自然と起こるこの切り抜き作業によって「千差万別の夢が起こり続けて」いくのです。この夢はこれが夢だと気づかれるまでエンドレスに続きます。これが夢だという気づきが自然と湧いた時「夢を続けたい」が起こらなくなり、、、夢が消えていきます。

クラスメイト

全員が

授業を受けます、40人ぐらいの生徒が集まります。先生の質問に40人の生徒がそれぞれ解答を持っています。この反応の全てにおいて「分離」がありません。「分離」は力学的、構造的に不可能なのです。にも関わらず40人全員がバラバラの回答を持っています。どういうことでしょうか??????分離がないならば「バラバラ」の回答があってはおかしいわけです。でもバラバラの回答が起こってしまう。

分離はないが

分離は絶対にありません、ですが生徒全員の体(分離はしていない)からただ回答が起こります。分離しているように見えているだけで実際に「1枚の絵」の中から声が現れでます。その声が完全に新しいがゆえにバラバラに見えるのです。本当は一枚の絵の中に体(絵の部分)から声が現れでているだけです。これに「〇〇くんが独自の回答をした」という思考が浮かんでいるのです。

休み時間

40人全員がバラバラの動きをしているように見えます。40人全員が独自の動きをしているように見えます。本当は一枚の絵の中に部分の絵が動いているように見えているのです。その動きを見て全員がバラバラに分離して動いているように感じる、、が起こったのです。分離が絶対に起こり得ない中で、、ただ分離しているように見える動きだけがあります。ですが実際にはただ移り変わる「これ」があるだけです。この移り変わりを脳が記憶して繋ぎ合わせ「分離感」を起こすのです。

だから??????

分離は絶対になくても、、、、「分離感」は100パーセントあるわけでこのことが分かって何か意味はあるんですか?????分離が絶対にない中での分離感起き上がりの謎が分かれば、、もうそれは分離ではなく完全な「分離っぽい感」です。いままでは「分離っぽい感」ではなく分離を思い切り感じていたんです。分離してるぞ!!!!!!ではなく、、、だから分離しているように「見える」んだ、、、、、という気づきが起こるのです。これは深刻な分離感ではありません。

結局は比較の中で

今の現状からの逆算

今の現状を観察します。今の年収は思っていた理想の半分以下であり、、やっぱりあの時ああやっとけば。。。。よくある話です。今の結婚相手は理想よりもかなりハードルを下げたけど、、あの時あの人と別れなければ。。。。これらの判断は結局は比較の中で生まれています。では本当にその理想とやらに達していたら幸福になっているのでしょうか?????間違いなく理想通りの分野もその人にはあるはずで「しかし幸福ではない」という事実が最初からそれが答えではないことを証明しています。

頑張るも頑張らないも

あの時もっとここを頑張っておけば、、、あそこでしっかり踏ん張っておけば、、、、誰しも思いはしますがその「頑張る」を決めることができる「人」は居ません。その頑張るべき「人」は思考の中にのみ現れ出る存在でありその「存在」はこの現象界の動きに一切関与ができません。なぜ出来ないのか????その思考の中に現れる「人」の存在すらも、、自然に現れては自然に消えるという代物だからです。

波の動きに関与できる波はない

波にもしも名前を付けたならば「私」になります。この波の名前『私』に波をコントロールする力はありますか??????100%ありません。構造的に、力学的に不可能なのは小学生でも理解できます。この世界は絶対の存在「空」の影です、、、影の一部(体)に命名された「私」に影の動きをコントロールする力はないのです。コントロールできるぞ!という思考は影として現れ出ることはあっても構造上、力学的に不可能なのです。

成功者

現れ

これは全体の現れであり分離は一切存在しないことから「成功者」「落伍者」などの分離分別は一切存在しません。事実として100%分離が存在しないのです。タワーマンション最上階に住むあの有名人は成功者ではないんですか?????そのような画像が見えますが、、タワーマンションと住む人を分ける「境界線」が存在しないのです。ビジュアルとしては間違いなく建物と人には境界線があるように見えますが実際にはそこには分離が存在しません。

そういう意味では

成功者と呼ばれる「人々」は100パーセント存在しないのです。ではどこにそのような人は居るのか??????思考の中だけです。思考の中で「成功者」を切り抜き、、、さもその人が実在するように感じているのです。ですが実際には分離は100%存在しないのでそのような人は存在できません。思考の中にだけ存在しているように想像できるのです。

でも

その人が口を開けば「私は〇〇会社の社長である」と曰いますよ???????そうです、、そのような映像、音声が起こるのです。だから絶対に分離しているというのは「想像」です。ほらやっぱり想像の中で「成功者」は存在しています。2時間の雑誌インタビューに応えてますよ「我が人生悔いなし」というタイトルで。だからその人が分離して存在しているように「想像」できるです。やっぱりそれは思考の中ですよね?????

五感と「私」は共存できない

この瞬間

五感と「私」は共存できません。美味しいラーメンを食べた瞬間「私」を支える思考が消えます。スポーツに夢中になった瞬間「私」は消えます。鳥の音が聞こえた瞬間「思考」を起こすことは不可能であり認識は常に一つです。五感という認識が起こり続ける時第七感である思考認識が起こりません。

大自然

大自然の中でスポーツなどをしていますと、、思考が湧いてこなくなります。大自然を感じることで精一杯で、、思考が湧くスペースがないのでしょう。五感、五感、五感、五感優位になっていきます。家の中で考え事ばかりをしていますと思考思考思考優位になっていきます。これはつまり感情感情感情優位です。五感優位は感情劣位であり、、、では感情が消えていくとどうなるか??????感情とは言えない真の平和が漂います。