思考と全体

思考の力

多くの方は思考の力を侮っています。思考とは何でしょうか???例えば「私は世界にたった一人だ」という思考が起こった時には何が起きるか????同時に寂しいという感情が起こります。なぜ起きたのか????「私は世界にたった一人だ」という思考に全体、スクリーン、スペースが気づき、、この言葉を読み込み、、読み込むことでドラマ、イリュージョン、蜃気楼がこの世界に浮かび上がったのです。たった一つのこの世界に「私は世界にたった一人」というイメージが湧きがりました。これによって寂しいという感情も浮かび上がったのです。すると「友人に電話しよう!」という思考が湧き上がり、、それを全体、スクリーンが読み込むことでそのイメージが湧き上がります、、するとまたワクワク!という感情が湧くのです。

ドラマが始まる

思考がこの世界にドラマ、イリュージョン、映画を作り出しているのが分かりますね。文字の連続を読み込んだ全体は、、その文字が指し示すことをイメージ化していきます、、そのイメージは確実に浮かび上がり、、あるがままの世界に誕生するんです、確実に。それに伴い感情も湧き上がりドラマはより重層構造になっていくのです。ですがこのドラマは真実ではありません、真実はたった一つのエネルギーですから。ゆえにこのドラマの世界は居心地が悪く疲れるのです。

人間関係が疲れるのは????

「Aさんは日曜日何やってる????もし良ければカフェに行かない???」という誘いがBさんから起きました????この言葉はそのまま全体に読み込まれAさんという自分がイメージ化されBさんとカフェをするイメージも同時に起こるのです。これによって嬉しい!面倒!などの感情が浮かぶ上がります。Aさんは湧いてくる感情が楽しい!!!ならばOKと答え、湧いてくる感情が面倒!!!ならばNOと答えるのです。どちらにしてもあるがままの世界に「Aさん」「Bさん」というイメージが湧き上がることでその時点で「孤独」という感情も湧きます、、なぜならばAさんもBさんという分離した存在は錯覚でありそのイメージが孤独を起こすのです。

夢の中に居る

私は確実に夢の住人です、なぜならば私という存在はイメージでしかなく真実ではないからです。私がカフェに行く、、、は言葉が作り出したイメージです。私は生きるために働かなくてはいけない、、この思考はそのイメージをこの世界に浮かび上がらせます。夢をその瞬間に作り出しているのです。これらは全部嘘です。本当の私とはこの空間、スクリーン、スペース、、、言葉を読み込みイメージを瞬時に作り出す存在です。この体、この思考が自分というのはイメージに過ぎません。勝手に自分自身を「ちっぽけなイメージ」に押し込みその時点で苦しみを与えているのです。

この体をこの思考を自分だと思っているうちは、、

何をやっても満たされない

釈迦が国王という地位を捨てて山に篭ったのは、、その地位であっても満足に至れなかったからです。マイケルジョーダンが途中バスケットを引退したのは、、三回優勝しても本当の満足には至れなかったからです。北野武が映画を撮り始めたのはバラエティでトップを取っても満足できない何かがあったからです。この体をこの思考を自分と思っているうちは、、本当の満足は得られないのです。なぜならばその思考こそが分離感、虚無感を作り出しているのです。これは完全にトリックです。

この体と思考を自分ではないと思っている奴などいるのか?????

私は今まで生きてきて、、、「この体と思考が自分である」という認識ではない人間に直接会ったことはありません。つまり人類の99.999999%の人は、、「この体とこの思考が私だ」を認識しているはずです。ですが残念ながらそのような思考では釈迦、マイケルジョーダン、北野武のようにトップの立場を捨ててでも他を探したくなるのです。なぜか????「この体この思考が私だ」という思考自体が孤独感、分離感、虚無感を作り出す直接原因だからです。

この体、この思考が自分じゃないなら

この体、この思考が自分じゃないとしたら一体何が自分なんだ????簡単です、全部です、、、今起きている現象の全てに気づいている存在であり現象そのものです。この体、この思考にも気づいていますからこれももちろん自分です、、ですがそれだけではないのです。。その体が持っているコーヒーカップ、そしてその体が身につけている洋服、その体が腰掛けている椅子、、、、、全部です。今目の前に映る映像の全てが私なのです。だからこそ「この体、この思考だけが自分」という思考が湧き上がりそれが読み込まれると、、同時に虚しい、孤独が湧くのです。思考と感情はセットです。

思考が湧き上がりそれが読み込まれる

「この体と思考が自分」という思考が湧き上がった時に、、それを読み込むのは誰でしょうか?????全体です、本当の自分です、、本当の自分がこれを読み込みます、、すると、、、同時に虚しいという感情が湧きます、、それをまた全体、本当の自分が気づくのです。すると、、「この体とこの思考が自分」が〇〇して解消しよう!!!!が湧きます、、それを全体、本当の自分が読み込みます。するとまた虚しい、孤独感が湧くのです。こうやって無限ループに入っていきます。

全体の中で「マリオがあなたよ」という声かけが1万回起きた

鏡を見て「これが〇〇ちゃんよ」という声かけが1万回起きた

幼少期に、、この体に向かって、、「〇〇ちゃん」という呼びかけが1万回起きました、全体の中で。その声かけを聞いたのはこの体ではないんです、、、全体がその声に気づき続けたのです。全体から「〇〇ちゃん」という声かけが見かけ上の両親から起こり、、全体がそれに気づき続けるという現象が起きたのです。やがて見かけ上のこの体から「〇〇ちゃん」という発生が起こり始め、、「〇〇ちゃん」が定着したのです。やがて「この体が〇〇ちゃん」になり「この体この思考が〇〇ちゃん」になり「この体この思考が私」になっていきます。これが全体の中で起きたのです。

それを起こしたのは全体

これは全体で在るスクリーン上でただ現象として起きました。気づけば「この体この思考は私」という思考が毎日起こり続け、、この私が〇〇する、、、という思考が起き続けます。「この体でありこの思考である私が〇〇する」という思考は孤独感を起こし続けますからこれはそのまま苦しみになるのです。この苦しみを解消するために「この体でありこの思考である私は〇〇する」が続くことになり、、、何も解決しないまま人生が過ぎていくのです。

この体でありこの思考である私が〇〇してこの「苦しみ」を解消するでは、、

この体でありこの思考で在る私が〇〇してこの苦しみを解消しようでは何も解決しないと気づきが起きた人だけが、、、何かを成し遂げるではなく、、、悟り、解脱、解放以外には解決しないのでは????と根本解決に乗り出すのです。全体が勘違いをしていたことに気づく、真実が勘違いしていたと真実に気づく、、が起きるまでこれは続きます。

「この体この思考が自分」という洗脳

幼少期の洗脳

「この体この思考が自分」という思考は真実ではありません、これは思考、概念です。この概念を幼少期に我々は両親から埋め込まれます。なぜ埋め込まれるかといえば「この体この思考」を生き延びさせるためです。確かにこの洗脳によって「この体この思考」は生き延びることができましたが同時に孤独感という感情を発生させることになります。なぜならばその思考は真実とは異なるからです。真実はと言えばこの体、この思考、見える全てを生み出す存在こそが自分です。

便宜上「この体この思考が自分」と学習した、、に切り替える

社会に出れば「この体この思考が自分」という大前提でこの社会が回っていることに気づきます。ゆえにこの概念は完全に定着されます、、、、定着はされるものの、、これは真実ではなく偽りですから、、孤独感が常に湧き上がるということになるのです。結果人はお酒、ギャンブル、暴飲暴食、ゲーム、お喋り、、など何かしらにこの孤独感解消を求めるのです。この大前提のままでは苦しいので、、この事実に早く気づく必要があります。

自分だけ切り替えたって意味ないのでは????

社会の大前提が「この体この思考は自分」で在る以上、、自分だけがこれを切り替えたって意味ないのでは????と思うかもしれませんがこの世界は私の観念が投影した夢ですから、、、切り替えればこの世界が変わるのです。そして便宜上「この体この思考は自分」をやればいいのです。本当は違うのは分かっているけれど、、、建前上これを継続します。本当は地球が太陽の周りを回っているのは分かっているけれど、、天動説に合わせるみたいな感じです。

「この体この思考」が自分という思考

この思考が孤独感を生み出す

私たちはなぜお酒、お菓子、タバコなどの嗜好品を欲するのか????それは「この体この思考こそが自分」という思考が生み出す孤独感を癒すためです。本当は「この体この思考は自分」という思考は真実ではありません。真実はこの体、この思考、そして全ての現象を生み出すスペース、スクリーンこそが自分です。この体、この思考に限ったことではなく、、今目に映る現象の全てを生み出す存在こそが自分なのです。この勘違いにより発する感情が孤独感です。

「この体この思考が自分」という分離思考が分離感(孤独感)を作る

このメカニズムで人は孤独に陥り病んでいきます、、これを紛らわすために、お酒、タバコ、ギャンブル、暴飲暴食、買い物中毒、、と何かに中毒になり解消しようと心がけるのです。ところがこれは当たり前ですが根本解決にはなりようがなく、、、体もしくは経済が壊れるまで続くのです。この体もこの思考も自分ではあるのですが、、実は見える全てを生み出すスペースこそが自分自身なのです。これを認識しながら孤独感を感じることはできません。

思考が感情を作る

ネガティブな感情を作り出すのはネガティブな思考です、ネガティブとは分離のことです、、ポジティブとは統合のことです。ネガティブな思考はネガティブな感情(孤独感、虚無感)を作るのです。つまり我々は感じる感情から思考を確認し、、、その思考が真実とは異なることを認識できるのです。真実は至福でしかなく、至福の中に真実とは異なる思考が生まれる(この体、この思考が自分)ことで体と反応し孤独感が発生します。

ネガティブな感情を見逃さない

本当はここは至福しかありません、本質は至福だからです。ここに思考(この体、この思考が自分)が湧き出しました、、これによって同時に孤独感が湧き出します。この孤独感を解消するために「この体この思考が自分」は思考するか行動を起こします。ですが「この体、この思考が自分」という思考を保持し続ける限り孤独感が消えることは絶対にないので動いても思考してもラットレースのように解決しないのです。この全く解決不能な状態を釈迦は「苦」と表現しました。

浮かび上がる思考を「自分」と思う間違い

思考を自分と思うことで

我々は浮かび上がる「思考」を自分と勘違いする傾向があります。次々に湧いてくる思考をこそを自分と捉えることでエンドレスに湧き続ける思考に対し未警戒であるのです。実際には思考はただ湧いてくる現象に過ぎずこれが自分なのではないのです。ですが実際には思考が湧くことで「自分」が出現したと勘違いしそのことに無自覚なのです。

本当の自分とは

本当の自分とは思考に気づくスクリーン、スペースです。今からマックに行こう!!!この思考に気づくスクリーン、スペースこそが自分自身です。「今からマックに行こう!」という思考が自分なのではなくそれに気づく存在こそが自分自身なのです。究極を言えば湧いてくる思考を含む現象の全ても自分自身ではあるのですが、、人間は湧いてくる「思考」こそを自分自身と勘違いし偽りの自分「思考中毒」に陥るのです。

頭が良い人ほど、、、

頭が良い、思考の回転が早い人ほど、、、この思考こそを自分自身と勘違いする傾向が強く思考中毒。偽りの自分中毒にお陥ります。空いている時間常に思考を回転させ、、自分(偽り)の存在を確認し続けるのです。ですがこれは自分ではなくただの思考に過ぎないのです、、この思考を自分と勘違いすればするほどに本当の自分(スクリーン、スペース)を自分自身とする感覚を忘れるために苦しくなるのです。

偽りの自分自身(思考)の保存法則

思考は自分自身ではありません、ところがこの湧いてくる思考こそを自分自身と勘違いしますと、、、思考に意識が向きこれを保持しようとするために思考がさらに湧き続けるという現象が起きます。思考し続けることに意識が向き続け偽りの自己を保持し続けようとするのです。結果思考中毒になっていきます。偽りの自分(思考)が拡大すればするほどに本当の自分(スクリーン、スペース)は忘れ去られ、、思考に伴う感情に支配されていくのです。

思考の内容は感情を生み出す

思考こそが私だ、、この思考が、、分離感、孤独感という感情を生み出します。思考こそが自分だという思考は体に跳ね返り孤独感、分離感という感情を生み出すのです。この感情が苦しいためなんとかしてこの感情を解消しようと思考を沸き続けさせ解決しようとします、、ところが湧けば湧くほどに偽りの自己は大きくなり、、その思考こそがさらなる分離感、孤独感を起こすという悪循環を起こすのです。

思い込みが崩れる=小さな悟り

俺が世界一のボクサー

血気盛んな若者は俺が絶対に世界一喧嘩が強いと思い込み道場破りの感覚でボクシングジムの門を叩くわけです。ところが初日に先輩ボクサーにコテンパンにされて、、、目が覚める、思い込み、観念が瞬時に崩壊します。間違いなく自分が一番強いように見えていたにもか関わらず、、実態はそうじゃなかった、、、です。観念(イメージ)が真実の前で崩壊したのです。

思い込み(観念)って間違ってんじゃん

そうです、思い込み(観念)って間違ってるんです。若い時はイケメンになれたら、美女になれたら、高収入になれたら、大富豪と結婚できたら、、広い家に住めたら、、、、幸福になれると、、、そう見えていたんです(思い込み)思い込むからそう見えるんです。。ところが実際にはそう見えていただけ、、、この世界はそう見えているからと言ってそれを目指してはみたものの、、、全部が思い込みだった、、、ばかりなのです。そうです、、この世界は思い込んだように見えるようになっているんです。そして実際にそうなってみると、、全然違う、、です。

何度も思い込みに裏切られ、、

悟りとは何度も思い込み(観念)に裏切られ裏切られ続け、、、もう思い込み(観念)は十分だ!!!!!となった時に目指すものです。全ての思い込み(観念)を疑い、思い込み(観念)自体を恨み、、思い込み(観念)を自ら崩壊させる、、、これが悟りです。全ての思い込み(観念)が崩れ落ちた時に残るもの、、、それがたった一つのエネルギー、あるがまま、、本当の自分(至福)です。

観念の崩壊

例えば会社

多くの方は学生から社会人になる時に、、イメージで会社を選ぶわけです、、、大きい会社は良いはずだ、、IT企業は格好良いはずだ、公務員は仕事が楽なはずだ、商社はモテるはずだ、、給料の良い会社はモチベーションが上がるはずだ、、、このような各自イメージ、観念、価値観に沿って会社を選びます。ところが実際に働いて見るとイメージ(観念)と実態が異なるという事件が起きるわけです。一瞬にしてイメージが崩れ落ちてくれれば良いのですが二十年近くかけて築いたイメージですからそう簡単に崩れないのです、、やはりそう見えるわけです。そして徐々に徐々にイメージが変わってき、、最終的にそのイメージ(観念)が崩れおちるのです。そのタイミングで転職します。

例えば恋愛

恋愛も同じ、、最初はイメージでお互いが付き合うわけです。このような見た目の子は性格がこんな感じだろうな、こんな結婚観だろうな、こんな優しさだろうな、こんな面倒見だろうな、、、ところが付き合うに従いイメージと実態が乖離していくわけです。そして最終的にイメージ(観念)が崩れ落ちて別れることになります。

例えば悟り

悟りとは、、、まさかの、、、この体に自分が居るという観念(イメージ)が崩れ落ちるのです。あまりに人生が苦しすぎて環境に対する観念(イメージ)が崩れ落ちる前に、、、この体の中に自分が居るという観念(イメージ)が崩れ落ちたのです。観念、イメージの崩壊の、、最終形態です。この体の中の自分が生きるという観念、イメージが実態(日々の生活)と乖離しすぎて、、、、観念(この体に自分が居る)が崩れたのです。

偏見の塊=観念

夢を夢たらしめるもの

これは夢です、完全に夢です。我々が幼かった頃、、一日という概念すらありませんでした、、起きて目に映る何かと戯れ、気づけば寝ていて気づけば起きていて、、寝ようという動機もなく、、自分という存在すら居ない、、、時間という概念もない、、、ただ「在る」をやっていたわけです。ところが言葉を覚え始めた頃から全ての目に映る何かに「これは何???」を連発するようになるのです。そして目に映るすべてに名前を付けていき、、徐々に徐々にただ「在る」の世界から夢の世界、ドラマの世界が浮かび上がっていくのです。

自我は比べるのが大好き

あらゆる何かに名前を付け終わると、、、今度はどっちが強い、どっちが好きか???とそれらを比べることを覚えていきます。「私」と「妹」どっちが好き????「アンパンマン」と「バイキンマン」どっちが強い???と分離した確固を比べるということを始めていきます。こうやって強弱、優劣、短長をそれぞれに付けながら関係性を築いていくわけです。この延長線上で我々は人間に対しても優劣、強弱、老若と比較していきます。本当はたった一つのエネルギーに無理くり名前を付けさらに比較するということをやります。

この偏見がそのまま観念になる

この偏見の寄せ集めが観念になり、、その観念を通して我々はこのたった一つのエネルギーを完全に分離比較して見るというドラマを生きることになるのです。その結果あらゆる思考、感情が湧き上がりそれを「私」が回収していきます、見かけ上。幼児を除けば人類全員が偏見を寄せ集めた観念を所有しそれを通じてたった一つのエネルギーである世界を独自の世界(夢)に置き換えて見ているのです。

そう見えているだけだ

この事実が理解できてきますと、、見えている物に対し、、、それをそのまま信じるのではなく、、、今はそう見えているんだな、、、という俯瞰した感覚が芽生えてきます。例えばある人に対し嫌悪感を抱いても、、今はそう見えているんだな、、、と一呼吸置けるのです。そう見えているのは私の観念がそうさせているという感覚を持てるのです。私を取り巻く環境がこう見えているということは私がそういう観念を持っているからだ、、、という真実に照らした生き方ができるようになるのです。そして我々は真実そのものですから真実にやがて吸収されていくのです。

スクリーンが何かを成し遂げたいなど思うはずがない

全体、スペース、スクリーンはそのままで完全

我々の本質はこの現象を映し出すスクリーン、スペースです。この全体であるスクリーン、スペースが何かを成し遂げなきゃ、、、などと思うはずがなく、、、それらの感情、思考は「私が居る」という洗脳が生み出したものです。つまり完全なる現象です、その思い自体が。スクリーン、スペースは我々の本質、本性なのですが、、もしも脱洗脳、アンインストールが成功し「私が居る」がないのならば、、何かを成し遂げたいという思考は湧いてこないでしょう。何かを成し遂げたいという思考の現象は「私が居る」という洗脳とセットです。

在る、在る、在る、、、、からこの私が在るへ

在るという感覚、、これは幼児ですら持っています、、、在るは動物も持っているはずです。在るという感覚、、、これだけは失うことのない感覚なのです。在る=仏性、キリスト意織、神意識です。この在るという感覚と、、、この体が在る、、、という気づきが起き、、、次のこの体として在る、、、、この私(体)として在る、、、と洗脳が進んでいきます。最後は私は〇〇という名前で在るになります。気づきの全てを、、この私が気づいた、、になっていくのです。すると同時に不足感、違和感、分離感が湧き起こり、、それを埋めるために解消するために、、、何かを成し遂げなきゃ、、、が生まれます。

スクリーンに何かが上映された瞬間、気づく、在るが生まれる

スクリーンに何かが上映される、スペースに何かが現象化する、、、その瞬間、、、それに「気づく」が生じます、、「在る」が生じます。そして上映、現象化は随時行われますから、、気づく、在るが永遠に続くのです。これが我々の本質そのものです。その中でこの体は常に現象化、上映されますので、、この体が「気づく」「在る」全ての現象、上映を。。。。。という真実ではない思考が湧き上がり、、、それが定石になっていきます。この体が現象に気づき続けるので(誤解)、、、、この体の中には全てに気づく『人格、アイデンティティ』が存在するはずだ、、という思考も起こるのです。

そしてそれをお互いに共有する

人間、人類はこの思考を代々受け継いできました。この体が現象に気づき、この体の中には人格が存在すると。だから生まれた子供にこれを伝承していくのです、当たり前のように。私の体がこの現象を観察し思考し自由意思を行使しながら生きていく、、、という人生ドラマが始まるのです。私があらゆる経験をしその経験を重ねていくことで私の価値観、観念が形成されていきそれがこの夢にさらに投影されていきます。そして私の観念が投影された現象(夢)をみて「やっぱり!!!」が起きるのです。