どこかで知っている

スーパーヒーロー

正義のために死を恐れない人間は「ヒーロー」と評価されます。スーパーヒーローを題材にした映画では主役は最後命をかけてでもラスボスと闘います。これ世界共通ですよね?????なぜ人は死を恐れない人に憧れるのでしょうか???????なぜ死ぬことに無関心な命を粗末を粗末にする人を尊敬するんでしょうか?????なぜそれがヒーローの象徴のなるのでしょうか?????知っているんです、誰しもが知っています。。。私たちはこの体を超えた存在であることを。

自殺願望者ではない

ヒーローは自殺願望者でも「命を軽んじる者」でもありません。むしろ他人の命の重要性を分かっているから戦うのです。彼らはどこかでこの体以上の存在であることを分かっているから、、それができるのです。そしてそのことを観客の誰しもがどこかで気づいているんです。だから万国共通でスターは命を捨ててでも弱者を救うのです。

世界チャンピョン

一瞬の至福

世界チャンピョンになった瞬間誰しも一瞬の至福を味わいます。感じたことがないこの感覚、替え難い感覚、、忘れられない、、、、この感覚です。その感覚が忘れられないからどんなハードな練習でさえも乗り越えてしまうのです。そうです達成した人間は誰でも知っているのです。忘れられない感覚があることを。その感覚とは何だ???????そうです!!!!垣間見たのです、、「思考が全く湧かない状態」を「真の静寂」を。

至福への関心

至福って何だ??????あの忘れられない感覚はどこから来ている???????です。この思考が根源から現れ出るようになります。「記憶」とは違うとこからこの思考がピュアに湧いてくるようになるのです。多くの方は「記憶から記憶の中の自分を満足させる思考」ばかりが湧いている、、ですが一瞬の至福を垣間見た者はもうそれが記憶から現れ出る何かではないことに気づくのです。

悟り

悟りへの真の希望とは、、、「私の終焉」という記憶から出ない思考目標です。記憶は常にこの私を満足させるだろう思考目標ばかり。。。その人参を追い求めさせます。そこに選択肢は100%存在しません。ですが一度でも至福を垣間見ますと、、記憶ではないとこから根源から直接「至福とは何か???」「真実とは何か????」「私とは誰か?????」という真の問いが始まります。

目標は記憶が作る

記憶喪失

記憶喪失になりますと「目標」は消えます。あなたはこの目標を目指していたんですよ!!!と周囲から投げかけても無駄です。なぜか??????記憶の全てが絡み合ってその目標は生まれていたからです。よって記憶が消えれば目標は消えるのです。目標とは「自分が主体的に作ったモノ」ではなく記憶から自然現象的に湧いたモノです。

だから

その目標とは「その目標を達成すると満足するだろう自分」のために起こります。ですがこの世界には分離は100%ないので自分は存在しません。その自分が目標を達成して満足し続けるのは物理的科学的に不可能なのです。だから記憶は次々に「違和感」解消のために思考を起こすのです。目標を達成した瞬間に訪れる一時の「至福」に向けて何度も何度もおこが起こります。

一瞬の至福

世界チャンピョンになった瞬間「それを目指す自分」が消え去り至福が訪れます。なんとも言えない感覚、そうこれを求めていたという気付きが起こります。ですがヒーローインタビュー時から「あれ????少し至福が薄れてきたぞ」が起こっている、、、まずい、、、、やばい、、、、です。これが自分という存在を信じる動きの限界です。

選択肢がない

亀○三兄弟

三兄弟全員がボクシングチャンピョン、、本人達にもしも自由意志があるならば一人ぐらいはボクシング興味ないから!!!!が起こるはず、、でも起きない。。。。そうです、、人間には自由意志はないんです。だからボクシングをしないと生きていけない環境を作れば、、そうなります。「ボクシングをしないお父さんから捨てられる」という記憶が作られれば練習するという動きしか起こらないのです。これが自然現象的に起こるのです。

ですがどこかで

ですがどこかで「何かが違う」が起こっている、、なんか俺違う気もする、、、「違う人生もあった気がする」そんな思いがチャンピョンになっても起こるんです。多くの方はほぼ全員がこの感情を抱えています。「何かが違う気がする」です。そうです、、違うんです。この自然現象は「嘘の記憶」に支えられているのです。だから「何かが違うけどやるのが大人になること」と思っています。

何か違う気がする

そのことが分かると「何か違う気がする」が「違う」に変わります。そうです違うんです記憶の内容が。真実とはかけ離れた思考概念を信じる動きが起こっていたんです。だから違和感が消えなかった、、、消えてもらっちゃ困るんです。そして消えません。なぜならばこの違和感は「全てを分かっている根源」から生まれますから。どんな嘘を信じても問答無用で「違和感」が湧きます。

恐怖

記憶から

恐怖とは何でしょうか?????記憶喪失になれば日々の恐怖は消えて無くなります。つまり恐怖とは記憶が作るのです。「過去の経験」から自然と恐怖は湧き出します。ではもしもその記憶が間違っていたらどうなるか意味のない恐怖がただ起こるのです。そして「過去の記憶は全て間違って」いますから人間は日々意味のない恐怖を感じて生きているのです。悟りとは真実でこの嘘を溶かすことです。

お金がなくなって孤独になって死に絶えたらどうしよう

人間の恐怖のほとんどは孤独、貧困、餓死、社会的不評価のようなものでしょう。この恐怖が勝手に勝手に記憶から起こっています。恐怖を今起こそう!!!!は不可能であり、、記憶からこの恐怖が湧き上がるのです。そこを見抜きます。そして記憶の全ては『「五感の経験」+「思考感情」』でありその思考は全て間違っているのです。にも関わらず記憶から恐怖は自然と起こるのです。

よって

我々の行動とは記憶から自然と起こされた恐怖回避行動になります。そこをコントロールできる誰かは存在しません。その恐怖回行動は「居心地が悪く」楽しいものではないのですがそれをしない選択肢はないのです。こうして人間は違和感を感じながらも恐怖回避行動を取り続けるというスパイラルに閉じ込められているのです。そこから脱却する方法はないのか?????あります。真実を知り真実を実感することです。

「切り抜き」上等

あいつは博学

博学のあの人は「切り抜き」大将です。博学とはあらゆる名称を記憶しているということ。インバウンド?????「それは海外の人から見たら日本は物価が安いからいっぱいお金を落としてくれることだよ、、ただ同時にこれが続けば日本も物価高になっていずれはこの不均衡は無くなるはず、、、、」起こった現象「インバウンド」を因数分解して解説していきます。ですがですが同時にこの世界に「分離」は一切ありませんからそれは妄想です。

あの人は知っている、私は知らない

大人は多くを知っていてだから真実も知っている、、子供は何も知らなくてよって真実も知らない、、、、、、真実は大人の嗜好品ですか????限られた者だけが到達できる「希少品」でしょうか????真実は大人であろうと子供であろうと、外人も日本人も全員が知っていることです。博学者だけが知ることでもありません。真実とは「五感」以上です。そして五感を利用した全思考は嘘です。「我々=五感」これだけです。子供でも大人でも全員が最初から知っているこれです。

この上に

この上にあらゆる思考をくっつけて人間は文化を築き上げてきましたが、、その全部が嘘です。だって我々は「五感」なんです。そのことをすっかり忘れて全く異なった概念を作り上げていきました。だから「違和感」というアラームが止まらないんです。言葉による切り抜きはあっていんです、ですが同時にこれは所詮は切り抜きであって真実では「五感」以外何もないことを自覚します。それが「自ら覚る」ことです。悟りです。

「ある」けど「ない」

真実

寝ている間に全記憶が飛んでしまった場合何が起こるでしょうか?????「ここはどこだ??????」は絶対に出ない思考です。「誰の部屋????」これも100%ありません。「俺は誰だ?????」これも100%ありません。「このテーブル見たことないぞ」もない、、、、、全部ないんです。つまり我々はこの部屋を見た瞬間「記憶」から現れ出る「切り抜き」を見ているのであってその記憶がなければ「何もない」のです。

だから

あるけどないのです。「この人は誰?????」すら起こらない、、これが事実です。まるで大前提で「何か」がある世界に私が住んでいると思っていますが、、「記憶が消えたら」何も認識ができないのです。起こるのはただ一つ「五感」だけです。「切り抜かれた何か」は絶対に絶対に存在しないのです。言葉を覚えて初めて「切り抜き」が可能になる、、、いつの間にか見た瞬間「切り抜かれた」画像を見るようになったのです。

切り抜いちゃダメなんですか??????

切り抜いちゃっていいんです、ガンガン切り抜いてください、、、そうしないと働けないですから。マックでバイトする時「名前」を覚えなければハンバーグ焼けません。ですから切り抜き上等です。ですが「切り抜いた」という自覚を持つのです。本当は今も何もないここを「切り抜いて切り抜いて」あるように見ているのだという自覚を持つのです。すると究極の静寂が漂ってきます。

本当の静寂

本当に何もない

このことが実感できてきますと「静寂」が訪れます。その時今までやりたいとも思ってもいなかったことに興味が湧いてきます。。。山登り、ハイキング、海を見たい、、旅行も行きたい、、、、今まで興味が持てなかったあれこれに興味が湧いてくるのです。「重さ」が抜けた後、、、、何かが起こるのです。

卒業式

300人の学生を前に

「一人一人の人生を輝かせてください、後悔の無いように前を向いて生きてください」校長先生のスピーチ。。。。。。ないです、、一人一人の人生って。ありません。分離がこの世界では科学的に不可能だから。分離が不可能なのにそれぞれの人生ってどうやって成立するのでしょうか?????

それでもいい

だからといってスピーチ中に「居ないんですよ、全員が」というクレームを発する必要はない、、今校長先生を含む絵が起こり、、そのスピーチが起こっただけです。そしてそれを見聞きする「私」も存在しません。ただその認識だけが経験だけが起こるのです。そこには話す校長も聞く生徒も見守る先生も存在しません、分離がないのですから。そしてそのことに気づく「私」も居ないんです。

じゃあ

何の意味があるんですか????この卒業式には??????何の意味もありません、、、ただ無限の現れとしてそれが起こるのです。無限ゆえに何でも起こります。何でも起こりますが同時にそこには分離が一切ないのです。だから卒業式が終わり全員が帰路に着けば、、、誰も存在しなくなります。元々存在していないのですがさらに存在しなくなるんです。

寂しい

寂しいと感じるのは「個」である自分が居ると信じていて、、たった一人取り残されたと思ったからです。ですがその個である「私」は100%存在しないのです。だから寂しいも糞もない。そして重要なこと、、最初から誰も居なかったのです。最初から一切誰も居ないにも関わらずなぜ寂しくなかったんですか?????そうです、、、人が居るから寂しくなくて居ないと寂しいというのが「勘違い」です。「個人が存在すると信じた」瞬間、、寂しいという感情が湧くようになっただけです。だからこの気づきによって「寂しい」が湧くのは嘘です。

本当の静寂

センター街

渋谷センター街に行きます、、、何千人規模の人が集まります。地方から海外から都内から、、、、あらゆる状況の人々の人が集まる、、就職で、、入学で、、田舎を追われて、、離婚して、、結婚して、、何千人には何千人の人生があって、、その全ての状況を背負った人々が視界に収まります。思考が現れ、「あれあの人今日東京に????あの人は東京なふぁそうだな、、その女性綺麗だなー出勤前かな??????」はい、、、全部間違いです、、全部全部間違いです、、、そこに起こったのは「その絵」のみです。

??????

それぞれの人生?????ありません、そんなものは。。。駅に降りて入ってきた「絵」これだけが起こったんです。その絵に集約されるまでの何千人の人生???????ありません。ここは分離が絶対に絶対にない世界なんです。だからないんです、そのような人生物語は。それぞれの??????「それぞれ」がないんです。科学的に不可能です。

静寂

そのことが本当に理解できますと、、、どこに行っても「静寂」喧騒?????何も関係がない、、だってただの「絵」「音」「味」「触」「香」だけですから。。。。それ以上もそれ以下も何も存在しないのです。それを引き起こす様々なドラマ???????ないです、、ないんです100%。なぜならば科学的に分離は不可能なのです。