構造的無理を全部請け負う「自我」

自分がやりました

容疑者は最後に刑事の前で吐き出します「私がやったんです」と。。。刑事はようやく認めた容疑者の説明を受け「黒」と断定します。ですがですが、、その殺人を犯した「自分」とやらは一体どうやってそのアクションを起こすことができるのでしょうか??????被害者の首を締めたとしましょう、、この手で、、この手は腕によって動かされます、この腕は肩甲骨から、、この肩甲骨からの動きは脳内シナプスから、、脳内シナプスの動きは「自分」から、、「自分」の動きから「どこかから」「どこかから」の動きは「さらなるどこかから」となります。動きの全ては「自分」を起源にしていると「刑事」は思っていますが「自分」のその動きが自然現象的に突発的に起こるならばそれは意図ではありません。つまり「自分」は白になります。

突発的でないのならば

「全ての動きにはそれを動かす動きが必要になる」この理論でいけば「自分」を動かす何かがなければ「自分」は動くことができません。自分を動かす何かが存在すれば、、その何かを動かす存在が必要になります。この流れは最終的にはビッグバンにたどり着くのです。時間軸で考えれば全ての行動はビッグバンから起こっています。被告、容疑者は「ビッグバン」です。そしてビッグバンを起こすにはやはり何かが必要になるのです。空でしょうか、、空からビッグバンが弾けるにしても、、その弾ける動きにも動きが必要になります。つまりこの理屈は構造上ありえないのです。

悟り

我々はいつの日か全部の動きの根源を「自我」と決めて「自我」が思考感情行動を生み出していると「想定」し生きることに決めたんです。ところが「自我の動きを動かす何かが必要になる」という事実からは逃れることができず、、この理論は破綻しています。ですがそれでも今人間業界は「自我」ありき「自由意思」ありきで回っています。悟りとはこの事実を「理解」することです。今事実を理解できた時「自分」とは所詮お飾りで実は何もしていないことに気づきます。すると普段の人間関係が一変します。誰かを責める、誰かを恨む、誰かを羨むがなくなります。そして自分を責める自分を憂う自分を誇る自分を、、、無くなるのです。だって何もしていないのだから。