誰の人生も存在しない

究極のメッセージ

とんでもないことを伝えれば、、「誰の人生も100%存在しません」この世界で100%言えることそれは分離がないということです。ですから全友人の全人生は存在せず、、全家族の全人生は存在せず、、全クラスメイトの全人生は存在しません。私の人生が存在しているように感じているから他人の人生も存在していると信じているのです。ですがこの世界には分離がないのですから分離した個人の人生は100%存在しないのです。

ファンタジー

住う

我々は完全にファンタジーに住んでいます。このファンタジーの世界が居心地が悪いから「次々に」何かを得たいし何かを解決したいのです。ファンタジーの世界自体が居心地が悪いがゆえに何かにつけてそれを解消してくれるかもしれない「何か」を期待するのです。ですがファンタジーの世界に住まうこのこと自体が解消されない限り何も解決はしません。

言葉

言葉とはこの全く分離がない世界を分離の世界に変えるツールです。我々はこの言葉を記憶した時点で「切り抜かれた」世界に住むことになったのです。そしてどんなに切り抜かれた世界を作り出そうともこの世界が分離が一切ないこと自体は変わるわけがありません。ですから重要なこと、、それは言葉がファンタジーの世界を作り出すという事実です。全く分離がない世界に言葉による分離世界を作り出しているという事実に気づくことです。

ファンタジーをファンタジーと自覚する

我々にできることはこれしかありません、ファンタジーの世界をファンタジーと気づくこと。これだけです。今まで実在と信じて生きていた世界が100%ファンタジーであると見抜くこと、これしかできません。悟りとは「ファンタジーをファンタジーと見抜く」ただこてだけです。私が何かになることでも何かを成し遂げることでも断じてありません。その私が100%幻想の存在であると見抜くことです。

全体と「私」の分離

ある時

ある日突然、、「私」は居るのだけども「私」を観察するもう一人の自分が現れます。「私」を100%やるのだけれど、、、それを見守るもう一人の「私」が存在するのに気づくのです。「私」をやりながら、、、どこか他人事のように感じるのです。みんなが「私」と呼ぶ「私」は本当の私ではない、、、その気づきが起こるのです。

放っておけ

この「私」が世間でどのように扱われようともそれは本当の自分じゃなくて仮の自分であるという明確な何かが生まれます。周囲はこの体の中の「私」に向かって話しかけますが、、、一方でそれが本当の私ではないことを分かっている自分が現れるのです。その時「私」VS「周囲」はただのお遊び、喜劇になります。本当の自分にとってこの体の中の自分は偽りの自分であって深刻さが既にないのです。

何をしていても

リアリティがないのです、、、既に私物語からリアリティが消えていきます。それと同時に異常な冷静さが起こります。感情抜きにアクションが次々に起こります。そこには期待がありません。ただ冷静の中でアクションだけが起こるのです。そしてそれが気持ちがいい、、、、期待も願望もない中でただ気持ちの良いアクションだけが起こります。

悟る

不可能

「誰か」が「悟る」これは「この分離が100%存在しない世界」では100%不可能です。「誰か」も100%存在せず「悟る」という分離動詞も100%存在しません。よって「悟りを開く」という言葉自体が混乱を招くゆえに「非二元」「ノンデュアリティ」という言葉が近年使われるようになったのです。「目覚める」「解放する」この言葉も主語には「誰か」を連想させるゆえに混乱を招きます。

言葉を科学する

悟りとは科学です。言葉が何を起こしているかを明晰に分析することです。「苦しみ」は言葉が発明されたことで起こりました。では「苦しみ」を取り除くには「言葉」を明晰に明晰に分析する必要があるのです。この世界に誕生した言葉の全ては「切り取り」を起こします。この分離が100%存在しない世界に「分離」を引き起こすのが言葉です。言葉が何をしているか、、、ここに人類は完全に無自覚だったのです。

言葉とは分離のない世界に「グラス」という完全分離した存在が現れた!!!!と宣言するもの

「私」という言葉はこの分離のない世界に完全分離した「私」が誕生したことを宣言します。するとこの言葉はそのままに認識され、、、完全分離した「私」が誕生します、、、すると「エラー」が必然的に生まれるのです。そうではないことに気づくが起こるのです。このエラーが違和感であり孤独感であり分離感であり様々なネガティブな感情になるのです。

言葉

言葉とは切り抜きです。神という言葉を発すれば全体から「神」というイメージを切り抜きます。「神が居る」という言葉を発すれば、、、、世界から「神」を切り抜くのです。ですが神とは全部のことですから切り取られてしまってはその時点で「神」ではなくなってしまうのです。「ワンネス」という言葉を発した時点で世界から「ワンネス」を切り取りますが切り取られたワンネスはもはやワンネスではありません。ワンネスとワンネス以外が誕生します。

非二元

非二元という言葉は非常に優れた言葉です。この言葉は何を意味するかイメージしにくいのです。つまり世界から非二元を切りとる、、というのが難しいのです。切り取りが不能な言葉です。「悟り」とは「誰か」が「悟る」という切り取りを可能にします。この世界から「誰か」と「悟る」を切り抜くのです。これは悟りとは全く関係のない話です。悟りとは「この世界は切り取られた何かが存在しない世界である」ということの理解です。

客体・客体の会話

誰も聞いてもいない、誰も話してもいない

滅茶苦茶な話をします、ですがこれが真実です。友人と私との会話、、、人間業界的には「それぞれが話しかけそれぞれが話を聞きます」これが起こっています。ですが真実では「話しかける私も話を聞く友人」も100%実在しません。誰も居ないのに何が起こってうるのか??????何でもないところから会話が生まれているだけ、、それだけです。記憶から生まれ出した言葉がその体を通じて現れては消えていく、、その認識だけが起こっています。

記憶

記憶から私とあなたが生まれ出し、、記憶から言葉が現れでます。友人を友人と認識するのは記憶から現れ出た概念です。私を私と認識するのは記憶から現れ出た概念のことです。記憶というデータベースから認識が生まれ続け、、会話が生まれるのです。起こっているのは記憶から生み出された概念とこの体から生まれる言葉です。認識は現れ出た瞬間、認識そのものが起こるのです。

空想と真実

空想で起こっていることと、、真実はまるで異なります。「空想では私と友人の会話」です。ですが真実ではなんでもないところから言葉が生まれ続けたのです。そしてその認識は根源から起こるのです。空想を真実と捉える動きが起こり、、その空想に空想が記憶から現れ出るということが起こり続けています。

客体客体

主体客体ではない

二元論とは「私」が「グラス」を「見る」という対の理論です。この世界の「何か」が「何か」を「どうする」という理論です。ですが真実ではこの世界は分離が100パーセント存在しません。「何か」自体が絶対に存在しないのです。つまり二元論とは完全な空想幻想概念です。この事実を無視して、、「何か」が絶対に存在すると決め込むことで「違和感」が起こり始め、、苦しみになりました。

客体

この世界には「客体」と呼べるような実在は一切存在しません。なぜならばこの世界は100%分離がないのですから「客体」と呼べるような実在は存在できないのです。ですから客体とは記憶から生み出された「幻想」です。そうですこの世界にあることになっている全ては「幻想」です。幻想のことを「客体」と呼び幻想のことを「主体」と呼んでいたのです。

実在がない

この世界には実在は100%存在しません、、分離が100パーセント無いにも関わらずなぜその中に実在が存在するのか??????あるわけがないのです。唯一永続するものは「意織」だけです。「客体」を認識する意織これだけが存在します。「何か」を見るたびに「私」が対になって現れでますが、、これも幻想です。幻想が幻想を呼び起こし、、幻想ストーリーを起こすのです。

主体客体

実際は

「私がコップを見る、、私がグラスを持つ、、、私が音楽を聞く」これ全部概念、幻想、ファンタジーです。真実では「コップ」を認識し「私」を認識し「私がコップを見た」という思考が生まれます。「グラス」を認識し『持つ』を認識し「私」を認識し「私がグラスを持つ」という概念が生まれました。認識されるもの全ては「本当の私」ではなくコップもグラスも私も、、、全ては認識される対象に過ぎないのです。そしてその認識は記憶から現れでます。

全認識が起こり

記憶を通じて対象への全認識が起こり、、、その認識をつなぎ合わせて「ストーリー」が生まれます。「照明」が認識され「私」が認識され「私が照明を見た」という概念が生まれるのです。「私が照明を見た」は概念に過ぎず真実ではないのですがこの言葉の認識はそのままに認識されるため「違和感」が生まれます。これが苦しみの源になります。

本当の主体

本当の主体とは「認識される側」ではなく認識そのものです。この世界には分離が100%存在しないのでこの世界の中に何かを認識できる「存在」は実在しません。もしもあるとするならばそれはファンタジーとして実在します。「悪口を言われた私」は100%実在しません、、悪口も私も記憶から生み出された概念です。その概念が認識されそのようなストーリーが生まれ概念としてそのままに認識されたのです。

記憶が作り出した世界

記憶がなければ目の前の景色に「机」も「椅子」も「PC」も「照明」も「カーテン」も存在しません。信じられないかもしれませんがそれを机、椅子、PC、カーテンと認識できるのは記憶というデータが作り出したからです。我々は目の前の映像をありのままに見えていると「思って」いますがそうではなく記憶が作り出した「概念」を見ているのです。だから「見飽きる」という現象が起こるのです。

何かを求める

景色の中に「机」「椅子」「PC」「カーテン」を作り出し、、この体の中に「私」を作り出します。記憶から直接この「切り抜き」が起こります。「私」が現れ出た瞬間「居心地の悪さ」が現れでて、、その「居心地の悪さ」を「対象」を使って解消しようとする動きが起こります。この動きが記憶から直接現れ出るのです。じゃあ我々には何の策もないではないか???????勝手に自然に記憶から「概念」が現れ出るならばそこを止める術はないじゃないですか????????

大アリ

このメカニズムが苦しみを起こすのは「無自覚」だからです。このメカニズムに「無自覚」であるために苦しみが現れ続けるのです。つまりこの記憶からの「概念制作」の術を見破ってしまった瞬間「違和感」は起こりません。違和感とは記憶概念によって切り取られた「存在」が実在と信じることから起こるのですから。この術を見破ったら最後「違和感」から起こる「苦しみ」が消えるのです。

「幻想の私」をしっかりやる

仕事

仕事中は密なコミュニケーションが必要になります。その時「私の仕事」は確実に存在しそこに無関心であれば仕事は成り立たないでしょう。ですから「私」という存在はどうしたって必要になります。ですがここで重要なこと「この世界には分離は100%存在しない」ということです。つまり幻想としての私をしっかりとやるのです。

言葉で作り出した「私」

私とは言葉によって作り出された切り抜き幻想です。この幻想の私として仕事をします、コミュニケーションをします、仲間とも付き合います。ですがこれはどこまでいっても幻想ですから言葉が作り出しそれが記憶されたファンタジーに過ぎないのです。その100%の自覚を持つのです。実際には100%存在しない「私」は記憶が作り出したファンタジーである、、この100%の自覚を持つのです。

相手

仕事上の上司、部下、同僚も100%この世界には存在しません。100%分離がないからです。ですが記憶が作り出した幻想としては100%存在します。そのことを100%自覚するのです。するとどうなるか?????「違和感」が起こりません、孤独感、分離感が起こらなくなります。なぜか?????事実だからです。事実を事実そのままに受け取ってなぜ違和感が生まれるのでしょか?????この世界の苦しみとは「幻想の私」を実在と勘違いすることで起こるのです。