マンション

住む

超高層マンションに住みます、、半端ないコンクリート建築、耐震構造、、、、ですが同時に100%物質としては存在しません。100%物質でないならばどうやってそのマンションに住むんですか?????大丈夫です、この体も物質ではないから笑住んでいるように見えるし感じます、、ですが物質はないんですどこにも、、あるのは経験ただそれだけです。

マンションの香り視界

マンションに住めばその香り視界が広がる、、、、経験は半端ない、、経験は盛り沢山、、、ですが物質はどこを探しても存在しません。経験だけなんです、、どこを探してみても「見える」「聞こえる」「嗅げる」「触れる」「味わえる」という経験だけです。。。そしてその経験には主体が存在しません、物質がないのです。「経験」ただそれだけが存在します。「行為」もありません、、、「経験」だけです。

だから??????

この世界には物質は一切存在せず、、「経験」だけがある。。。このことが本当の意味で分かってしますと、、、、「物質としての私の人生」に興味が失せます、、無いのに興味が湧くって不可能です。「私の人生」とは経験を利用した概念です。経験だけは100%存在します、、ですが「物質であるこの体、私」は100%存在しないのです。そこが分かると軽くなります、というよりも重くなりようがないのです。

経絡

流すと

経絡をマッサージしますと確実に体は軽くなります。ですが同時に経絡という物質はこの世界には100%ありません。体も物質としては100%ありません。ですが経絡をマッサージしますと100%体が軽くなります。見た目上の経絡、触った感覚の経絡は100%存在し、、そこを流すと体が変わります。

チャクラ

チャクラという物質は100%存在しません、、、ですがその場所を開いていきますと、、体は軽くなります。その経験は起こります。物質が100%存在しなくてもそう見える場所、そう感じる場所をマッサージ、ストレッチしますと、、体が変わるのです。ですが体という物質は100%存在しません。

ヨガ

ヨガをすると体が整います、体が確実に軽くなります、五感が変わります。ですが同時にこの体は物質としては100%存在しません。五感という感覚は100%変わりますが、、、体は存在しません。感覚という経験だけは100%存在します、、この経験が「体という物質がある」という思考を支えます。経験は100%存在しますが、、体という物質は100%幻想です。

時間

時間とは

この体が物質としてあってこの体が東京駅に向かうには「30分間」かかる、、、これが時間という概念です。ですが実際にはこの体という物質がなく、、あるのは移り変わる視界のみです。この体が「ここ」から「東京駅」に向かうというのは空想です。視界がここと呼ばれる場所から「東京駅」呼ばれる場所に代わる、これだけです。そこには空間すらありません、物質がないのですから。そして時間もありません、空間がないのですから。「現在時刻12:30分」という時計の表記はありますが、、時計という物質は存在しません。その視界だけが現れでます。

時計が指し示す時刻

我々が時間が存在すると考える理由は「時刻」を指し示す時計の存在です。ですが時計という物質は存在しません。あるのはそれを指し示す時刻の表記それだけです。そしてそれは空間でもありませんからただの「経験」だけです。時刻が変わるという経験だけがります。。時間という存在はこの世界には存在しなのです。時刻が変わる、、、、だから時間があるという概念が生まれます。

時間がないと分かったとて

それでそれで人生に何かメリットがあるんですか?????違います、全く違います、、、時間がないことが分かるって人生そのものがないことに気づくことです。この世界には体という物質がないんです、、だから私の人生ってただの思考概念です。この体が「東京駅」という物体に行くのでなく、、この視界にこの体、東京駅が映るのです。その事実をつかまえて私が東京駅に着いたと「思う」のです。人生が実はなかったという気づきです。

友人

ない

この世界には物質が100%ありません、ですから友人と呼べる物体はこの世界には存在しません。ですが見た目上は触れる香ります。。。どこまでも100%存在するように感じれます。ですが同時に物質としては100%存在しません。だから友人が事故で死んだとしても、、、物質として死んだという事実は100%存在しません。そう見えるだけです。

ですが

見た目上友人が消えればもう、、その見た目上の存在はこの世界から居なくなります。物質ではないが、、生まれて消えるのは事実です。その友人の人生?????物質として存在しないのですからそのようなものがあるかどうかは全く分かりません。「友人の体という何か」はこの世界には存在しないのです。

時間も空間もない

この世界に物質が存在しないならば、、この見える世界は全部物質ではありません。つまりこの見える世界は「対象」ではなく「経験」です。「視界」という経験だけがあります。つまり空間ではないのです。空間がありません。空間がないのならば、、時間という存在も存在しません。時間が存在する場所がないのです。

体という物質

ない

体という物質はこの世界には存在しません。ですが同時に、、この体に異変が起これば(そう見えれば)必ず何か体験に変化が起こります。視界がぼやける、痛む、かゆい、だるい、、、などなどです。その時見た目上の体に異変が起こっています。だからそれをマッサージします、、症状が改善します。ですが同時に体という物質は存在しません。

お腹が痛い

腐った物を食べればお腹が痛くなります。ですが同時に腐った物という物質、体という物質はこの世界には存在しません。ですが見た目上「腐った食べ物」は存在し見た上の体も存在しそれが体に入ればお腹が痛くなるという体験は起こるのです。「痛い」という感覚は100%存在しますが「腐った物、体」という物質はこの世界には存在しません。

トイレ

トイレに行けば排泄が起こりますが、、排泄物という物質は100%存在しません。。そのように見える感じるだけです。食べ物という物質は存在しませんが食べれば、、排泄という体験は起こります。ですが排泄物という物質は存在しないのです。

物質

ない

この世界には物質という存在は100%存在しません、分離がないからです。ですからこの目という物質が物を見るということは100%ありません。口という物質が物を食べることもありません。脳という物質が何かを記憶することもない。物質的機能というのは存在しないのです。だからこの視界に目という物質は1ミリも関与していないのです。

でも失明すれば

失明という状態が見た目上起これば物が見えなくなります。これは事実です。ですがそもそも目という物質はこの世には存在しませんから、、見た目上そうなっただけです。見た目上、、耳がなくなれば音を聞けなくなります。ですがだからといって耳という物質がそもそもないことは事実です。物質に見える存在はあくまでそう見える存在なのです。

見た目上の目に

見た目上の目に異常が起これば、、視界はぼやけます、、ですが同時に目という物質は存在しません。「ぼやける」という経験と、、、「見た目上の目に異常が起こる」そう見える、、この経験が起こるのです。目という物質はどちらにしても存在しません。これは考えても無駄です、考えようと考えまいと、、目という物質が存在しない、、これが事実です。

神様

現れた?????

昨日夢の中で神様が現れたんです、、、ハッキリと見えました。。。。。やっぱり神様って居るんですね!!!!!ところで何でそれが神様と気づいたんですか???????なぜそれが神様ってわかるんですか????だってほらあの例の髭が生えていて、、お爺さんで、、空中に現れて、、、あのみんなが知っている雰囲気でしたよ!!!!!!そうですか、、、、じゃあ逆に言えば、、、知らない神様なら気づかなかったということですよね??????え????????

認識

そうなんです、、、我々は知っている存在しか、、認識できないのです。既に知っているから存在に気づくのです。知っている存在しか気づかないとしたら知らない神様には絶対に絶対に気づけないということですか?????そうです。じゃあ今景色に写っている気づくことができるこの対象は既に知っているから気づくのですね????そうです、、、ただそれだけです。

たまたま

知っているからその認識が起こるだけ、、、知っていないことは認識が起こらない、、、じゃあ目の前に「在る」物は知っている物の集合に過ぎないということですか?????その通りです。つまり我々は知っている(幻想)をただ見ていることになりますよ?????そうです、その通りです。だから100人が100人が同じ景色を見ても全く違う絵を見ているのです。つまり全員が全員の幻想を見ているのです。

これに気づく

我々は記憶が作り出した幻想だけを見続けて生きています。過去の記憶が作った幻想しか見ることができません。あるがままの今ではなく過去を見ているのです。だからこの今は常に常に正気を失い、、活気を失うのです。でもでも記憶がない人間なんて居ないのですから、、、過去しか全員が見えていませんよね???????そうじゃないんです、、、これを記憶が作り出した「幻想」と見抜くと、、、幻想は力を失い、、今に吸収されるのです。幻想は幻想と見抜かれていないから力を持っていて、、見抜かれると今に吸収されます。そこには「ここ」に映る幻想が幻想として現れます。

演劇

分かっている

なぜ人間界には演劇があってドラマがあって映画があってそれが楽しいのか??????簡単です、、分かっているからです。本当は分かっているのです、、、何が??????全く同じだということを。だから楽しいのです。本当は「ここ」しかなくて、、「ここ」に代わる代わるて人が現れ、何かが現れ、、それをそのままに認識しています。「ここ」に現れる「私」も登場人物に過ぎず、、、「あなた」も「彼」も「彼女」も「親」も全部が全部ここに現れては消える存在に過ぎないということを。そのことを分かっているから楽しめるのです。

エンタメ

エンタメとはつまり真実を思い出すヒントです。ドラマの主人公を気軽に楽しめるのだからこの「私」も気軽に楽しめるかも、、、、です。どこか客観的視点を「エンタメ」を通じて思い出すのです。だから何かホッとする。ところがエンタメの中の主人公は自身の存在を確信しながらドラマが進みます、そういう意味ではこの「私」の存在もリアリティが出ます。そこが限界です。

誰もいない

人っ子ひとり

誰もいません、この世界には本当に誰も存在しないのです。どこまでもどこまでも居るように見える、感じる、触れれる、味わえる、香れる、、、、のですがそれはあくまでの五感のみであって、、その人の存在証明にはなりません。裁判所で提出できるのは「五感」以上です。いやいや「口」から声が出てその人の言葉が聞こえますよ!!!!!それを確認したのは「見」「聞」ですよね!!!!!つまり二感です。その人が居るだろう二感があったということです。逆に言えばその二感でそう「予想」しているのです。

五感

声も聞こえるし、香水の香りもするし、触れれるし、、見えますよ!!!!!!その四感でその人が居ることを「予想」していますよね!!!!!やっぱり五感を使ってそう信じているのです。そしてその五感+思考+感情でそのまま「私」が居ることを予想しているのです。声が聞こえて、触れて、嗅げて、味わえて、思考できて、感情できるから、、、私が居ると信じているんです。

五感+思考+感情

誰もいないのならば一体ここには誰が居るんですか??????五感とそこから湧く思考と感情だけです。五感があるから、、、そこからその五感を利用した思考、感情が湧くだけです。五感があってその五感を利用した思考感情が湧くから「私」が居ると思考しているのです。

それが分かって??????

そのことが分かっていったい何になるんでしょうか??????私が居ることを信じた思考が湧かなくなります。私が居ない前提の思考が湧くようになります。私などすっかり忘れた思考が湧くようになります。究極の事実を前提にした「思考」だけが湧くようになります。五感はそのままに続きます、そこから五感を利用した「私」が現れません。だからあの体の中にも「誰か」を予想しません。

認識の操作

これは通常価格の半額です

この言葉何を意味しているのか????認識操作です。安いという認識を起こさせるために、、言葉でそのイメージを認識させます。言葉とはそのままに認識を起こさせるもの、、、だからです。ですがライバル店主がもしもそのスーパーに行ったならば同じように「安い!!」と感じますか?????感じませんよね。。。。それはその言葉がそのイメージを起こす道具に過ぎないことを知っているからです。ライバル店主は「半額」という文字ではなくただ金額を確認します。

「私」も認識操作

言葉とは認識操作です、、そのままに認識を起こせば、、その通りになります。そのことを分かっているから「言葉」をそのままに読み込まない、、、と賢い消費者は知っています。ところがです、、実は実は「私」も言葉による認識操作であることを誰も知りません。「私」も言葉が作った認識操作です。「太郎くん」「花子ちゃん」「鈴木さん」「山田さん」これ全部認識操作です。その言葉がなかったらその認識は起こらないのです。つまり本当は存在しないんです、、私もあなたも太郎君も山田さんも鈴木さんもです。存在するという認識を起こすためにこの言葉はあるのです。

幻想

言葉によってその「認識」を起こす、、ですが実際にはこの世界に「安い!!!」という事実も「私」も「あなた」も「太郎くん」も「鈴木さん」という個別独立した存在は存在しません。言葉とは「在る」「居る」という認識を起こすための道具です。実際にはそのような存在は一切存在しません。その言葉を覚えたことでその認識が起こったのです。