笑い

自我を緩める

「太郎さんってオチ話す時声のボリューム上がりますよね?????」「え????本当???恥ずい。。。笑」「太郎さんって女性の前だとちょっと姿勢良くなりますよね????」「え?????マジで、、恥ずい。。。笑」なぜこの会話に笑いが起こるのでしょうか???????事実をそのままに相手は太郎に伝える、、太郎はそこに無自覚であった、、、ところがその発言で自覚が生まれる、、、というよりもそのことに無自覚ではあったが実はそのことに少し気づいていた。。。

自覚

そもそも指摘内容「声のボリューム、姿勢をよくする」は意図的である自覚はあるんである、、ですが思考では「そのようなことはやっていない」事実に対する自覚と思考内容がギャップがあるのである。このギャップは違和感として起こります、確実に起こります。この違和感は苦しみになります。だから、、、この指摘によって「違和感」が消えるのです。その指摘の瞬間「違和感」が消え、、、楽になる時笑いが起こるのです。ホッとするわけです。

事実が思い込みを消す

重要なこと、、、、事実は思い込みを消すのです。事実は確実に自覚があります。事実とは無条件で自覚を生みます。「声のボリュームを上げる、姿勢を良くする」ここに太郎は自覚があるのです。ですが思考ではそのようなことをしていない。だから事実を突きつけた瞬間その「思考」が消えます。勘違いの消去です。

事実

では本題に入ります。事実では「私は居ない」事実では「自由意志はない」事実では「空間がない」事実では「時間もない」事実では「五感と思考と感情しかない」このことこの上記のことは実は全員が知っています、自覚があります。ですが思考ではそれはないことになっている。。。。ですからそれを突きつけた時「拒否反応」が起こるのです。もしくは「笑い」が起こります。「拒否反応」が起こるのはまだその事実を受け入れる準備ができていない時、、、そして「笑い」が起こるのは準備ができている時だけです。

悟り

悟りとは「事実」で思い込みを消去していくことです。「全思い込み」が「事実」によって消去された時「悟り」と呼ばれます。我々の世界はまさかの「思い込み」前提で構築されているため、、、「事実」を急遽突きつけられても「対応」ができません。なぜならばその思い込みを信じて生きているからです。その思い込みを思い込みと気づきその思考を消去した時、、食べていける気がしないのです。

最終章

一切の自由意志がない中で

悟りに関心のトップが来るというのは人生の最終章です。自由意志がないんです、、、自由意志がない中で悟りに関心のトップが行くということがどれだけ凄いことか、、ということです。関心に優劣は一切ありません、、、ですが関心を選べないという大前提でお伝えすれば「悟り」は最終章なんです。欲望、関心という意味では「人生」の最終章です。

人生を終わりにしたい

人生を終わりにしたいという欲望が起こるというのは「自殺」みたいなものです。。そのような欲望を健全に起こすというのは普通は起き得ないのです。「自殺」は苦しくて苦しくて起こりますが「悟り」は目標達成をし続けて、、、この先には何もないと悟った後に起こるのです。つまり違った形の人生の終焉です。

人生に全くメリットがないことへの関心

悟りとは人生に一切のメリットを求めない時起こるのです。人生をより良くしよう、、、これは一般的欲求であり人生の中では至極当然、、健全な流れです。その流れの先には幸福はない、、そのことに気づいた選ばれし者だけが悟りに興味が湧くのです。

マトリックスから出る?????

出れません

映画マトリックスでは「この仮想現実の世界から脱出しろ!!!!」と謳いますが、、、、出れません。出るにもなにも「ここ」しかないのですから。「ここ」にマトリックスの世界が広がっているならば、、、「ここ」は今完璧に存在し、、「ここ」の表現として今マトリックスという言葉によって作られた世界は広がっています。ですからここから脱出してしまったら、、行くとこがないんです。

そうじゃない

そうではなく、、、今ここにマトリックスの世界は広がっているという事実、、その「事実の認識」これが全てです。ではどうやってマトリックスの世界をマトリックスの世界と見抜くのですか???????簡単です、マトリックスというのは「言葉が作り出した世界」ですよね???????もう答えが最初から出ちゃっているんです。言葉が起こった時に何が起こるか、、、これを科学的に科学的に理解するのです。ただそれだけです。「ここ」は最初から「ここ」であり逃げも隠れもできないのです。

起こっていることに無自覚なだけ

本当は本当はどこかでは分かっています、、ですがそれを「忘れる」が起こっています。誰が??????誰でもないものが「忘れる」が起こっているのです。ですから筋道を立てて「言葉」が何をしているかを理解するのです。その時「ここ」から「分かった」が起こります。その「分かった」が「悟り」「目覚め」「解放」と呼ばれます。

影響

関心が湧くか

「私はその分野についての第一人者です、その分野に影響されてその分野で日本のトップになりました。人は私のことを尊敬してくれますし私も尊敬に値すると思っています。」何かについての第一人者ってそれだけで尊敬されますよね。なぜでしょうか?????その人の弛まぬ努力が必要だからでしょう。ですがなぜその人がその分野で頑張れたかと言えばそこに関心があったからです。ですがその関心はどうやって持ったのでしょうか?????「私は努力してそこに関心を向けました」は有り得ないのです。

私はあなたのことを好きになるよう努力します

いやいやいや、、、無理やん。。。。。そうです、、関心とは努力して向けれることではないんです。たまたまそこに関心が起こり、、関心があるからそれを探求するのです。探求が関心を勝ることは絶対にない、、とするならば人の努力とは完全に受け身です。「努力させられた」これが最も正しい解説になります。

つまり

ノーベル賞受賞、、金メダル取得、、全部そこに関心があるから努力が起こるのです。そしてどこまで関心を向けれるかは「受け身」なのです。ところが受賞者は周囲からとんでもない称賛の声を浴び、、「君たちも頑張りたまえ」がいつの日か出てきてしまうのです。ノーベル賞受賞者は素晴らしく一般人は称賛に値しないというのは「科学的におかしい」のです。ノーベル賞という科学権威の組織が、、実はそこは科学されていないのです。

なんであんなことに執着してたんだっけ????

洋服

20代の頃はなんでセレクトショップの服に何十万円もかけていたのか??????全く全く分からないんです。給料のほとんどが服、アクセサリーに消えていました、、なんで??????一体なぜあそこまでそこに執着していたかすら覚えていません。これ、「あるある」ですよね。。。。。簡単簡単簡単です。服を購入した瞬間「あれも欲しい」という思考が自動で起こっていたんです。服を購入することで「あれも欲しい」が自然と湧いていたのです。「あれも欲しい」という思考が自動で湧き上がり、、認識が起こり「あれが欲しいんだ」が起こり、、じゃあ「買おう」が起こる。。。

理由がない

漠然としては「苦しい」を消したい、、という衝動が100%存在します。ですがフォーカスして観察すればセレクトショップに行くことで「あれも欲しい」「これも欲しい」が起こるんです。その思い、思考が勝手に湧くから「俺あの服欲しいんだ。。。。」という認識が起こり、、じゃあ買おうが起こります。この動きをコントロールできる誰かは存在しません。

欲望はどんどん変わる

欲望とはどんどん変わっていきます、、なぜそれをしたかったかさえ全くわからずに変わっていきます。だからその欲望が起こることに「反省」も「後悔」も「分析」も全く必要ありません。そしてこの欲望の転換は「この欲望の転換が終わらない」と気づくその時まで続きます。「欲望を終わらせよう」は全く違います、それは「終わらせたい」という欲望です。そうではなく「欲望とは終わらないのだ」という気づきです。これに気づいた時「欲望を追い求めて満足しよう」という動きが止まるのです。

最後の欲望

最後の欲望、、それが「悟り」「解放」「解脱」「非二元」と言われている欲望です。人間は欲望がなくてはアクションを起こせませんからそれでいいのです。この欲望が芽生えてきたら欲望の最終章、ラスボスです。寝ても覚めても「悟り」のことしか頭にない、、この状態になります。早く悟りたい、、、早く悟りたいっていう思いが邪魔になる???????どうでもいい!!!!だってこっちはそれしか頭にないんだから。とそのことすらもどうでもいい!!!!となった時、、、分かってきちゃうんです。。。あれ????なんか分かってきてんじゃん、、、になります。

悟りすらない

自覚

あの人の辞書には「負ける」という言葉がない、、、このような表現をすることありますよね????井上尚也の辞書には「敗北」という言葉はない。これ真実を言い得てます。あの人の辞書には「悟り」という言葉すらない。「苦しい」という感情が湧き上がっている時、、、「悟り」という言葉への強烈な執着が生まれます。ですが「苦しみ」から完全に解放されますと「悟り」という言葉も一緒に消えます。「苦しみ」と「悟り」は対になって存在しているのです。

忘れる

そういえば学生時代って平気で「ワン切り」してたっけ!!!!ワン切り、、、相手の携帯電話に着信履歴だけ残して向こうからかけてもらう「あれ」です。ですが社会人になり「電話かけ放題サービス」を払うようになってから全くそんなことをしていたことすら忘れています。だから学生からワン切りをされるまで全く忘れていた。そうですつまりそれを全くしなくなった時その「言葉」が辞書から消えるのです。

つまり

つまり悟りとは今まさに「苦しみ」に困っている人の中の専門用語です。お金に困っている学生の間の専門用語「ワン切り」と同じです。「悟り」という言葉は本当の自覚が起こった後はそれが当たり前過ぎて消えてなくなります。小学校の時の頻繁用語はもう忘れさられ、中学校の時の頻繁用語も忘れ去られ、、苦しんでいた頃の頻繁用語も忘れさられていきます。自我、悟り、ワンネス、観賞者、、、悟りに関する様々な「言葉」とは苦しんでいる時期の頻繁用語です。

変われども変われども

視界

我々は生まれてから死ぬまで変化し続ける「視界」として生きていきます。熟睡時以外はひたすらに変化する「視界」です。視界の中でが五感バリバリ、、、思考全開感情全開です。3歳ぐらいになると「視界」の中に「自分」と呼ばれる存在が現れでてきます、、そしてその自分がこの世界の主人公であるという思考が現れます。すると「視界」から「違う!!!」という感覚が起こるわけです。この「違う」という声が起こった時、、この「違う」をこの主人公が解決しなくては!!!という災害が起こります。「視界」は我々の本性ですが、、「視界」が「その考えは違っていて本当のあなたはこの視界のことだよ」と伝えようにも伝える「誰か」がいるわけではありません。

ただ起こる

視界の中に「この体こそがあなたよ」と伝える両親は現れても、、、その両親とは視界の中に映像に過ぎないので、、両親の誤解を解くことができません。「視界」そのものには自由意志もないので、、「視界」はただ起こることを認識することしかできないのです。結果この「視界」の中で起こることは無法地帯、自然現象、あるがままです。「視界」誕生以降、、「視界」が消滅するまで、、、視界の中を「コントロール」できる誰かは登場しません。

我々にできること

唯一たった唯一視界である我々にできることは「認識」これだけです。何が今起こっているかを認識することはできます。逆に言えば本当にこれしかできないのです。これまでは視界が認識していた全てを『「この体の中の私」が認識している』という思考が現れでてその認識が起こっていました。ですがその事実の認識が起こった以上、、認識以前に戻ることはもうできません。

認識以降

視界の中で全てがただ起こっていただけなんだ、、この認識が現れますと、、、、これまでの思考の連打が起こりません。勘違いの思考の連打が起こった時に「視界」としてそれを認識しているという新しい自覚が現れ、、「いやいやその思考違うやん」という思考が途中で現れでて思考の連打を強制終了させます。「だって私って視界ですやん」です。それがいつもいつも起こる時、、、不思議なことに気づくんです、、あれ?????めっちゃ静かなんですけど、、、、です。

どこにも行けない

視界としての自覚

「視界」であるという自覚のもとに1日を過ごしてみてください。。まさかのどこにも行っていないことが分かります。「視界」は激しく変わっていきますが、、、「視界」自体が「視界」でなくなることはなく、、、「視界」は「視界」そのものです。どこにも行けないのです。半端なく早く歩いても、、「視界」は「視界」のままなのです。「視界」の中で息が切れようが脈が激しく動こうが、、、「視界」はびくともしません。

音がする

音がします、、、遠くの方で音がします、、、ですがそれも視界の中です。後ろから音が聞こえようとも、、「視界」があって音がします。友人が話しかけてきます、、ですがそれも100%視界の中です。携帯の着信が鳴ります、、、、ですがそれも視界の中です。熟睡中に「携帯が鳴っていても」そのことに気付けるのは「視界」が現れてからです。

この体が私だ

「この体こそが私だ」この思考が現れることができるのは「視界」の中です。「この体は私ではない」この思考が現れ出るのも「視界」の中のみです。『「視界」が本当の私だとしたら、、この体はただの登場人物だよな』という思考も視界の中にしか現れでません。『この体のことみんな「〇〇君」って呼んでくれるから俺って「〇〇君」なんだな』という思考も視覚の中に現れでます。

どうする?????

どうするも何もこの「視界」が本当の私だという気づきが起こってしまたら、、もう「この体は私だ」には戻れません。なぜならばこの「視界」は常に常にここにあって無視できないからです。「この体が私だ」と思い込んでみても、、結局視界からは逃げれないのです。だから常に常に視界に引き戻されるんです。

何もしなくていいや

だから何にもしなくていいんです、、、、「視界」は最初から「視界」であって「視界」になれないなんてありません。なりたい「視界」にいつかなりたいんです、、、?????何それ?????「視界」はなりたいも糞も「変化」しかしません、、「何か」であり続けることが不可能です。一日中変化しっぱなしですから。

人生VS真実

綱引き

真実のメッセージがなかなか馴染みにくいのは「何十年間の勘違い」が相手だからです。真実のメッセージを聞いても「人生」に直後引き戻されます。じゃ!!戻ります!!!です。。そろそろ買い物に行って夕飯の支度をしなくちゃ!!!です。人生という大勘違い期間が強烈に長過ぎて、、、真実はその前に何度も打ち砕かれるわけです。ですが最後には真実が必ず勝利します、なぜか?????それはその勘違いすらも真実という土俵の上で繰り広げられているからです。勘違いが逃げ出せる場所はないのです。

人生という勘違い

人生がなぜいつまで経っても苦しいのか????それは人生が勘違いだからです。「人生がある」って本気で本気で信じてますよね??????だから苦しいんです。人生の中に「苦しみ」があるんじゃないんです。人生があるって信じることで「苦しみ」が発生しその「苦しみ」を人生の中で味わっていると勘違いしているんです。

いやー人生って世知辛いよね????

違います、、、人生には苦しみは存在しないんです、、、世知辛くも甘辛くもないんです。人生があると信じたことで「苦しみ」が発生し、、その「苦しみ」を人生の中に持ち込んで苦しい苦しいと叫んでいるんです。構造ミスです、科学的ミスです。そのミスをこの人生の中の「自分」が解決しようとフル回転でペダルを漕ぐから、、漕ぐことでさらに「苦しみ」が発生し、、、さらにペダルを全力で漕ぐというとんでもない喜劇が今起こっています。

まさか

とはいえ、、、このミスに気づくというのは大変大変難しい、、、、、なぜならば、、、、、友人知人、同僚、上司、先生、校長先生、学者、科学者、、どこを取っても、、、誰もこのミスに気づいていない、、、だから信じられないのです。もしかして、、、、が起こっても「ないない」で終わってしまうのです。空気を読まない全く読めない見かけ上の人間だけがある日興味を持ちます。もしかしてこれ全員勘違いしてんじゃね????です。

リアリティがあり過ぎる

視界

我々は視界です、、今見える「視界」これが我々の本性です。目を閉じてみてください「視界が黒くなりました」目を開きます「視界に色々な物が映ります」真っ暗だろうと、色鮮やかだろうと、、、両方視界には変わりはありません。夜夢を見る時「視界にはあらゆる物語が現れます」あれも「視界」です。熟睡状態の時「視界」が消えます。我々の本性が消えるんです。

夢の中で

一気に本題に入ります、、夢の中でラーメンを食べます、、、美味い!!!!!!!味がします、、え????なぜ?????なぜ紛れもない味がするんですか???????夢の中で最上級のコンサートに行きます。。音楽がハッキリと聞こえます。なぜ???????そうです、、我々は「視界」であってその中では何でも起こせるのです。そして目が覚めます「視界」が変わりますよ!!!!!はい、、、何でも味わえて、、、何でも触れて、、何でも聞けて、、、何でも、、、起こります。。。夢と何が違いますか??????何も違わないのです。なぜならば我々は「視界」だからです。

感じれるから物質がある??????

こうやって触れて、、、こうやって嗅げて、、、こうやって味わえるんだから、、、これは物質として100%存在します!!!!!!!うっそーん。。。。。。夢の中でさっきまで触りまくり、嗅ぎまくり、味わいまくり、、、やってましたやーん。。。。。夢の中で五感フル回転やってましたやーん、、、あなた。。。。そうです、、五感=物理的実在って嘘です。。。。五感は五感で、、、それが実際に実在しなくても起こせるんです。だから味わえるから嗅げるから「ラーメンは物質として100%ある」は嘘です。この体は物質として100%あるも嘘、、この体の中に自分が実在するも嘘です。

本当の私

本当の私とはこの「視界」でこの体ではありません、、この体は限りなく物質として存在しているように感じますが、、、、「感じる=実在」ではないことは夢が証明しているんです。我々はこの体を含む「視界」なんです。この視界は物質ではありません、よってこの体も体以外も物質ではない。我々は視界ですからその視界の中に分離は100%存在せず、、、よって「自分」と呼ばれる「視界」とは「自ら分かれた存在」も存在しません。もしも存在するとしたらそれは概念、妄想、空想としてです。