音が色が香りが、、、

どこで感じるか

今部屋には音楽が流れています、この音楽科学的には、、耳の鼓膜が感じ取り、それが脳内で処理される、、となります。つまり脳が感じていることになっている。ですが、、実際にはどうでしょうか???音はもっと遠くにないですか????確実に脳内ではなく、、外にありますよね。これは光も同じこと、照明の光はどこにありますか???脳内ではなく、、そこにあるはずです。そしてそれが真実です。音も香りもその場所にそのまま気づかれているのです。私の脳が感じているなど後付け、空想、妄想です。

世界中の幼稚園児に

世界中の幼稚園児に「あそこに居る小鳥さんはどこに居るの???」と聞いて脳内に居ると答える子供は皆無でしょう。ワンネスそのものである子供がそう答えるということはそれが真実です。そして小鳥さんの声はどこで起こったの???と聞けば、、あそこ!!と答えるでしょう。つまり音もそこで起こっているのです。そしてこの目、この耳が感じ取ったと答える子供が居ないように本当はその場所がそれに気づいたのです。

間違っているのは大人

子供とは自我が形成されていませんから真実をそのまま口にします、、自我が形成され思考を学ぶことで、、そうかそういうメカニズムなんだという思考を覚えます。そしていつの間にかそっちが真実であるという大錯覚を始めるようになり「苦しい」が起こるのです。「苦しい」はいつも大誤解が起こすのです。「私が居る」も思考が作り出した感覚です、この感覚がこの世界で確実に起こるようになり同時に「苦しみ」「分離感」「緊張感」が起こったのです。ですがそのことには無自覚なためこの苦しみをなんとか解消しようと「思考」が起こり、、「この私が何かを手に入れることでこれを解消しよう」というストーリーが生まれます。そしてこの思考がまた「緊張」と「分離」を作るのです。

悟り本の大弱点

個人のストーリーベース

悟り本とは、、ある普通の生活をしていた人間が、、、駅のプラットフォームで突然「私が居ない!!!」が起こり、、そこから認識が180度変わってしまった!!!という話がほとんどです。そしてインタビュアーからあらゆる質問を受けて、違うんです!!こういうことなんです、が本丸ごと起こり続ける。全てのやりとりが禅問答化し読んでる方はさっぱり分からないという流れです。

地動説の質問をノンデュアリティという全く異なった真実で返すという苦しさ

「ノンデュアリティへの気づきが起きたあと、あなたの生活はどんな気分なんえすか???」「その私がもはや居ないんです、だから気分を所有する私がいない生活をしています」「??????」「じゃあその気づきが起きた後に困ったことはないんですか???」「困る私が居ないんですよ!!」「?????」となります。これって別に双方に悪意があるのではなく真実を私地動説の中で理解しようとするインタビュアーともう既にそれがない本の作者とのやりとりなんです。

質問者

質問者の大前提には「私地動説」ががっつりとありまたそれ以外の真実を知らないので、、真実の言葉を「私地動説」の延長線上で理解しようとします。ですがその延長線上には真実はないのです。ですから回答は常に「それがない」「それもない」「あれもない」と、、、質問の前提を壊すような回答に終わってしまいます。すると次第に質問者は質問ができなくなるという最後に陥るのです。

ノンデュアリティ には「私」「時間」「空間」が消える

なぜ????

美味しい料理を食べている最中に起こること「パスタという画像」「パスタからの香り」「パスタの食感」「パスタの歯応え」「パスタを食べる際の音」これだけです、、、これらをつなぎ合わせて「私はパスタを10分間ぐらいかけて食べました、本当に歯応えも香りも良く最高でした」となります。事実をつなぎ合わせて、、、「私が食べて、、感想を述べるという一連のストーリーを作り出したのです」、食べ終わった時に。幼稚園児はこのストーリーをまだ上手く作れません、ですから彼らには数々の経験しかないのです。。

「パスタ」すらも後付け

幼稚園児には「パスタ」すらも後付けです、、そして「香り」「歯応え」「食感」「音」これらの言葉も食事中は起きていません。大人には信じられないですが、、実は何も起きていないのです。ただあらゆる感覚というものが連続するだけです。そして食べ終わった際に10分間を過ごした、、という「思考」もない、、、時間も存在していないのです。言葉にできない感覚(これも言葉にできない)が連続してあったというだけなんです。

それが起こった

「私」がパスタを食べている最中実は、、、それが起こり続けた、、、、だけです。それ以外は全部言葉です。言葉が指し示す「何か」が起こっただけです。こっちが真実です。言葉が紡いだストーリーは後付けの妄想、空想です。この言葉が紡いだストーリーを真実であると思うと「緊張感と分離感」が起きるんです、これが真実です。ノンデュアリティ とは『言葉が作り出した空想、幻、概念の世界が「苦しい」』ならそこから出ちゃいましょうという真実からの提案です。

地動説からノンデュアリティ へ

地動説は辛い

我々が普通に過ごしている地球、この地球が周り我々はその地球の上に住んでいるという「考え方」、これが地動説です。あえて考え方と言いましたが、、、、実は地動説は真実ではなく考え方なのです。科学が証明しているのだから地動説は考え方ではないでしょ????違うんです、科学とは完成されていないんです、全く完成されていない科学が今「地球が回っている」という仮説を立てているのです。この地動説の特徴は「辛い」なんです。この「辛い」という感情を払拭できないんです。

ノンデュアリティ

ノンデュアリティ は説ではなく真実です。誰がそれを証明したんですか????証明したのは「私」です。え?????そうです、、私が絶対的に真実であると断言できることだけで導ける真実です。地球が回ってるってあなたは感じてますか????感じてませんよね!!!それって予想、空想、概念ですね!!!だから苦しんです。ノンデュアリティ は幼稚園児でも証明できることなんです。これが真実です。

「私」が見たって空想ですよね?????

目の前に美しい鶴が居ます、、、、鶴を発見します!!鶴だ!!!!!、、、、その後に人に言います、、、私は鶴を見たんです!!!!あれ???何か変わっちゃいましたよね??????鶴を発見した時、、そこに「私」なんていう存在は居ませんでしたよね!!!!私は後付け、これって話を盛ってますよ。

美味しいラーメンを食べた時

世界一のラーメン店になんとかして並んで入る、、、ラーメンが出てきて思わず三分で食べあげる!!!!うまい!!!、、、、、そしてその後に、、、、「私は世界一のラーメン食べました!!!!!」やっぱり、、私っていうのが突然出てきて、、話に乗っかってんです。お店に並びラーメンを食べ終わるまでの一時間に「私」なんてどこにも出てこないし登場しないんです。

ノンデュアリティ では当たり前のことを言うだけ

ノンデュアリティ とは当たり前のことを当たり前に説明することです。そこには後付け、予想、空想、妄想を一切居れないんです。なぜ妄想を追加するんですか????それは我々が小さい頃にそう学習したからです。全妄想を覚え切って、、それが社会の常識、一般教養になり、、この社会は成り立っているんですがその「私地動説」で生きていると「苦しい」のです。一方ノンデュアリティ は全く苦しくないんです、なぜならばそこには空想がなく、、真実しかないからです。真実とは、、実はそのままで平安なんです、平和なんです。どちらが良いかは明白です。

この生き方はあの生き方よりも良い

エゴの策略

ああいう人生は送りたくないよね、あんな人生はごめんだ、、あんな人生を送れたら幸せだよね、、、エゴはあらゆる人生を比較し、、優劣をつけようとします。私の観念が映し出したあらゆる人生は私の観念によって優劣をつけられ、、そのように見せます。ですがこれこそが自我をこのストーリーに留めておく大きな力になります。自我はああなってはいけない、ああなるべきだ、、と一生懸命この人生に焦点を当てて生きていくのです。

あらゆる人生の外に

本当の私とはあらゆる人生の外にあります。あらゆる人生に気付く存在です、あらゆる人生をそのように見せる観念を構築する力そのものです。この世界にあらゆる人生があるように見せる観念そのものを作り出す存在です。そこに気づかせないがために自我は良い人生悪い人生を作り出し必死にその中でもがこうとするのです。ああなってはいけないと必死になればなるほど目の前の人生に焦点が当たり本当の自分を忘れていられるわけです。

私は人生ではない

私とはこの人生ではありません、この人生を作り出した全てです。この主人公、脇役、時間、空間、全てをひっくるめて本当の私です。この人生ドラマの脚本、プロデューサー、舞台、舞台監督、照明、音声、、全てです。本当は何一つ分離などせず分離しているように見えているだけです、その分離しているように見える仕掛けも私です。何から何まで私であり、、、全部が私であることからこれは空(絶対)の影なのです。

比較からの卒業

自我は比較が大好き

自我は比較が大好きです、この商品よりもこっちが好き、このブランドよりもあのブランド、あの地域よりもこの地域、、、思考とは比較検討するのが大得意であり、、自我もその思考の一つです。ですから我々人間社会は常に比較比較比較、、です。ですがこの比較精神は悟りには邪魔になります。私は悟って多くの人よりも上に立とう、称賛を浴びよう、人格者と呼ばれよう。。。となります。つまり悟りすらも比較対象の道具にされるのです。

つまり

つまり悟った暁には、、、この自我は、、人よりも優位に立てると、、自我所有の悟りに貶められるのです。これでは悟りはむしろ苦しみの原因にさえなります。自我が抜け落ち、、一瞥体験が起こった際にその経験を所有する自我が君臨し、また自我ストーリーに戻るということです。悟りとは解放とは目覚めとは自我の解放にも関わらずそれすらも自我に所有されるのです。

個体の錯覚

この世界は空(絶対)の影、投影、蜃気楼です。その中に個別存在など実在するわけがなくそれゆえにこの世界はたった一つのエネルギーです、、ですがこの世界は観念、価値観によって個別する存在が多種多様に現れる世界に見ることができます。なぜか????ここは無限の投影だからです、たった一つのエネルギー(空)無限の投影場所なのです。だから観念によって無限の姿を写すのです。その中で偽りの私は比較検討し無限の世界に判断を下しさらに観念を書き換えてまた異なった無限の投影をしていくのです。ですがそれをしている限りは分離緊張の世界から脱出できないのでそこを見抜く必要があるのです。

これは空(絶対)の影だがただの影ではない

影には生命力はないが、、、

私の体の影、、、影には何のパワーもありません。影が何かに影響することは全くありません。あえて言えば影を見て私がそれに気づくだけでしょう。そしてこの世界は空の影です。それ以上でもそれ以下でもありません。今私の目の前に広がる世界は空の影です。ですから当然この影が空に影響を与えることもないのです。ただしこの影があることで影に気付くという動きはあります。

この影は空(絶対)の中にある

人間の影とこの世界である空(絶対)の影の違いは、、この影は空の中にあるということです。空の外には何も存在しえないのでこの影は空の中に突如としてできたものです。ですからこの空の影はただの影ではなく、空というたった一つのエネルギーの変容です。つまりたった一つのエネルギーです。影には生命力があるのです。だからこそ我々はこの世界に生命力を感じることができるのです。

私という感覚

この私とは錯覚であり感覚であり、、幻ですが、、、、そこには生命力があるのです。だからこそこに幻影には力がありゆえにリアリティがあるのです。だから突然この私など本当は存在しないんですよ、、と言われても全く理解ができないのです。私という感覚(生命力)を今感じているからです、誰かが。とはいえこの生命力に裏打ちされた影、現象はそれでも空(絶対)の幻影でありそれゆえこれは現れては消えていきます。私という感覚も現れては消えていきます。

ブラックボックス

疑わしきは無視

もしかしたら私が女子会に参加しなければ私が居ないところで友人Aと友人Bが私の悪口を言っているかも、、なんとなく気になるラインが来ている。。。。そのような時どうすることが正解なのでしょうか????多くの場合は探りのラインを入れたりして、、、起こっているかいないかを探ったり、もしくは無理して女子会に参加したり、、、するでしょう。ですがこれらは逆に悪口を現象化させます。友人Aと友人Bが悪口を言っているような雰囲気があるのならばそれを私は絶対に感じているのですから、、そこは関心が行くことで逆に現象化するのです。

このような場合は先ず、、

全ての問題はそこに執着があるか否かが試されます。もしもその友人二人に対して執着があれば間違いなくドラマに引き摺り込まれます、なぜか???自我はドラマに入って存在を維持するからです。ですからこのような場合は、、悪口を言っていそう、、という時点で関係を消去します。つまり自分からは一切連絡を取らない、そして悪口を一切言っていないような雰囲気ならば関係を続けると決めてしまいます。関係を自ら切ってしまうことで執着の糸が先ずは切れました。すると自我はドラマに入れなくなるので、、悪い関係自体を消去するのです。

良い関係だけを続けると決めてしまう

悪い関係でも関係を続けようというのは執着です、、執着は自我の大好物ですからここからドラマがわんさか湧いてくるのです。良い関係ならば継続しようというのは執着ではないので自我はドラマをそこでは作らなくなるのです。こうして全ての問題は執着を手放すトレーニングであると気付くのです。自我にとって一番怖いことは、、全てのドラマが終了し自身がドラマから追い出されることです。そのためには関心を常にドラマの中に向けてもらいたいわけです。

悟ると決めてしまう

関心を悟りのみに向けますと、、最小限のドラマ勧誘で抑えることができます。無意識だった車への執着、無意識だったパートーナーへの執着、、それでも無意識の執着は次々に問題化し、、ドラマの中に自我を引きずり込もうとするでしょうが、、それらは全て執着の膿み出しと決めてしまうのです。そしてバッサバッサと執着を手放していきます。

全ては練習問題

練習問題としてのエージェントスミス

心を揺さぶる問題が起こるといましょう、、この心を揺さぶる問題はなぜ起こるのでしょうか????簡単です。自我の延命です、、心が揺さぶる問題が起きれば自我をこれを解決するか逃げるかするでしょう、つまりこの自我ストーリーの中でアクションを起こすのです。その際に心を揺さぶる問題はどうあがいてもこのストーリー上に自身が居ることを強く強く意織させられます。これが映画マトリックスのエージェントスミスです。今お前はこのドラマの中で解決を図らないと大変な目に遭うぞ、、という戦略です。

関心ごとの全て

例えば見た目に全く興味がない男性が、、、ファッションを揶揄されても全く問題にはならないでしょう。問題とはその方が関心を持っている分野なのです、、例えばその男性がキャリアに意識が高ければ、、、そこで問題が起きる可能性が高くなります。会社の倒産、左遷、低評価などです。これによって彼は心を揺さぶられこのストーリー、この自分に強く強く関心を寄せます。自我はエネルギーが注がれ益々このストーリーにのめり込むのです。

問題が起きても

関心が高い分野は問題化(エージェントスミス化)し襲ってきますが、、そこに関心を向けてしまっては自我システムの思う壺です。そこに関心を寄せるのではなく、、練習問題がきた、、私はどうもキャリアに執着しているようだ。。本当に重要なことはこの私は大いなる存在であってこも見かけ上の私ではない、、だからキャリアの問題はそれを示すために起きたのだ、、と真実に戻ります。つまり執着が形になって執着を教えてくれているのです。

キャリアの問題は重要なことではない

キャリアの問題は、、自身が大いなる存在であるという気づきに比べれば全く問題がありません。自身が偽りの自分ではなく大いなる存在であるという気づきが起きればその問題は真の安らぎの中で解決されるからです。そして仮に解決されなくても執着に気付くことで、、自我の柵がまた一つ無くなり自我はパワーを失います。その時景色が輝いていきます。問題の背景が輝いてくるのです。

全執着が溶けていく

何か大きな問題、心が揺さぶられる問題が起きたときは、、その分野に執着があることを教えてくれています。その問題が執着を露わにしてくているわけですから非常に有難いことなのです。なぜ私はキャリアに執着があるのだろう????それは私がそこで高い評価をされたいと願っているからに違いない、なぜ評価をされたいかと言えば自分(自我)の存在をそこで証明したいからだ。だが自我は幻でありそこで存在を証明したとしても本当は証明されないのだから同じことなのだ、、となります。

やる気を起こす????

変だよね!!!

やる気が起きなくて悩んでいます、なんでもっとやる気が出ないんだ?????ノンデュアリティベースでお答えすればやる気は起きます!!!やる気って起こすものではなく湧くんです、、ではどうやったら湧くのか????これはどうやったら火山が噴火するのか????と同じぐらい愚問です。やる気って火山みたいに未知数なのです。ただしやる気が湧きやすい分野ってあるんです、趣味、パチンコ、カラオケ、、、それぞれにやる気が湧く分野ってありますよね、、、そこに時間を費やせばいいんです。

やる気を出させるカリスマ先生

いやいや世の中にはカリスマ講師っていうのがいて彼らは最大のモチベーターですよね????違います。そもそもやる気が出やすい人が彼らのところに集まりやっぱりやる気がでるよね!!!と騒いでいるのです、やる気を出させてくれるだろう人の場所に集まっている時点でそもそもやる気が出やすい人なのです。有名進学塾に集まる生徒はそもそもやる気が出やすいのです。

過去三年間はやる気が出なかったけど、、、

入社三年間はやる気が出なかったけど今年こそは!!!違います、、、辞めた方がいいです、、、過去三年間出なかったということは今年も恐らく出ないでしょう、、、違う職場でチャレンジした方が正解です。でももしそこでもやる気が出なかったら、、、、もしかしたら仕事自体にやる気が出ないタイプかもしれません、、諦めるか、、、もう一社チャレンジしてそこを確かめます。そして会社員ではやる気が出ないのならばフリーランスの仕事にチャレンジしてもいいと思います。