怒りの犯人
怒りの対象には主体の存在が居ます。政治家が許せない、、その時国家権力を好きなように振り回す悪名高き「誰か」の姿をイメージします。親のことを許せない、、その時私利私欲のために「私」を利用しようとした親をイメージします。怒りの矛先には悪意を持った「主体の存在」が必ず居るわけです。そしてこの「主体」VS「被害者私」という構図をイメージ化し、、、私物語を強固にしているのです。この苦しみを作ったのはあいつだ、、です。
ですが
その主体だと思っていた相手には自由意志がありません。この世界は絶対に絶対に分離できないので「相手」は全体を無視して自由に何かをする能力がないのです。悪名高き政治家も自由意志という能力を全く持ち合わせていないのです。分離が不可能なのですから。「自由意志が全くない悪名高き政治家」のことを怒り続けるって難しくないですか???????「自由意志が全くない私利私欲に動く親」を恨み続けるって難しですよね?????
構造上不可能
この世界には分離は絶対にありません。ですから自由意思VS自由意思というのは構造上不可能です。世の中の怒りの構図は「自由意思VS自由意思」になっていますが、、これ「ありえない」のです。構造上「ありえない」にも関わらずそうイメージして生きているのが我々です。なぜこのような勘違いが続くのか????それは自我、マイストーリーを維持しようとする動きです。