独立開業

言い訳

いつかは会社を辞めて独立したい、、本当は大人になったら好きなことで食べたい。。。じゃあなんで今やらないのですか?????「先ずはお金を貯めないと、、先ずは妻を説得しないと、先ずは親を説得させないと、、先ずは大学まで通わせてもらったから就職しないと、、、、」エンドレスに大人の意見が羅列されます。大人の意見の大渋滞が起こっています。その全ての「大人の意見」を「言い訳」と見抜いた瞬間大渋滞が消えてなくなるのです。全ての言い訳を言い訳と見抜き無視した者だけが独立します。

大人の意見

私は存在します、、時間も存在します、、空間も存在します、、、自由意志も存在します、、、あなたも存在します、、、社会が存在します、、、、、この全ての「大人の意見」を「言い訳」と見抜いた時、、、悟らせないための「大渋滞」が消えてなくなります。そうです、、、その「大人の意見」は全て「概念思考」です。概念思考は概念思考ですから「その中身」はこの世界には存在しないのです。「概念思考」はこの世界に存在します、だから出現したのです。ですがその「中身」はこの世界には出現できないのです。

どこかで分かっている

「概念思考」はこの世界にガンガン現れてきます。ですがその概念思考が指し示す「内容」はこの世界には出現できません。だから「私」も「時間」も「空間」も「自由意志」も、、、この世界には出現できないのです。出現しないにも関わらず存在しているとしたらそれは「幽霊」です、、つまり幻想です。問題なのはそのことをどこかで分かっているということです、、それが幽霊であることをどこかで分かっているのです。その違和感こそがこの「苦しみ」です。私が抱える苦しみとはこの「違和感」です。

言い訳

見かけ上のこの私は中学時代にスパルタ塾に通っていました、いつもプラスティックのバッドを手に持って、、テストの点数が悪いとケツバット言っては叩かれます。私はその先生の怖さから真剣に真剣に勉強に取り組むことができたのです。その時気づいたこと今までは全部言い訳だったということです、、「授業が良くない、部屋が良くない、テキストが良くない、仲間がよくない」これらを真剣に真剣に信じていたのですが、、、嘘でした。。。。ケツバッドの前に一切の思考が消えたのです。

思考を信じる動き

小学生時代の六年間、、真剣に勉強に取り組んだことなど皆無で、、その理由は「五万と」ありました。そしてその思考を本気で信じていたのです。ところが「ケツバッド」が現れた瞬間その思考が逃げて消えたのです。そこから分かったこと「思考とはあてにならない」ということです。

「私が居る」という思考

私たちは今「私が居る」という思考を信じているんです。ここには空間があって時間があってという思考を信じているんです。みんながそう言っているからその概念を信じているんです。つまり思考とは信じてしまえば「真実っぽく」なります。ですが本当は本当はそれは「あてにならない思考」であることを知っています。ケツバッドが「全言い訳思考」を消し去ったように、、、「全思考はあてにならない」のです。

時間も空間も

最終章に入ります、、ですから「時間」という思考も「空間」という思考も、、「私」という思考も、、、それは真実ではなくて「思考」です。思考とは信じることができるのです。「時間、空間、私が存在する」という思考を信じることができてそして今信じています。そしてその内容がどこかで嘘と分かっています。その嘘と分かっている「違和感」が今の苦しみです。

分かっていた

小学生六年間、、、私は、、、、勉強で結果がでない理由が嘘であることをどこかで「分かって」いたんです。だから中学スパルタ塾で結果が出と時に気づいたんです。「どこかで分かっていた」このことが苦しかったんだなと。。。。中学三年間は「違和感」から解放されました。「信じ切った言い訳」とそれが嘘であると分かっていた違和感、、、これが消えたのです。

空間がなくて時間はあるはずがない

ここ

ここには「空間」と呼べる存在は存在しません。いやいや「私」は今「部屋」に居ますけど。。。。。それ思い込みです、私も空想、、部屋も空想です、あるのは「これ」だけです。「これ」とは空間のことではなく、、「視界」のみ、、、横を見れば「視界」が変わります。「視界」があるから「視界」が100%あるから、、、「私」「部屋」という後付けが可能なのです。その後付けを土台にした思考の行列が起こっています。それが今のあなたです。

「視界」しかないのならば

時間がないって気づけます??????「視界」はコロコロ変わり続け、、、そこには「存続」し続ける「何か」は存在しないのに気づけますか????いやいやこの体は常にありますよね?????違います、それ視界の中の一部ですよ?????一瞬一瞬「視界」は変化し続け、、全く違う「視界」だけがあり、、、そこに時間とは必要でしょうか?????

事実

事実では「視界」しか存在しません、、空間ではないのです、、視界、、、これだけです、、、移り変わる「視界」だけが存在します。視界だけの世界に時間は必要でしょうか????必要ないです。視界の中の「私」には時間は必要です、ここからあそこまで何時間かかる??????ですが実際にはそれは空想で真実では移り変わる「視界」ただこれだけがあります。

分離がない

この世界には分離が100%存在しません。音が聞こえる、視界が見える、味を感じる、、、ですが音、視界、味には境界線は100%ないのです。ここからが味でここからが音でここからが視界でここからが触、、、、という境目がありません。経験と呼べるものに「境目」は存在しないのです。そして経験する「私」も存在しません、、世界とは分離した「私」など居るわけがないのです。。それは概念として存在します。ただし「概念」と呼べる独立した存在も存在しませんからこれも本当はないのです。

あるけどない

言葉とはどこまでも「切り抜く」ツールですから言葉が指し示す「何か」はこの世界には本当は存在しません。分離が100%存在しないからです。ですからこの世界で起こっていることに「言葉」を当てはめて理解するのは不可能なのです。「ない」ものを言葉は「ある」ことにしますが、、それは全て幻想です。

本当の瞑想

全く違う

本当の瞑想とは、、いまここで「究極の完璧」そのもので「在る」ことです。「私」が「瞑想」をする、、、これは完全分離、ストーリーです。この世界には分離は100%存在しません、、ですから瞑想する自分も「瞑想する」という分離行為も存在しません、、あるとすれば幻想としてです。本当の瞑想とは「ここ」(場所ではない)として全現象そのものであることになります。そこに「私」という思考が現れては消え、「音」が現れては消え、雑念が現れては消えていきます。

部屋の中で

毎日「部屋」の中で「私」は「10分間」瞑想します。これは完全にストーリー、幻想、妄想です。分離が100%存在しないのです。空間は存在しません、空間は幻想として存在します。だから当然「部屋の中の私」も存在せずそれは幻想です。在るのは、、音の認識、、視界の認識、、思考の認識、、香りの認識、触れる認識、、味の認識のみです。。。そして「音」「視界」「思考」「香」「触」「味」という境界線は100%ありません。分離がないのです。。ですから認識にも分離はない。。。ただ「認識」だけが起こるのです。「起こる」という言葉は「何もないところから出現する」という意味ですが本当は「時間」がないので「起こる」という言葉も矛盾します。

認識

瞑想とは「私」という幻想から外れて認識そのもので「在る」ことです。つまり意織です。明晰に明晰に「意織」であれば、、「意織」の中で、、、音、光、思考、感情、、あらゆるモノが現れては消えていきます。そしてそこにはスペースも時間もないことに気づくのです。スペースと時間がない「ここ」でただ現れを意織として認識するのです。これが本当の瞑想です。「私」という幻想が「ここ」になるのではなく「私」が幻想と見抜かれた時「ここ」が残ります。そこは時間も空間もなく全分離がない「無」です。

進化の過程

思考

思考という発明品こそが人類を飛躍的に発展させました。それは間違いありません、思考なくしてこの高度な文明は不可能でありだから人類が思考を手放す?????ありえないことです。人類は今後も間違いなく思考を使い倒していくでしょう。ですがこの思考、言語による思考を今俯瞰する視点を手に入れる時が来たのです。言語が思考が何をしているか、、、ここを科学的に理解する時が来たのです。

思考反乱期

現代は思考が完全に人類を乗っ取り思考によって苦しみ続けてきた時代です。思考という科学を全く無自覚で使い倒すがゆえに思考によって傷だらけになっているのが我々です。刃物の危険を全く知らずに血だらけになっているのです。刃物は間違いなく有益な部分があります、、ですが使い方を知らないと体を傷つけます。まさにそれを人類が犯しています。

思考作用に自覚的になる

思考とはこの世界から「何か」を切り抜く道具です。「花」という言葉はこの世界から「花」を切り抜くのです。「私」とはこの世界から「私」を切り抜きます。ですが同時にこの世界には分離が100%存在しません。ですからこれは完全にファンタジーです。実在ではないのです、花も私も、、、そのことに人類は無自覚なのです。ファンタジーとして花も私も現れた、、、この真実の理解が、、、苦しみを消します。

探求こそが分離を生む

当たり前

探究すればするほどに分離感を生み出します。何かを求めれば求めるほどに分離感を生み出します。なぜか???????求めるのは誰ですか??????私ですよね。探求する、求める時「私」が強烈に意識され分路感が湧き出るのです。ラットレースです、走れば走るほどに孤独感、分離感が湧き出てきて苦しくなります。では走ることで何を得るのか?????対象物と激しい違和感、苦しみです。

なぜ?????

そんなに苦しいのに、そんなに孤独感が強まるのになぜそれでも人は走るづけるのでしょうか?????思考としてはこうです「今苦しいのだからこそ手に入れるしかない何かを」です。ですがこの動きは完全に根源から起こるのです。私がこの苦しみを解消するにはあれを手に入れるしかないのだ、、、これが自然現象として起こるのです。

ラットレースと見抜く

苦しいから求める、、求めるから苦しむ、、これは完全にラットレースです。それを見抜きます。このラットレースを止めるためにはどうするか?????これを見抜く、、ただこれだけです。何かをする????それは違うんです、アクションではない、。。。見抜くのです、この仕組みを。その時、、、この動きが止まります、、、苦しみを生み出す仕組みの理解はこの動きを止めるのです。

体と体以外

ない

この世界には分離は一切ありません。ですから体と体以外、内部環境と外部環境、、という境目は一切ありません。境目があるように見えるのは「からだ」という言葉を覚えそれを「これ」に当てはめることで、、「これ」が起こると「体」という認識が起こるからです。この世界に「からだ」と呼ばれる絶対的な存在は存在しません。なぜならば分離が100%ないからです。たまたま今も「これ」が現れ出ただけです。

体と呼ばれるこれ

ですが同時に体と呼ばれるこれが死んでしまえば、、この世界も消えます。この体と呼ばれるこれはそういう意味では重要な存在です。ですがこの「体」が「何か」を認識するというのは絶対に絶対に不可能なのも事実です。なぜならば分離が100%存在しないからです。この体と呼ばれるこれを通じて認識が起こるだけです。何度も説明しますが体と体以外という分離は100%ないのです。

「体」があって「私」があって

全部空想概念です。体も私も一切実在しません。体と呼ばれるこれが現れ出た時、、五感が生まれるのは事実です。体が死ねば五感も消えるでっしょう。ですが体と呼ばれる実在が「五感」を認識してはいないのです。体と呼ばれるこれが起こる時、、五感も起こります。それ以外は全部概念です。

本当の自由

個の制限

個人はこの対象に囲まれた世界において常に常に不自由です。お金が無ければ買うものが制限され、住む場所も制限され、仕事の選別も制限され、常に常に制限制限の連続です。むしろ雁字搦めに囲まれた牢獄の中で住んでいるようなものです。では個人は自由を手に入れることはできないのでしょうか?????出来ません、この環境は個人にとっては常に常にコントロール不能だからです。

個はコントロールできる????

個人の行動はコントロールできる、、だが環境はコントロール不能である。。。だから個人は常に常に環境と戦いながらなんとか自由の幅を広げようと努めるのです。ですが真実を言ってしまえば「個人の行動も完全に不自由」です。ノーコントロール、、、起こった行動、、起こった思考を「自分」が作り出したと思っているだけです。そしてその思考すらもノーコントロールで湧いたのです。

分離

説明は至極簡単です。この世界には分離は100%ないのです。ですからこの体の自我が「自由意志」で完全独断で何かをするなどできるわけがないのです。分離が100%ないのですから。内部環境の中だけで外部とは関係なく何かを起こすなど不可能なのです。つまりこの世界すべてが完全自然現象であるということです。この体から湧く思考、行動、感情のすべてが自然現象としてただ湧くのです。つまり全ては自然、、全ては自由です。自由とは「自らに由る」その自らとは全体としてということです。つまりこの世界は完全に自由(自らに由る)なのです。

描写

非二元

非二元のメッセージが他のあらゆるスピリチャルメッセージと異なるのは、、、ただの構造説明であるということです。個人がいかに幸せになるか?????ではなく、、、、その個人がなぜ幸せを求めてきたのか?????という構造的理解です。なぜ人は苦しみ幸福を求めるか?????という構造を科学的に説明するものです。ですからこう捉えたらどうですか????もっとこう生きてみたらどうですか????という個人に対するアプローチではないのです。

本当はこうなっています、以上

とてつもなく冷徹に感じるかもしれませんが真実、科学ではこうなっているという「突き放し」です。突き放される方は「そうはいったって、、分からない」と迷いの世界に入ることがほとんどです。ですが科学的に真実を突き付けてくれ!!!!もう遠慮や寄り添いは一切要らない!!!!!と思っている勇者には最高のメッセージです。

分離がない

非二元最重要ポイント、、、「科学的にこの世界には一切の分離がない」これです、、これで全ドミノが倒れていきます。一切の分離がないことを「非二元」と称します。一切の分離がないのだから「私の人生」あるわけない、、、で終わりです。「私」「自分」、、、、いやいや「自ら分ける」と書いて自分???????分離がないんだからあるわけがないのです。あるわけがないのに「在る」と信じることはできますよ!!!!それが苦しみを生んでいるんです!!!!!これが描写です。