自由意思があるから
自由意思があると思っているから、、その判断力を客観的事実として認識したいという欲求が生まれます。自由意志を行使して結果を出したところで「苦しい」のですからこの苦しみを解消するために「評価」を求めます。その評価が異性、パートナーだったり、、金銭的評価であったり、社会的評価であったりします。それを求める根本には「苦しみ」がありその土台には「自由意思」があるのです。
自由意思がないと分かれば
自由意思がないと分かりますとそれを行使する「個人」という存在も消えてなくなります。よって分離感、孤独感が消えてなくなり、、つまり評価でもってそれを埋めようとする衝動が消えるのです。自由意思があると思っているからそれを行使する「個人の責任」が重く重くのしかかり分離、孤独感を痛烈に感じていたのです。ですがもう個人評価を気にしなくていいのです、だって個人の自由意志はないのですから。
評価されても
そして仮に最大限の評価を受けようとも、、、自由意思がないのですから「ラッキー」でしかありません。本当に本当にただ感謝です。と同時に評価をしてくれた方々に対して優越感すら湧かない、、、なぜならば、、、自由意思がないからです。俺は私はあなた達よりも優秀であると思うためには「自由意思」が必要なのです。つまりもう誰かよりも優秀、誰かよりも劣っているという優劣ゲームからも出れます。