感情のドラマ

渡る世間は鬼ばかり

なぜあの人は????なぜあいつは、、、人間ドラマでは定石の感情、、これ騙されていますよ。このドラマがあるから人間はこの牢獄から抜けれないのです。あいつはなんで?????あんな悪習、悪癖を持っているんだ?????これなんです、、、相手の悪癖には原因があって、その悪癖をああでもないこうでもないと悩むのです。ですが残念、それ自然現象です。自然現象に悪癖ってないんです。

ここからが善癖でここからが悪癖

あいつのあの悪癖なんとかならんか、、これが人間業界の悩みの全てなんです。私のも悪癖はあるが、、そこはなんとなく原因は分かっている、、、ですが他人の悪癖は原因が分からないから、、、困るのです。こうやって原因不明の悪癖に自分も周囲も混乱しきって生きていくのが人生です。ですがその苦しみ一瞬で解決します、、なぜかと言えばひとつたりとも全悪癖とも、、自由意志なく起こっています。だからこれに対して人間が覚悟することとは「悪癖は自然現象である」ということです。

親への恨み、家族への恨み

ほとんどの多くの人の恨みの根底には家族、特に両親への恨みがあります。ここが解消できないから、、、次に進めないのです。ですがこの両親への恨みも一瞬一発で解決します。それは「両親には自由意志がない」これです、全くないのです、、、、だから恨んでもいいですよ、、、恨み尽しても、、、でも何を恨むんでか?????相手には自由意志がないにも関わらず。。。。

放っておけ

全て

私たちは実は全部を放っていけばいいのです。全部です、、、見た目上はあらゆる問題が起こります、、、ですが全部放っておいて大丈夫です。本質的な部分では何も問題は起こりません。何も。例えば会社を首になり親も体調が悪く子供も不登校だ、、それでも放っておけばいいのですか??????はい、何も問題は起こっていません、実は。全ては全ては自然現象です、自然現象に問題は何もないのです。

とはいえ、、頭の中は常にグルグルです

そうですか、、その「頭の中のグルグル」、、、これが問題だと思っているわけですね????それも何も問題はないのです。それも自然現象です。だから、、、それも放っておいてください。全思考、全感情、全行動が自然現象です。だから何も問題は起こらないのです。

それが分かってくると

それが本当に本当に分かってくると、、、思考が全く湧いてこなくなります。だって全部が自然現象であるという気づきの中で思考が湧きますか??????公園に行けばあらゆる植物があらゆる育ち方をしています、、それを見て思考が湧きますか?????湧きませんよね??????そうです、、湧くわけがないんです、、そして仮に仮に思考がグルグル回ってもそれも自然現象ですから問題は何もないのです。

そんなことを考えたのは誰?????

母親

なんであなたはそんなこと言うの???????なんであなたはそんなことやるの???????これを延々と聞かされた子供は「言動とは自分が作るもの」という思考が浮かぶようになります。そうか!!!!言動って自分がやるんだ!!!!、、、、、、です。「この言葉もあの言葉もあの行動もこの行動も、、、全部自分っていう存在はやるんだね」という思考が起こるのです。

そこから

学校で「〇〇ちゃんが悪口いってきたよ」「今日は〇〇ちゃんが悪さして捕まったんだ」「今日は〇〇君」、、、、、、と、、、主語には〇〇くんが付くようになるのです。結果、、、僕が悪さしちゃったらどうしよう、、、僕が怒られるようなことしたらどうしよう、、、、って思考がグルグルグルグル起こるのです。

確信

これは大人になっても続き、、、全言動は「私」がやっている、、、全言動の責任は「私」が背負う、、、、となるのです。この大前提こそが孤独感、分離感を作り出し、、、苦しんでいるにも関わらず当然そこには気づかず、、、よって、、、「私」は次から次へと課題解決、タスク処理に追われていきます。

評価を求める必要がない

自由意思があるから

自由意思があると思っているから、、その判断力を客観的事実として認識したいという欲求が生まれます。自由意志を行使して結果を出したところで「苦しい」のですからこの苦しみを解消するために「評価」を求めます。その評価が異性、パートナーだったり、、金銭的評価であったり、社会的評価であったりします。それを求める根本には「苦しみ」がありその土台には「自由意思」があるのです。

自由意思がないと分かれば

自由意思がないと分かりますとそれを行使する「個人」という存在も消えてなくなります。よって分離感、孤独感が消えてなくなり、、つまり評価でもってそれを埋めようとする衝動が消えるのです。自由意思があると思っているからそれを行使する「個人の責任」が重く重くのしかかり分離、孤独感を痛烈に感じていたのです。ですがもう個人評価を気にしなくていいのです、だって個人の自由意志はないのですから。

評価されても

そして仮に最大限の評価を受けようとも、、、自由意思がないのですから「ラッキー」でしかありません。本当に本当にただ感謝です。と同時に評価をしてくれた方々に対して優越感すら湧かない、、、なぜならば、、、自由意思がないからです。俺は私はあなた達よりも優秀であると思うためには「自由意思」が必要なのです。つまりもう誰かよりも優秀、誰かよりも劣っているという優劣ゲームからも出れます。

その人の人生がないから

成長もない

周囲は雑魚キャラです。ですから基本成長しません、そしてその根拠にその人の人生というものがないという点も重要です。ないんです、その人の人生は。雑魚キャラに雑魚キャラの人生がないのだから成長もない、、ということです。ノコノコが会うたびに成長していたらいかかですか????????しんどいですよね。。。。そういうことです。

変化はある

勿論この世界は移ろい行きますので、、、変化はします。ですがそう見えるだけです。そう見えるという経験があります、、そう感じるという経験があります、、そしてその経験には主体が存在しません。周囲の雑魚キャラにも人生が存在せず、、この経験にも主体が存在しない時、、、誰もいない、、、という気づきが起こるのです。

マリオも雑魚キャラも

一切成長はしません、、、マリオも変化するだけです、、、雑魚キャラも変化するだけです。その中で気づきだけが起こっていきます。その気づきは大きな流れでは周囲への過剰な関心がなくなり、、自分への過剰な関心もなくなっていきます。最終的には周囲にも自分にも過剰な関心が無くなり、、、最後はただの風景であることに気づくのです。ですがそれは殺風景な風景ではなく生そのものです。

周囲

変わらない

周囲は自然現象です、、、花、植物、木々と全く同じ、、、周囲の人間は自然現象です。だから周囲に対して気を使う??????無駄です、、自然現象ですから。そうじゃなくて、、、ただ受け入れるのです。受け入れたらそれで終わりです。周囲をこねくり回す?????いやいやそれなんのためにですか??????自然現象と比較して何が意味があるのですか??????

自分

自然現象の中に「自分」という存在を作った時その時だけ、、、、比較が生まれます。孤独で分離で辛いから、、、比較してマシだという感情を味わうのです。もしくは比較して劣っているという感情を味わうのです。無駄です。勿論そのような比較の時期も起こります、、、、完全完璧にそれが起こります。ですが比較しての幸福、不幸は、、、ただの感情に過ぎません。

感情じゃない

悟りとは感情ではないんです。悟りとは比較によって生まれた感情とは全く関係がありません。比較によって生まれた感情は儚いものですよ、、という気づきです。比較によって優劣が起こりその感情が起こっても儚いですよ!!という話なんです。その儚さに気づき、、、実は「私」とはその「認識」でしかないかないことに気づきます。本当の私とは「認識」です。

ドラゴンクエスト

雑魚キャラ

ドラゴンクエストをやっている時に、、あらゆる「雑魚キャラ」が登場するわけですがその雑魚キャラに「なぜ??????なぜレベルアップを目指さないのか??????」と得得と語る勇者っていませんよね??????うざいですよね??????ハッキリ言って。。。。。。。そうです、、、、このゲームではレベルアップは自分だけでいいのです、、自分だけしっかりレベルアップすりゃーいいんです。周囲はただの景色ですから景色のレベルアップってありえないのです。

さっさとレベルアップして悟れ

周囲の雑魚キャラを気遣って俺はまだレベルアップをするのは辞めよう?????????何それ??????です。周囲は雑魚キャラですからレベルは100%上がりません、、、上がったら自分が上がったことに気づけないのです。だから絶対に絶対にレベルアップなんてしなくていいのです。周囲のことなど気にしている暇があるならばさっさと悟っちゃってください。

両親も友人も昔のまま

景色ですからそれでいいのです。何もかも問題がありません。なんか自分ばっかり意識が上がって会いづらいんですよね???????当たり前なです、主役はさっさとレベルアップして悟るんです。このゲームは主役だけレベルアップして主役だけが悟り、、、あれ??????主役だと思っていた俺は実は存在すらしていなかった、、と悟るのです。

私だけ悟っていいんですか?????

いいんです

騙されちゃうんですよね、、、だって周囲は悟りとは完全無縁、、、なにそれ?????って感じで生きているように見えるんです。ですが実際には周囲の人、人生は存在しないんです。だから誰一人苦しんで生きてなどいないんです。唯一苦しんでいるのはこの見かけ上の「私」だけです。だからここから苦しみが消えればそれで終わり、、最初から最後まで苦しみは残念ながら「ここ」にしか存在しないのです。周囲もみんな苦しんでいる???????ないです、残念ですが。

だから

もったいぶって自分だけ悟るのは悪いから、、、みたいな謙遜は無意味です。私だけってなんかズルい気がするんですけど。。。。。違います、、大きな勘違い、、、残念な勘違いです。苦しみは最初から最後まで「ここ」しかないんです。よって私が苦しみから救われた時「ここ」には苦しみが消えるんです。だから悟っていいのです。だから悟っても誰も妬まないのです。

ここ

ここには「これ」だけがあり「これ」以外は何も起こりません。「これ」が「見」「聞」「嗅」「触」「味」という言葉で言い表すと「それ」が起こります。そこに「思考」という経験が加わります、、、この「思考」という言葉で言い表す経験の中に「自分」も立ち現れては消えていくのです。だから悟りって天変地異が起こるわけでもダイナミックにエネルギーシフトが起こるのでもありません。ただ自分という概念を含む「思考」という経験が現れなくなるだけです。驚くほどシンプルなことです。

究極のお気楽

ろくでもない人生

俺みたいに生きたら最高の人生だよ、私みたいな人生って素晴らしいよ、、、全部嘘です。自己啓発セミナーのあの独特な緊張感。人生変えて輝かせましょう!!!!!!的な、、、、、なぜあそこには一種の嘘臭さがあるのか?????なぜあそこには変な緊張感があるのか????????なぜ目がどこかで寂しさを訴えるのか??????それは分かっているんです、、この人生は輝き続けることがないことを。

何一つ自由意思がないのだから

何一つ、全く自由意志がないのだから、、、、どうやったって人生は波乱万丈、ノーコントロールです。明日急に魔がさして何かをやってしまう可能性を100%全員が所有しているのです。だからだからYahooニュースには連日連夜スキャンダルが踊るのです。文春砲のネタが尽きないのは、、、、誰もこの流れに逆らえないのです。つまり人生とはどうしようもないのです。どうしようもない人生しか存在しないのです。

それが分かれば

人生とは本当に本当にどうしようもない、、このことが分かると、、、急に急に世界が開けてきます。だって緊張する必要がないし、何かを追い求めなくてもいい、、求めるデフォルトが必要ないのです。だから全員が全員どうしようもないこの人生を生きています。だから気楽なんです、、だから何でもいいのです。だから失敗も成功も存在しないのです。

悟り

悟りとは、、究極の俯瞰です。これ以上俯瞰できないレベルの俯瞰です。その視点に立った時、、、成功も失敗も存在しないことがありありと見え、、、究極のお気楽になります。強制的に「お気楽」に連れ戻されます。何も目指さなくてもいい、、だって全部自動で自然現象として起こるのですから。このドサっと重りが抜け落ちた状態が悟りです。

裏切り??????

ない

裏切るとは、、、お互いが「自身の利益のために相手を利用する」ことです。表面上は絶対にそれをしないと約束しておいて実際にはそれをやってしまう、ことです。これ人間業界で「裏切り」と言いますが、、、、何も分かっていません。自由意思がないのです、個人も居ないのです、、、、、裏切るにも裏切りを結構することをコントロールできることが不可能です、構造上。

放っておく

だから周囲の人間に絶望するのではありません。周囲とはそのようなものだ、、こう認識するのです。周囲とはなんでもやるのだから、、そういう認識で相手の行動を予想するだけです。こういう状況では彼はこうするだろうから、これをする、しないを決めるのです。そしてごく稀に予想が外れることもあるわけです、これを人間業界では「裏切り」と言います。

人間不信

知人からとんでもない裏切りにあって借金1億円を払うことに、、、、たまーに聞きますよね?????????違うんです、、これ、、、、その知人には自由意志がないので、、、、裏切るも期待に沿うも知人の意志では不可能です。ただ反射、反応として何かが見た目上は起こります。その反応がそういうことになるということです。