今日太郎くんからチビって言われた

家に帰れば

家に帰れば子供は母親に学校で起こった全てを話します。「太郎くんにチビって言われたんだよ」「次郎くんからは〇〇って言われた」、、、、、、、その話を聞いて母親は「そうなんだー」とただ話を聞きます。本人は真剣に真剣に話しているのになぜ?????母親は適当に聞いていられるんでしょうか?????

反応と知っているから

子供とは分かりやすい反応行動をします、、そこには主体が介在していないのです。何も考えてもいない、、、ただチビだからチビと呼んだだけ。。。そのことを知っているのです。だから親は何も心配せずにただ聞いていられるのです。ですがこれ「大人も同じ」ですよ。大人もただの反応行動を起こすのです。どんなに思慮深く反応しているように見えてもその思慮深い反応も反応です。

その反応に

子供はただ反応をしています、、、チビって言われた、、、、にただ反応して家で親に話しているのです。そしてこれ大人も同じです。思慮深い何かを言われてもそれに対する反応はただの反応です。そこから何に気付けるか??????深刻に捉える必要が全くないということです。子供のコミュニケーションに深刻さがないのがただの反射だから。。大人の思慮深いコミュニケーションもただの反応ならば深刻さはありません。

炙り出されてくる自我

正体が露わになる

今苦しいのならば間違いなく「自我」が存在しています。苦しみは自我生存確認です。居心地が悪いのならばそれは「自我」がどこかに住んでいるんです。どこにいるんでしょうか??????「自我」はこの分離が100%存在しない世界には存在できません。この世界とは分離した「何か」は存在したくても存在できないからです。するともしも存在できるならば「思考」の中だけです。

ゴミ出ししといて!!!

その瞬間「イラ」「居心地悪」が起こりませんか??????「ゴミ出ししといて!!!!」の言葉でなぜ「イラ」が起こるのでしょうか?????どうやらここら辺に自我生存の鍵がありそうです。ゴミ出しは誰が誰に頼んだのでしょうか??????「妻」が「私」に頼んだのです。その瞬間「違和感」が現れます。その瞬間「苦しみ」が現れます。その瞬間「分離感」が現れます。そこに気づくのです。

居ましたね?????

「ゴミ出しといて!!!!!」は紛れもなく「自我」に向かって放たれた言葉です。この言葉が現れた瞬間「自分」が思考の中に現れ出し「違和感」が起こるのです。そのことを徹底的に自覚します。何も存在していなかったはずが「記憶」から「自我」が飛び出たのです。そしてそれを防ぐ方法は皆無です。なぜならば「ゴミ出ししといて!!!!!」からの自動反応だからです。ここを見抜きます、、記憶から自我が現れ出るということは自我とは「記憶」であるのです。「記憶」の中に生息しているんです。だから絶対に絶対に存在できないにも関わらず「居る」わけです。

ゴミ出ししといて!!!!以前

ゴミ出ししといて!!!!以前には「ここ」に自我など一切存在していませんでした、、「ゴミ出ししといて」が引き金になって自我が記憶から自動的に現れたのです。この「自我」を全員が実在と信じているのです。記憶から反射でしか現れでないこの「自我」を実在と信じたから、、、苦しみ、違和感が起こるのです。ゴミ出ししといて!!!!!の相手は実在しない「記憶」です。

それが分かってだからどうなの???????

だからどうなの??????という質問が起こっている時点で「分かっていない」のです。それが分かっちゃうと「軽く」なります。なーんだ、、、私なんて本当は居ないんじゃん、、、になります。だって記憶が言葉に反応しただけじゃん。。。。です。「自我」の正体を突き止めると、、、、軽くなっちゃうんです、、問答無用で。みんなが思っている私って記憶の自動反応だったんです。

苦しみのすり替え

政治のせい、社会のせい、家族のせい

若者は思春期になるとあらゆるモノに対して攻撃的になったります。社会、学校、親、、、全て気に入らない、、、なんだこの鬱陶しい気持ちは、、腹立たしさ、、、むかつき、、、どこにこの怒りをぶつけようか。。。。。です。尾崎豊という歌手が40年前若者のカリスマとして持て囃されたのはまさにその代弁者だったからです。

自我形成

10代前半はまさに自我形成のピーク、、、この体の中に「自分」が居てこの社会を生き抜かなくてはならないという自覚を持つ時期です。この時期はよく分からない苛つきがおこるのです。なぜ起こるのかすら分からない、、、、、誰に聞いても正解がない、、、です。自我形成です。自我という存在が100%居ることを諦めなくてはならない時期なのです。「違和感」「居心地の悪さ」が内部爆発していきます。

怒りの矛先

本当は本当は自我が芽生えることで生じた「違和感」をそうとは気づけないわけですから、、その矛先は社会、学校、家族、自分自身、に行きます。社会が悪い、親が悪い、学校が悪い、、自分が悪い、、、となるのです。本当は何もかもが悪いのではなく「自分」をこの体の中に作り上げたことが原因なのです。この時期から社会か自分かを悪者に扱い、、そこに悩むというパターンが生まれます。

笑えてしまう

ギャグ

人間とは本当に本当にシンプルなトリックに引っかかり続けています。「俺はあの会社でひどい目にあった」だから今でも恨んでいます。。よく聞く話、、、普通すぎる、当たり前すぎる話です。『「私」が「会社」から酷い目にあった』これって第三者目線ですよね、第三者目線に立たなければこのような表現ってできません。なぜできるんですか??????なぜ第三者目線からこの事件を説明できるんですか?????簡単です、第三者だからです。本当は本当は第三者だからこの表現ができるのです。

全員が第三者だから

誰も誰もこのことに気づかないのは、、、全員が全員第三者だからです。この当たり前の能力が当たり前すぎて、、、すっかり忘れているのです。本当は第三者だから「私」と「あの人」の関係性を客観視できているのです。イメージとして「私」と「あの人」を思い描き、、このように言われた、、、ということは「私」が「あの人」にバカにされた、、、と分析したのです。その分析ができるのはそもそも第三者だからです。

第三者

「私」「会社」というのは第三者の中で思考として起こり、思考として認識されます。「私」「会社」という分離独立した存在は一切の分離がないここでは存在できないので、、「思考」の中でだけ存在するのです。そして思考として存在する「私」「会社」は第三者によって認識され、、、思考の中のドラマとなっていきます。そのドラマは上映された時点で「違和感」を生み出すため、、それが苦しみとなり蓄積されていくのです。そしてどこかで『「会社」に「私」は被害にあった』というドラマに仕上がっていきます。ですがその仕上がりこそがさらなる「違和感」を生みます。

焚きつける輩

あいつこんなこと言ってましたぜ

映画やドラマを見ていると、、こんなシーンありますよね??????脇役の耳打ちシーン「後ろの席のあいつ先輩のことあんなことこんなこと言いまくってましたぜ」、、、、です。それを聞いて主人公は「なんだと!!!」となります。主人公は後ろの席のあいつを睨みつけ、、復讐を誓います。この焚きつける輩が「記憶」です。「そういえばあいつにあんなこと言われた」「そういえば別れたあいつはこんなこと言ってたよな」こうやって何度も何度も焼き直しながらこのドラマが継続されていくのです。

反応するのは

今が苦しいからです、、今が苦しいから、、焚きつけに反応するのです。今が苦しくなければ「焚き付けに反応が起こらない」のです。ではなぜ今が苦しいのか???????今苦しいのは「過去」が原因でも「未来」が原因でもありません。今が苦しいのは今「過去からの記憶の世界」を生きているからです。今「過去の記憶」から上映された映画を見させられているからです。え??????今??????

目の前の景色

目の前の景色が灰色なのは、、、、目の前の景色が灰色なのではなく、、、過去の記憶から起こる「私ドラマ」を見ているからです。臨場感バリバリの私ドラマが今上映されています。その証拠に、、机、椅子、カップ、照明、パソコン、、、、の認識が今あるのは、、、過去の記憶からです。分かりますか??????私たちは今目の前の景色をそのままに見ているのではなく過去の記憶を見ているのです。だから分離した「対象物」が見えています。

寝苦しい夜

夢の中で

半端なく暑い夜のこと、、すっかりエアコンをつけ忘れて寝るとしましょう。。。夜夢の中で「襲われる、攻撃される、、重労働を負担させられる、会社が倒産する、妻と離婚する、、、」そして半端なく大変な状況に陥った時「パッと目が覚める」なんだ夢か、、、、、、、そしてエアコンのスイッチを入れます。

悟りと全く同じ

これ悟りと全く同じです。完全に同じなんです。今この現実の中で苦しいのは状況が苦しいのではなく、、、悟っていない(エアコンのスイッチが切れている)からです。勘違いが続いているから本当は苦しいのです、、、ですがこの苦しみは今現実がそうさせているとさらなる勘違いが起こるのです。この現実の中でこの苦しみを解消しよう解消しようとする動きこそが「エアコンのスイッチを付けない」動きなのです。だから目が覚めて(勘違いが解けて)全ての苦しみが吹き飛んだ時、、、なんだ自分で自分を苦しませていたんだ(エアコンが付いていなかったんだ)、、、と気づきます。

完全に見抜くまで

完全に完全に見抜くまで、、、何度も何度も、、襲ってきます、、、過去のトラウマ、、過去の事件、、将来の破綻、、将来の崩壊、、、、、、全部これ「勘違い」が起こす違和感がドラマ化されて再利用されているのです。騙されてはいけません、、、全部このドラマが真実であると思わせるトリックです。

記憶が作り出すエージェントスミス

過去

空想の中で「全く知らない人間が過去の記憶から湧いてきて、、ああだこうだ私の悪口を言ってきても」気にならないですよね???????空想で湧いてくるのは「過去に実際にあった嫌な思い出」です。これが何度も何度も練り直され焼き直しされて、、記憶から湧いてきます。なぜ???????嫌な思い出がなぜ自然と勝手に湧いてくるのでしょうか??????私物語の特徴です。

映画の回顧シーン

映画の中でも何度も湧いてくる回顧シーン、、その度に主人公は何度も復讐の誓いを立てます。ですがこれ同時にガッツリと映画に入り込むパターンです。この私物語が半端なく現実であると思わせるは激しく情動が起こる過去をフラッシュバックさせるのが一番なのです。そして日々の苦しみは「勘違い」が生んでいるんじゃない、、過去のあのトラウマだとする動きが起こるのです。

今起こる苦しみ

今私物語上映から来る苦しみを「過去のトラウマ」にすり替えることでさらに私物語に意識が置かれていきます。夜寝ている最中に暑さで寝苦しい時「夢の中で人に襲われる夢をみる」のと全く同じです。今「私という観念」が起こす「違和感」を「私物語中のトラウマ」にすり替えているのです。そういう動きが起こります。

本当の許し

全受容

人間の体から飛び出る全発言が「最適解」ならば、、、もう許す以外にありません。許すというよりも「受け入れる」以外に方法はないのです。「その発言が出ちゃった」これだけなんです、、、そして実は実は行動も全く同じ、、、、最適行動です。過去のデータに基づく「最適行動」しか起こりません。その行動がいかに「ヤバく」ても最適行動です。

完全自覚

データベースから自動で「最適解」が発言され行動される、、この事実を完全に自覚しますと、、、人間同士ではトラブルが無くならないのもしょうがないと開き直れます。だってそれがお互いの最適解だったのですから。そしてそのことを完全に自覚しますと、、、他人同士のトラブルが可愛く感じます。そして「私」と「誰か」のトラブルも許せます。というよりもトラブルになったとしてもどこか「他人事」のように扱えるのです。

自分の人生

自分の人生とはデータベースから飛び出る「最適解」が起こり続けるだけです。「今」というこの瞬間の認識から「データベース」が起動し最適解が今飛び出してきます。それをただ見守る以外に方法はありません。この体の中の「私」が自由意志で人生を選んでいるのではなく「今」という認識からデータベースが最適解を作り続けていた、、というオチです。

だからといって

許すわけにはいかない

会話とはお互いのデータベースから飛ぶだす最適解の連続のことです。全部自動で起こるのでそこには選択肢が一切ありません。そしてその会話の中で「嫌味」が飛び出ることも当然あります。嫌味が最適解として飛び出るのです。その時言われた相手は「冗談じゃない!!!!」が飛び出るでしょう、、それも最適解です。そしていくらその回答が自由意志ではなく勝手に現れ出た自動反応としても「我慢できない!!!!」が起こります。

それも最適解

ところがところが明晰に明晰に分析すれば「それでも我慢できない!!!!!」も最適解なのです。会話において「最適解」以外は全くもって出てこないのです。つまり我々は生まれて死ぬまで「データベースから飛び出る最適解」のみを言わされていくのです。それが記憶から飛び出る「最適解」であるという気づきがあった後も、、「最適解」のみを言わされて死んでいきます。

お気楽すぎる

分かっちゃっても分かっちゃってなくても「最適解」が出現し続けることに違いはないのです。分かっちゃって「最適解」を眺め続けることもできますし分かっちゃってなくて「最適解」を自分が選んだと勘違いしながら生きていくことも可能です。ただし分かっちゃった後の「最適解」は分かっちゃう前の「最適解」とは内容が異なるでしょう。

最適解

記憶

実は実は会話とは記憶から飛びだす「最適解」同士が連続して起こり続けることです。お互いのコンピューターがデータベースから最適解を自動的に計算して起こしているようなものです。「最近何している?????」この質問に対してデータベースが最適解を出し「ボチボチやっているよ」が出ます。ここには選択肢がありません。「ボチボチやってるよ」に対して相手のコンピューターから「こっちは大変でさー」が出ます。全てデータベースがなせる技です。

自由意思

大人の会話など間髪入れずに次々と会話が飛び出すわけですが、、あんなもの毎度毎度考えてなど行っていません。最適解が「ポン」っと飛びだすのです。そしてこちらの最適解に相手の最適解が「ポン」っと飛び出していきます。これを2時間とやるのです。全て記憶から自動的に飛び出すのです。

言っちゃった

いやーあの時なんであんなこと言っちゃたんだろう?????違います、、それが完全完璧な最適解だったんです。ありえないほど失礼なあの発言も完全に最適解として現れでました。だからノーコントロール。。。。しかし人間業界ではそうは受け取らない。。。しっかり自由意志があってその言葉を「選んだ」とされています。

違う

ですから会話とは完全に過去から起こるのです。記憶された過去の全てから自動的に言葉が飛び出します。今というこの瞬間に「過去」が飛び出すのです。今のその人(体)に向かって話しかけていますがそれは記憶上の「今」です。そしてそれは全て自動で起こります。二時間の会話では二時間最適解同士が自動で自然に起こり続けるのみです。